独歩の独り世界・旅世界

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Guatemala 国内最後の旅 7)サンタクルスデルキチェ、ホヤバフ、パチャルン

 旅の間いつもそうだったが、寝るのが早いから朝も早い(よく夜半トイレにも起きた)、この日も、そこで朝食が食べられるわけではなかったから6時すぎにチェックアウトしてしまった、トドスサントスの定期市は土曜日でその日だった、表に出ると霧雨の中店開きの準備が始まっていた、2,3分のところにあったパルケセントラルで、その光景を眺めていたらCafeの看板が目に入った、(モーニング)コーヒーを2Qでゲット、昨日の残りのパンで朝食となった、しばしそんな朝の様子を眺めながら思案、あと1時間くらい待ったとしてもここの市が特に他と変わったこともないだろう、もうぶらぶらするところもない、バスが来たら乗ってしまおう、、その時気づいた、いつもならそのパルケセントラル脇からバスが出ているのだけれど、その日は市のためパルケセントラル周辺の道路は閉鎖されている、いったいどこからバスは出るんだ‥??

 昨日街を歩き回っていたときバスが通れる道は限られていることがわかっていたから、そのバス通りを辿ってみた、そうやってしばらく下っていったらたまたま向こうからバスが来るではないか、とりあえずそのバスを止めて聞いてみるとウエウエ行きだという、すでに乗客は満員状態だった、すぐに飛び乗ってラッキーと一安心したら、そのバスはわたしが今通ってきた道を戻る感じでパルケとウエウエ方面に行く分岐点あたりでとまった、そして乗っていた乗客はほとんどそこで降りて、バスもしばらく停車となった、どうやらそこが市の日のバス乗り場であったらしく、乗っていた乗客はさらに下の方の部落からこの市に押しかけてきた人たちらしいことがわかった、そうしてしばらくそこで待機していたバスは7時頃トドスサントスを後にした、しばらく細くがたがたの道を行く、わたしが気になっていたことがひとつあった、昨日ここに来る途中で気づいたことで、それはこの村の入り口辺りから見られたこの村の住居・建物であった、僻村にしては建物のつくりが立派だったのだ、セメント・コンクリート造り?名称はわからないが、要するに木造の粗末な小屋とは程遠く2,3階建ての近代的な建物が目に付いたのである、そしてさらにそれらの建物の縁取り?なんていうのだろう、軒周りとでもいったらいいのか、そこに大変ユニークなデザインの装飾が描かれていたのだ、月や星や何かのマークのような文様であった、各戸のデザインは似たような模様なのだけれど少しづつ違う、まるでそれぞれの家てそれぞれのシンボルデザインを持っているかのように各建物の目印?シンボルになっていたのだ、不思議だったのはそれが村の中心部には見られず、なので写真にも収められなかったので、帰りのバスからそれを写真にとろうとしたが、でこぼこ道を大揺れで行くバスからはやはり無理であった、よってその写真も、またその由来も聞きそびれてそのままになってしまった、しかし思ったことはもしかしたらここは存外豊かなところなのかもしれないということであった、気候条件が厳しいので住む気にはなれないと言ってしまったが、これだけ伝統文化をかたくなに守れて、共同体が崩れずにいるということは、ここの人たちにとっては大変住みやすいところであったのかもしれない?、ということは、とりもなおさずここはインディヘナ・マムにとっては‘桃源郷’だったのかもしれないという想いであった、、

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 たまたまわたしが泊まったホテルがHotel Mamだったのだけれど、ここマムの地は中央から遠く、その地が山間僻地であったこともあって、ある意味インディヘナアイデンティティ・伝統文化が守られてきたということは十分考えられることであった、、行きに3時間かかった道のりをほとんどが下りとなった帰り(トドスサントス2400mから3000m越えの高原まで一旦登るが)はなんと2時間でウエウエに着いてしまった、そして9時発のサンタクルスデルキチェSanta Cruz del Quiche行きのワゴン車に乗れてしまった、それは予想外の展開であった、、

 その時の旅の大まかなプランとしては、行き先として初日のナウアラ、ウエウエ、2日目トドスサントス、そして最終的にはミシュコビエホMixco Viejoに寄ってアンティグアに帰るというものであったが、ウエウエ~ミシュコビエホ間の足はまったく不確かで、とりあえず間のサンタクルスデルキチェを経由して何とか行けるのでないか(バスがあるのでは)といった、行った先での状況次第ということであった、ところがその前日にトドスサントス行きのバス待ちをしていたときに思いがけない情報を得ていた、この国ではINGUATでもらった地図がきわめて正確でそこに記されている道は太い細いにかかわらず、必ず何らかの交通手段があることが(バスが通っていなければミニバス・ワゴン車)経験上わかっていたから、その道にそってたとえばサカプラスSacapulasあたりで乗り継げばサンタクルスデルキチェまでは行けそうであったし、サンタクルスデルキチェからはホヤバフJoyabaj経由でミシェコビエホの近くの町パチャルンPachalumまで細いながらも道は繋がっていたのだ、で、できればその日のうちにパチャルンまで行ければ上出来で、もしサンタクルスデルキチェあたりで一泊となっても仕方ないかと思っていたのだった、それがなんとウエウエからサンタクルスデルキチェ行きの直通ワゴン車があるというではないか、それも2時間で行くというのだ??、ちょっと信じがたいことであった、どうやってもわたしが持っていたINGUATの地図上にある道では不可能に近い、で、聞いてみると最近出来た新しい道があるのだという、半信半疑だったが30分おきにでているという、そのワゴン車に乗ってみたというわけであった、地図を手にしていたが、それは確かにまったく地図に乗っていない道でまだ新しく交通量も少ない、途中に人家もない、時々農場のようなところがあって多少の乗り降りはあったが、ほとんどなだらかな丘陵地帯を行く快適なドライブとなった、行程の中ほどで一旦丘陵を下り地図にあったRio Negroを渡り、再び道は丘陵・高原を走って1時間半でサカプラス~キチェを結ぶ国道に出た、そのあたりからは乗客も増えキチェまでは定員の倍くらいが乗り込んでいた、それは新しい路線にもかかわらず結構需要があることを物語っていて30分おきに出ていることが納得された、後日談だがその道についてアンティグアに戻ったとき田代さんに報告すると、さすが田代さんはその道のことは知っていてそれは日本の援助で作った新しい道だ、ということを教えてくれた、道のつくりがよく、乗り心地がよかったわけも判明した、、、

 で、まさかのことだったけれどサンタクルスデルキチェには11時に着いてしまっていた、これなら少なくともホヤバフまでは行けそうだった、前回チチカステナンゴまで来たときに、そこから30分のここキチェ県の県都サンタクルスデルキチェまで足を伸ばしていなかったのでざっと街並み拝見、パルケセントラル・カテドラルを中心にその日が市の日だったのか屋台・露店がたくさん出店していて凄い賑わい、流石にキチェ県の県都だけはあって十分その大きさが感じられた、バスターミナルは少し離れていて各方面へ行くバスが出ていた、ホヤバフ?ホヤバフ?と何人かに聞いてバス停を教えてもらう、どうやらどこかから来るバスがそこに停まるということらしかった、ちょうどそのそばに屋台の飯屋があったのでバス待ちを兼ねてそこで昼食をとる、馴染みのカルネデレス(牛焼肉)が安く食べられた、そのおばさんにホヤバフのバスはここでいいのか?ホヤバフにホテルがあるか?といった情報を聞く、とっても感じのいいセニョーラだった、そこで少し待たせてもらっているとバスが来てあれに乗れと教えてくれるのだった、満員のバスだったが座れたので食後の転寝となった、その道はほとんど旅行者が利用することのない裏道であった、、、そんな山道を走ること1時間半、いくつかの街を通ってホヤバフに着いた、どの辺を走っているのかまったくわからなかったので、転寝から覚めるとずっと地図と首っ引きになっていた、それでわかったことがあった、このINGUATの地図にある道路はたいてい何らかの交通手段はあると書いたが、道も街も実に地図に載っている以外にはないということがわかったのであった、先ほどの新しい道は別にして、それ以外の小さい街・道は省略されているのではなく実際にないのだった、地図にある道・街がグアテマラのすべてだということがわかったのであった、なので地図上にあった3つの町を通過して着いたホヤバフが最後の街でこの先パチャルンまでは何もない、そしてそこは未舗装道路となっていた、意外だったのはここでパチャルン行きに乗り換えなければと思っていたら、なんとそのバスはパチャルンまで行くとのことだった、知らなかった、確かめずに乗ってしまって、てっきりホヤバフ止まりだと思い込んでいたのだ、だからここまでの運賃しか払っていない、正直に申告して差額分を払った、ちなみにバス代と時間は以下、トドスサントス~ウエウエ2h,25Q、ウエウエ~キチェ2h25Q、キチェ~パチャルン3h(途中ホヤバフで30分待機)25Qであった、、

‹右 ; サンタクルスデルキチェの教会、下 ; ホヤバフの教会、上の男性の帽子はマムだが、一番下の女性の頭飾りはポコマム?›868_640x427_3


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 キチェから満員だった乗客は途中の街々で降り、すべての乗客はここで降りてしまった、パチャルンまで行くことがわかったわたしはそれはそれでラッキーだったが、そこで約30分出発を待つことになる、そしてその先はほとんど乗降客もなく、トドスサントスへ行く未舗装の道に負けないくらいがたがたの険しい山道をバスは1時間かかってパチャルンまで走ってくれた、そこまでたどり着けただけで幸運だったが、まさか3時に着いてしまうなどとは予想もしていないことであった、まだまだ山の中腹といったパチャルンの街を流し歩く、どうやらホテルは一軒しか見つけられなかった(後で再び街を徘徊してもう一軒あったことを知る)それは大きな5階建ての建物で、4階までは普通の商店が入っているようであった、5階1フロアがホテルになっていて値段を聞くと50Q、この3日間ではもっとも高額であった、しかしバストイレ付きエアコン付きテレビ付き、そして街の中心のもっとも大きな建物であったのだからむしろ安いくらいであったかもしれない、値引き交渉はしなかった、そのときのおばさんにミシュコビエホの情報を聞くもいまひとつはっきりわからなかった、つまりその時点でわたしはミシュコビエホがどの辺にあるのかまったくわかっていなかったのだ、いずれ行くのは明日として歩いていけるのかバスがあるのか、そんなことを知っておきたかったのだけれど、どうもここのホテルは地元の人用でミシュコビエホのツーリストを想定しているとはとうてい思えなかった、だからパンフレットひとつなく、その情報もあいまいなものであった(それはわたしのヒアリング力の問題であったのだが)、もっともその日そこにはツーリストはおろか地元の人が泊まっている気配もなかったのだが、、、シャワーを浴びて再び散策に出た、一通り街を歩いて飯屋ネット屋バス停などを探す、ミシュコビエホの看板でもないかと、その情報も探ったが何もない、実はその時わたしはミシュコビエホはこの街から歩いていける距離にあるもんだと勝手に思い込んでいたので、どっち方面かだけでも知りたかったのだ、教会の近くにトゥクトゥクのたまり場があったのでそのドライバーに聞いてみた、すると、ここから11~12kmだという、そんなはずはないだろうとその情報を根拠なく否定してしまった、後になってそれが正しかったことを知るのであるが、、、適当な飯屋がなく、その日もテイクアウトにした、ビールとフライドポテトは昨日と同じ、しかし暑いところだったのでヒールはブラバBrahvaの大2缶、それにタコスが加わった、大きな違いは部屋がエアコン付きテレビ付きだったこと、部屋が5階だったので大変眺めがよかったことである、テレビを見ながら飲みながら:結構くつろげたが、依然ミシュコビエホの確たる情報は得られていなかった、、