独歩の独り世界・旅世界

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カタルーニャ(Catalunya)賛歌 Homage to Catalonia

 ご存知の方も多いと思うが‘カタルーニャ(英語読みはカタロニア)賛歌’はオーウェルのスペイン戦争体験記である。わたしが今回参考にした資料のひとつなのだが、この本は45年前大学の語学の授業で読まされた記憶があって、オーウェルの名前とそのタイトル名だけは覚えていた。内容についてはまったく記憶になくて、すっかり飛んでしまっていた。で、ちょっと気になって今回日本語訳を読み直してみた。この中に前回の問いの答えが凝縮されているのではないかと思ったからである。何故ならそのタイトルが、まさにカタルーニャ賛歌だったからだ。しかし、そこに描かれていたのは、もちろん題材がスペイン戦争で(80年前の出来事)その地がまさにバルセロナのあるカタルーニャであったが、直接的にカタルーニャを称える箇所はそれほど多くはなかった。それは本を読めばわかることだが、結果的に彼が義勇軍として戦った共和国政府軍は敗れ①、しかも彼の所属していた党派が、共和国政府軍内の内輪揉めで弾圧される②ということになって(実際の順序は②が①より先)、彼はこの戦争自体にほとんど愛想を尽かしていたことによるものと想像できる。それでも、これは詳しくは言及されてはいないが、まず何といっても彼のファシストに対する憎悪とカタルーニャという地が反ファシズムの地、その拠点であったことが、予てから広く世に知られていたことと外国人でありながら義勇軍に参加せずにはいられなかった心情は言外に読み取ることはできた。また、その従軍当初のそのグル-プのあり方が、恐らく普通の軍隊ではありえない完全平等な人員構成と、かなりフランクな関係性で成り立っていたという表現がみられた。やはりそのへんはスペインならでは?そしてカタルーニャの当時の雰囲気を伝えているように思えた。わたしはこのカタルーニャの地とその歴史性が、バルセロナの魅力をとく鍵に他ならないと直感していたのであった。

 問題はそのスペインの歴史というやつだった。ほとんど専門外なので詳しいところまでは知らないし書くこともできないが、どうやらカタルーニャという地はスペインの中でも特殊な地で、去年スコットランドの分離独立の騒ぎのときにも話題になったが、ここも分離独立の気運の高い地であること、カタルーニャの住民は根強い郷土意識<カタルーニャ主義>の持ち主であることがわかってきた。そういう意味では確かに15世紀後半にカスティリャ王の王女イサベルとカタルーニャアラゴン王国の皇太子ファランの結婚によって実質的なスペインの統一をみるまでは、カスティヤ(Castilla;マドリードを中心とした一地方をそう呼ぶが、今はその名称がスペインを意味するようになっている。例えばスペイン語のことを一般的にCastellanoというように)とカタルーニャは別の国で、それぞれ独自に発展した歴史があった。むしろそれまでは地中海貿易等で広大な領土を誇ったカタルーニャのほうが様々な面でカスティヤを凌いでいたようであったし、その後も何かにつけて反目しあっていて、とくにカタルーニャの首都マドリードとその地のカスティヤ政権への対抗意識は並大抵のものではなかったようだ。となると前回わたしがたてた‘バルセロナはスペインか?’という問いもまんざら的外れではなかったということになる(イベリア半島の歴史、その多様性はたいへん面白いのであるが、これ以上参考にした資料の受け売りをしてもわたしの無知が露呈するだけなのでこの辺でやめにしておく。しかし、そういったことを知るとまた行きたくなってくる‥)。

 あるいは、そんなことはすでに常識の範疇だったのかもしれない。しかし、そうとは知らずに2回も訪れていたわたしは、それでもここの言葉はスペイン語ではないな、ということは気づいていた。もちろんわたしの拙いスペイン語はわかってもらえたが、地元の人同士の会話や地下鉄のアナウンスはスペイン語ではないことだけは聞き取れていた。また書かれている文字も判別できないでいた。今にして思えば、あれがカタルーニャ語だったのだ。そのカタルーニャ語ひとつをとっても、それは決してスペイン語の一方言ではなくて、れっきとしたラテン語ロマンス語から派生した一言語で、だからフランス語・スペイン語ポルトガル語・イタリア語などと同格なのである。カスティヤの支配に甘んじてきて、ほとんどその使用を禁じられていたカタルーニャ語は、ようやく19世紀の半ばから自らの言葉としての復権を果たすが(その後フランコの時代にもまた禁止されたりするが)、言葉は民族のシンボル・アイデンティティだから、自らの言語を尊ぶ特別の想いは、それを禁じられた期間の長さに比例して増幅していったであろうことは想像に難くない。今は、大幅な自治カタルーニャ公用語としての使用が認められているので、それとともにますます民族自立の気運が高まってきているようにも窺える。この地をスペインとしてくくることには無理がありそうだった。そうやってみてくると、ガウディの作品一つ一つもガウディの強烈なカタルーニャ主義が体現されたもの、カタルーニャ魂の反映と見ることができるのかもしれなかった。

 カタルーニャの自由な空気、人々のよそ者に対する寛容さなどがあいまって、旅行者にとってバルセロナはほんとに居心地の良さを感じる街であった。特にわたしがそれを感じたのは、観光客の多く出入りするところではなく、名もない通りの普通のお店に寄ったときだった。それは食料品店・パン屋・八百屋だったりしたが、いずれにしろ一般庶民のそれらの店の扱い商品は、われわれはよく利用したが、ワインもハムもチーズも野菜もパンも、みんな驚くほど安く感じられた。そしてどこのご主人も奥さんもみんな愛想がよかった。わたしが知ってるスペイン語を使うと、本来スペイン語は普段使わない人たちだったが、それでもおまえスペイン語話せるのかと驚いてくれるのだった。で、たちまち馴染みの店ができてしまった。そんな通り・商店・そして小さな市場が、たまたま我々の宿泊先の近くにあった。バルセロナの中心に行くには地下鉄を利用しなければならなかったが、近くにそういう店があり、それを見つけられただけで、そのホテルは価値があった。というか、そもそもが安すぎたのだが、それだけでなく感じがよくフロントの対応も申し分なく、そして朝食が完璧だったことを思うと、このホテル&エア付きのこのツアーは十分にお得感を感じられるものだった。確かにトータル6日間で実質3日にもったいなさはあるものの、長期の休暇のとれない人向きである。ではその3日間どこへ出かけたのか?正直言うとそれは月並みの観光コースを廻るのが精一杯だった。次回それをざっと振り返って今回の旅を締めることにする。ともあれわたしも‘カタルーニャ万歳 ! ! ’、‘バルセロナ最高 ! !’を唱えながらこの項、了 ! !

<観光スポットでないホテルの周辺の写真>

ホテルの前の通り、真向かいにParroquia Santa Teresa del Nino Jesusという、たぶん教会があったがParroquiaの意味がわからない、、

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上の写真の交差点から北方向に見えたティビダボTibidabo遊園地、教会はTemple del Sagrat Cor(サグラット・コール教会)、そこからの眺めは素晴らしいと聞いていたが時間がなく断念;2枚

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ガウディの作品のひとつCasa Vicensは上の交差点から2ブロックのところにあったが、どういうわけは観光客は一人もいなかった120_640x427

Casa Vicensの前のCarolines通りを地下鉄のFontana駅に向かっていくとGran de Granciaという通りにでる。駅に向かって右折すると小さな公園のようなところがあった。122_427x640

地下鉄Fontana駅前を通り過ぎ2~3ブロックいったところのCarrer del Cigneを右折する。細い通りだがいろんなお店があった。056_640x427057_640x427

その真ん中あたりにMercat de la Llibertatリベルタ市場がある。小さな市場だが実に雰囲気のいい市場であった。観光客でごった返しているランブラス通りのMarcat de la Boqueriaサンジョセップ市場よりどれだけ感じがよかったか、しかし残念ながもう一回行こうとしてついにそのチャンスがなかった。そこから2、3分でVia Augustaという大通りに出る。我々の泊まったホテルは星2つだったが、わたしにとっては十分すぎた、、
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