独歩の独り世界・旅世界

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Guatemala 国内最後の旅 7)トドスサントスクチュマタンTodos Santos Cuchumatan

 われわれ旅人の漠然とした目的のひとつに‘桃源郷を求めて’いる人はおそらくわたし一人ではないと思う、わたしはグアテマラに来て初めてアンティグアに住んで、もしかしたらここが桃源郷かもしれないと思った、確かにそこはそれに適う条件(?これは人によって異なると思うが)を備えていたように思う、しかし日を追うごとに少しづつその想いは色あせていった、その理由はわからなかったが、、、前々からグアテマラ桃源郷と喧伝されているところがあって、もちろんその地のことは知っていた、それがここトドスサントスクチュマタンであった、が、何故そう呼ばれているのかまでは知るところではなかった、行くに如かず、行ってみるしかなかったのだった、、、

 いわゆる秘境?といういい方ならあたっていたかもしれない、そこへ行くにはウエウエのバスターミナルからバスで3時間、一山越えていかなければならない、7時にはホテルを出て通りを歩いてて来たバスに乗ったから7時15分か20分頃にはバスターミナルに着いていたと思う、バスがあり次第乗るつもりでいたのだけれど、次のバスは10時20分といわれて面食らった、せいぜい1時間待ちくらいであるだろうと思っていたからだ、しかしバス会社は一社でそれより早いバスはなかったのだ、いったい朝一のバスは何時だったのだろう?、いずれにしろ昨日バスの時間を確認していなかったりのは大失敗であった、その近辺をぶらつくくらいしかすることなく、それでも1時間も潰れない、暇つぶしにそのターミナルから出ている各方面へのバスの行き先チェックなんかをしていたら、トドスサントスなんかよりももっと辺境(6~10時間もかかるようなところ)に行くバスがあることを知らされた、それらの地SolomaとかBanillas、Nenton、さらに奥のマイナーなメキシコとの国境(国境が開かれているかどうかは不明)Gracias a Diosへ行けることがわかったが、おそらくそれらどこもが、きっとトドスサントスよりもさらに秘境・桃源郷なのではないかととても惹かれてしまうのであった、、、

 乗客は10人ほど?それでも定刻にバスは出た、街中の渋滞はこの日もすさまじく街を抜けるだけで30分、そして近郊の街Chiantlaを過ぎるとバスは登りにかかった、登り切るのに1時間、それはそれは厳しい山越えであった、それもそのはず、その登りきったところは高原というか、要するに台地上になっていたが、おそらくそこは3000mを越えた高さであったと思う、なぜならウエウエがすでに1900mの標高で、そのウエウエ郊外のサクレウから昨日眺めた山並みは、少なくとも1,000~1500mの標高差があった、その時わたしはトドスサントスに行くのにまさかその山を越えていくなどとは想像もしていなかった、しかしトドスサントスへ行くおんぼろバスはその山を喘ぎながら登っていったのである、そして登りきったところが前述したようにおそらく3000mを越えた高原台地などとは、それこそ想像すらできないことであった、その台地を走ること20分トレスカミノスを左折(直進はSoloma方面)小さな部落を過ぎしばらく行くと突然道は未舗装道に変わった、もうその辺から乗り降りする乗客にはひとつの特徴が表れていた、なんと言ったらよいか、それがこの地方の独自性?要するに伝統文化・風俗習慣ということなのだろうけど、面白いのはそれが男性の衣装にあったことである、これまでわれわれの眼を引いてきたのは衣装に関してはすべて女性のものであった(ウィピル・コルテ・ベルト・頭飾り、独特の民族衣装を身に着けている年寄り男性はアトゥティラン湖畔でも多く見たが)、それがここでは老若をとわず男性はすべて同じ色彩同じデザインの独特の民族衣装を着ているのである(着るようになってる?着なければいけない?)、まるで制服だ、明らかにそれを身につけていないものはよそ者、という明確なアイデンティティの表現であった、そしてそんな風習が残されているところがこの地を桃源郷にしているひとつの理由かとも思われたのだった、まったく整備の遅れた狭くて酷い未舗装の山道を下ること30分、谷あいの村トドスサントスクチュマタンにはちょうど3時間、13時20分に着いた、その地はそれこそ男性全員が制服?を着用していた、しかしその赤系の折り返しの襟がついたブルー基調のストライプの上着と縦じま赤のストライプのスボンの組み合わせは、見方によってはカラフルで大変おしゃれ?個人ではなく個性的な村としては随一だったかもしれない、そして彼らが一様に肩から提げているバッグは手織りの独特な青系の色調でまさに民芸品、最高のお土産物がここでは実用品として流通しているのであった、確かに個性的な村のようであった、そんな村人にカメラを向けるのは憚られた、もし写真を撮りたければ許可を要しいくばくかのtipを必要とした、さもなければ彼らの反感を買い、共同体意識の強い彼らからそれなりの仕打ちを受けることになる、当然そういう意味では郷に入れば郷に従え、だ、、それを知らない日本人がかって(10年くらい前)この地で殺された事件はあまりにも有名な話であった、、、

 そんなこともあってかこの地は逆にツーリストには知られていて人気の高いところでもあった、だから最近はホテルも値上がりしていてパルケセントラル近くの土産物屋を兼ねた有名なホテルは、なんとドミトリーで60Qなどといってきた、信じられない、ウエウエで30Qで泊まっていたわたしには高すぎた、他にもホテルはあったが、たいして見るところもないのだから、この地の雰囲気をつかんだだけでもうそのまま帰ろうかとも考えた、が、その日のウエウエ行き最終バス(15時頃)は出た後であった、ホテルは他に1,2軒しかない、最初に安そうなほうをあたってみた、そこはほとんど欧米人で埋まっていたが一室だけ空いていてバスなしシングルが40Qとのことだった、そのおばさんに30Qにしてくれないと頼んでみたがそれは通らなかった、そこに決めるしかなかった、もう一軒あたったとしてもそれより安いとは考えられなかったからだ、寒いところと聞いていたので毛布だけはしっかり確認した、、

 行ってみたかったのは一ヶ所だけで、そこはパルケセントラルから10~15分?くらい登ったところ、谷あいの村だから起伏が多く山道を辿ったところにテクマントゥンという小さな遺跡があって、そこは内戦時30年前に大量の虐殺が行なわれ、その犠牲者が眠る地でもあった、少し登ったところにあったのでそこから村全体が見渡せた、山間・谷あいということもあって、その感じがどこかスニル(シェラ近郊の村)に似ているような気もした、いずれにしろこの先はるかかなたまで山並みは続いていた、うん、秘境といえば秘境、しかし桃源郷かどうかはわからなかった、もしかしたらそれはその日がたまたま空模様が怪しくてすっきりしない天気だったから、そう思うにいたったのかもしれないが、最もひっかかったのはその日はそれほどでもなかったが、ここはそうとう寒さが厳しそうだったこと、こと、寒いところが苦手なわたしにとって寒いところは桃源郷にならない、、、だからここに長く住む?ずっと滞在したいという気持ちは起こらなかったのであった、、

  村の中心に戻って散策する、写真も撮ったがほとんど正面からとったものはない、土産物屋とか食べ物屋も探してみたが、土産物屋らしいところは最初に訪ねたホテル兼土産物屋くらいで、普通の商店で彼らの日用品として、その衣類やバッグは扱われていた、そして、たとえばその上着にしてもよく見ると同じ配色・同じデザインであっても多少の色の濃淡とか生地の違いがあって、まったくワンパターンでないことがわかる、で、当然商売相手が地元の人だから値段もさまざまであったがそれほど高額ではなかった、上下一着を土産にしようかと迷ったが、流石にその地で着れても一歩そこを出たらちょっと躊躇いそうだったのでやめにした、そのかわりバッグとか財布などの小物にいいものがあって、その色使いの素晴らしさに&それほど高額でなかったのでついつい買ってしまうのであった、、食べ物屋とビールを売っているところには苦労した、ビールを扱っているところは何人かに聞いてやっとたどり着いたが、適当な飯屋は見つけられなかった、そういう時はいつもとっていた常套手段があった、まずビールは12.5QでGalloの大を確保、ホテルの1階がパン屋さんだったのでパン2ケ1Q、あとはホントにどこにでもある(あった)フライドチキンの屋台で流石に2日続けてチキンは食えなかったが、そこでいつものフライドポテト3Qでお腹いっぱいになるのであった、だから適当な食べ物屋がないときは、ビールとパンとフライドポテト(トータルで20Qもいかない)はどこでもあったから安くて簡単な夕食となった、日暮れとともにだんだん冷えてくる、雨も降ってきた、そういう時は寝るしかない、毛布3枚で寒さに目覚めるということもなく思ったより快適に眠れた、多少咳は残っていたが薬を飲んでいたので体調は快方に向かっていた、、、

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