独歩の独り世界・旅世界

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Guatemala/Antigua 6)セマナサンタ ②

 軽い風邪だったと思うがGuatemalに来て初めて体調を崩した、お腹も下っている、昼頃まで寝ていたが、無性に喉が渇いてヨーグルト飲料のようなものが欲しくなり、スーパーに買い物に出かけたが、たった5分のところの往復もシンドかった、で、また夕方まで寝る、前日までの旅の疲れとバスのトラブルが間接的な原因のような気がした、が、幸いにしてその日特に予定はなく、またセマナサンタの行事もなかったので、ともかく一日寝てることができた、ただ明日の予定Taiki君のいるファミリアへの移動はできたら一日延ばしたほうが良さそうだったので彼のアドレスにmailを入れたが、そのアドレスの入力ができず結局送ることができなかった、、、次の日いくぶん体調は回復していたがまだ本調子でなく、大荷物を持っての移動は躊躇われた、で、あまり得意でなかったが田代さんの電話を借りて先方を呼び出した、電話に出たのはセニョーラでなく男の人だったが、何とかわたしのスペイン語を理解してくれたようだった、で、移動は一日延期された、、

 その日4月17日(日)はDomingo de Ramos(Palm Sunday イースター前の日曜日?)と.呼ばれるセマナサンタの始まりの日?重要な日であったらしく、各教会で行事が行なわれていたが、それでなくとも体調最悪だったのでどこへも出かけず、それでもアンティグア3大教会のひとつメルセーIgresia de la Mercedのプロセッションが田代の前の大通り(Calzada Santa Lucia サンタルシア大通り、田代はそこから少しはいったところにあった)を通ったのでそれだけはちょっと目にすることができた、、

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 翌18日はLunes Santo(聖なる月曜?)プロセッションがひとつ予定されていた、前の日に飲んだ薬が効いたのかその日はだいぶ調子は戻っていた、一度Taiki君に連れて行ってもらっていたのでその場所はわかっていた、そこはセロデラクルス(Cerro de la Cruz十字架の丘)のふもとで商店もスーパーもないところであったから(そのファミリアが小さなtienda商店をやっていた)事前にビール1ダースとラム酒ロンをスーパーで買出しして、それを持参でトゥクトゥクに乗り込んだ、料金は交渉したが15Q以下にはならなかった、空身で歩けば3,40分の距離?歩けない距離でなく、その後トゥクトゥクなんか利用したことはなかったが、そのときは大荷物があったから仕方なかった、ちょうどパルケセントラルをはさんで市の南西端から北東端への移動であった、田代さんには2週間後に戻ると断りと詫びを入れたが、ずいぶん勝手な人間と思われたかもしれなかった、何故セマナサンタの間だけ田代を出るのか、その理由をうまく説明できなかったのだから、、そしてこの気まぐれなホームスティは結局よかったのか悪かったのか、なんとも言えない結果となった、、、

 Familia Cojulun Madrid(わたしがもらった名刺はそう書かれていた)、通称?というかそこの日本人は皆ただオーナー名アニー(あるいはファミリア・アニー?)と言っていたが、その名詞にあるとおりそこは、以前わたしが2番目にホームスティしたところと同じ下宿屋さん、ということだったと思う、というのも、てっきりアニーの旦那さんかと思った昨日わたしの電話を受けてくれたオヤジはアニーの親類か身内であったかもしれないが、ただの間借り人のようであったし、他にも間借り人としか思えないグアテマラ人が何人か1階には住んでいたようだった(はっきりしたことはわからなかった)、で2階の5部屋はすべて日本人用?一部屋は空いていて、その時日本人は3人だった、Taiki君は予定通り昨日帰国したようで彼のいた部屋にわたしは入った、その部屋は結構広くベッド、机、洋服ダンスが備わっていて調度に不自由はなかった、部屋の前は共有スペースになっていて大きなテーブルと椅子が何脚か置かれていて雑談スペースのようだった、隣が30代前半?のS君、その共用スペースをはさんで向こう側の部屋にやはり30代前半?の女性Mさん、階段降り口の部屋にここの長老‹オサ›?それでも40前後のS氏、いずれも悪く言えばヒトクセもフタクセもありそうな、よく言えば個性派の旅のツワモノぞろいであった、そして共用スペースの一角に貼られていた写真には、たぶんそれまでにそこを訪れた日本人たちが写っていてその数優に50人は超えていた、確かにそこは日本人専門のファミリアのようであった、、、

 その日の昼食時に彼らと出会った、S君とはCanoで会っていたし、たしかMさんともCanoで会ったような記憶があったけど話をしたことはなかった、S氏とは初対面、わたしは人見知りするほうだが愛想は悪くないと思っているのだけれど、どうもそのときの印象はお互いにしっくりいかない、といった感じであった、だからあまり話がかみ合わなかったのだ、というか初対面の挨拶はしたがそのあとあまり会話は続かなかった、ま、それは年が違うからと割り切ることにしたのだけれど‥ただ、わたしはこれまで、たいがいの人とは打ち解けわかりあえてきた自信があったので、わたしのほうに問題があるとは思っていなかった、しかし、その後のことを思えば、同じ世代の共通感覚の中に突然入り込んだ異質の人間としてどうも彼らに疎まれたのではないか思われる節があった、その関係はその後好転することはなかった、もちろん表面的に何か問題が起こるということはなかったのだが、、、

 しかし、そんなことはどうでもよくなるくらいここの食事がよかったので、ここの生活は苦にはならなかった、それにアニーはじめグアテ人たちは皆陽気でいい人たちばかりであった、お手伝いのマルタおばさんも気さくな人で、部屋の掃除とかシーツの交換をしょっちゅうやってくれたし会えば片言のおしゃべりをした、ほんとは洗濯も頼んであげればよかったのだろうが(彼女たちのお小遣いになる)洗濯はそれまでの習慣で自分でやってしまった、その日の午後はそうやって洗濯やら片付けやら、ファミリア近くをうろうろ・偵察、、、調子はすっかり回復したようで、夕食もおいしくいただいた、食後はその日のプロセッションを見に一人でパルケセントラルまで出かけてみた、その日のプロセッションは今まで見た中で一番規模が小さく人数も少数、また着衣の色も異なっていた、それはSanta Ines del Monte Pulcianoというアンティグア市の南数キロの山の中から出てきた一行のものだったと帰ってからわかった、比較的静かなプロセッションを見送った後に寄ったメルセーでは、うって変わってすごい人出、照明が煌々と輝き露店・屋台の出店が教会前を埋め尽くしお祭りムードいっぱいであった、教会前にオーケストラが陣取り、そこで奏でる荘厳な音楽がさらに気分を盛りたてていた、その夜はそこメルセー教会での寝ずの祈り?Velacionが予定されていた、だからその夜店も人のにぎわいも夜通しで続いたことであろう、、、

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 翌19日火曜日はたいした行事がなく、水曜になるとメルセーのProcesion Infantil、子供みこしならぬ子供の山車とSan Felipe de Jesusサンフェリペデヘススのプロセションが予定されていた、サンフェリペデヘスス(以下サンフェリペ)はアンティグア市の北、歩いても30分くらいのところにある街で、小さなちょっとかわいい造りの?教会があって、距離的に比較的近いこともあって今年のセマナサンタではその日も含めて計4回もの出陣となった、どういう風な決まりか知らないがアンティグアのセマナサンタの主役のひとつ(代表的な教会、他にメルセー、サンフランシスコ、エスクエラデクリストなど)でもあるかのようであった、その日の出陣時間が15時だったのでそれに間に合うようにサンフェリペに駆けつけた、それまでにサンフェリペには2回ほど行ったことがあって、いずれもバス通りを歩いていったのだけれど、今いるところがセロデクルスの麓で、セロデクルスを越えていったら近いのではないかと思いついた、またセロデクルスは丘の中腹だったのでさらにその上へも行ってみたかった、で、探索を兼ねてそのルートを探ってみるつもりで時間の余裕を持って出かけた、が、そこは強盗がしょっちゅう出るところだから一人では歩くな、と脅かされていた地域でもあった、セロデクルスへはそれこそ歩いて10分で到着、そこから上は確かにまったく人通りはなくなった、それでもしっかりした舗装道路が続いている、どんどん登っていくと大きな別荘のような屋敷が現れだしたが人が住んでいる気配はなかった、そしてたぶんその辺から下れば一番サンフェリペに近そうなあたりに、あるのではないかと期待していた道はなかった、仕方なくセロデクルスに戻りながらサンフェリペに下る道を探す、その間一人にも会わず、、、とバイクに乗った誰かが近づいてくる気配、とうとう来たか!?ちょっとは覚悟したが、わたしに追いついたバイクの男は警察官であった、前回来たときもこの辺をパトロールしているポリスを何人か見ていた、その男も同じように気をつけるようにと言っていってしまった、特に尋問されたわけではなかったので怪しまれたわけではなかった、ちょうどセロデクルスの後ろを回りこむようにちょっと車の通行は厳しそうな道がサンフェリペ方向に続いていた、その道を下ってちょうど3時頃、まだ出陣前のサンフェリペの教会前に着いた、しばらく出陣風景を見守ってバス通りをアンティグアに戻る、途中パルケサンセバスチャンParque San Sebatian付近で幸運にもメルセーのProcesion Infantil子供プロセッションに出くわした、大人顔負けの装束で山車が多少小さいとはいえ立派な行進であった、2つのプロセッションが確認でき、その日はそれでよしとした、夕食後あたりから雷が鳴り出し雨が振り出した、そろそろ雨期の始まりか?しかし15時にサンフェリペを出陣したプロセッションはたぶん夜半過ぎまでこの雨の中を行進していたのだろう、、、よほど篤い信仰心がなければ、そう簡単にあの担ぎ手にはなれないであろうことが容易に想像された、、、

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 まさに日本のGWといってもおかしくないこのセマナサンタは、それでも暦の上での祭日は21,22,23,24日で、だから木、金、土、日の四日間が特に重要な日であったのだろう、スペイン語学校も木~日をお休みにしてるところが多かったし(もっと長いところもあった)、わたしの行きつけだったネット屋さんもそれらの日は閉まっていた、その4月21日の木曜日はJueves Santo(聖なる木曜?)と呼ばれ、昼間二つのプロセッションがあった、ひとつは11時発のSan Cristbal el Bajo、もうひとつはメルセーと並ぶ大教会サンフランシスコエルグランデSan Francisco el Grande(以下サンフランシスコ)のプロセッションで13時発となっていた、サンフランシスコは最初にホームスティしたときにそこを通って学校に通っていたから馴染み深かった、最初の学校はサンフランシスコ教会の目の前にあったのだから、、、で、その日はまず出陣前のサンフランシスコに寄ってからサンクリストバルエルバホに行ってみた、、サンクリストバルエルバホはサンフランシスコから南に歩いて2,30分?月曜にプロセッションがあったSanta Ines del Monte Pulcianoよりは近かったけど、それでもアンティグア郊外の小さな村であった、わたしがそこに着いたのが9時半頃で、路上のアルフォンブラが完成したばかりの頃だった、この花や野菜等の植物や色付けされたおが屑おかくずのような物を使って道路を飾るアルフォンブラAlfombras ‒ 装飾絨毯?作りは、皆ことのほか熱心で少なくとも自宅の前をプロセションが通過する光栄に浴したすべての家庭は、それぞれ趣向を凝らし色とりどり、まことに見事で鮮やかな芸術品ともいえるデザイン・色彩・造形美を競い合っていた、もちろん一個の家庭だけでなく、あるものはグループで、あるものは共同体で、それそ゛れアイディアを出し合って個性的かつ印象的なアルフォンブラ作りに励んでいた、だからそれらを見物して歩くのもこの祭りの楽しみのひとつになっていた、とりわけ出陣する教会に近いほどそれは豪華さを増すとも言われていた、で、その時出陣に立ち会うには少し早すぎたので、サンクリストバルエルバホでは、その写真を撮っただけでひとまず引き上げることにした、そしてその日の両プロセッションは午後再び街に繰り出したときに、街角で眺めるにとどまった、いずれにしろ観客としては一プロセッション平均して12時間?最大15,6時間の行程をすべて追っかけ眺めるわけにはいかない、ある場所で通り過ぎるのを見送るしかないのであった(もちろん追っかけは可能)、なお、このプロセッションの見所のひとつはその豪華絢爛に飾り付けられた装飾絨毯を惜しげもなく踏み潰して歩んでいくところにもあった(バージンロード?しかしアルフォンブラのその本来の意味・由来は知るところでなかった)、また、一連の行進が通過した後それをかたずける作業が、いまや大変合理的に処理されていたことも興味の尽きない点であった、、、

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 さて、4月22日Viernes Santo(聖金曜日)は最も重要な日?最も多くのイベントが予定されていた、その日のプロセッションは4つ、朝4時のメルセーを皮切りにサンホセカテドラルSan Jose Catedral(パルケセントラルに面したもっとも権威のある?教会)15時、サンフェリペデヘススSan Felipe de Jesus、15時、エスクエラデクリストEscuela de Crist、16時が予定され、その前にサンホセカテドラルとエスクエラデクリストでは12時にActo de Crucifixion磔の再現?が予定されていた、前の晩に同宿の日本人たちは朝4時のメルセーの出陣を見に行くといっていた、彼らはたいてい連るんでいたのでかえってそれはわたしには好都合であった、で、ならばわたしも負けるわけにはいかないと思い至って3時半に起きてメルセーまで出かけてみた、夜道に人通りは少なかったがメルセーまで着くとそこは不夜城の趣き、すごい人で埋め尽くされ立錐の余地なしといった状態、それでもキリスト&マリア様のプロセッションの出陣を見届けて5時頃再びファミリアに戻ったが、その後ほとんど眠ることはできなかった、ま、その週は学校へいっていたわけでなかったからたいてい寝不足は昼寝で補っていたが、、、

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 で、その日エスクエラデクリストで12時から行なわれるというAction de Crucifixionがどんなものなのか知りたくて出かけてみた、エスクエラデクリストの前の公園にはキリスト磔の模様を再現したレプリカの山車が並んでいて、それを見ているだけでおおよその再現シーンが想像できたが、12時になると教会内で実際の再現劇が始まった、ものすごい人並みでそれをつぶさに見ることができず、またスペイン語の解説もほとんど理解できなかったから、何がどうなっているのかほとんどわからなかったが、そういう形で毎年キリスト受難の歴史を市民の前で復元し、信仰心を確認するのがこのお祭りの大事な側面であるらしいことだけはわかった、ともかくすごい人出に圧倒されっぱなしであった、教会の外にでるとそこも人並みで埋まっていた、どうやらプロセッションの通過があるらしかった、しばらく待っていると長大なプロセッションがやって来た、それは今朝4時に出陣を見送ったメルセーのプロセッションであった、2大あるいは3大?教会のうちのひとつメルセーのそれは流石に規模の大きいものだった、教会前の高い位置から眺めでその全容を見届けることができた、だいたいその通過に30分を要した、それを見送ってから裏道を通ってまた一旦ファミリアに戻り食事と昼寝、夕方からの出陣に備えた、夕方からのプロセッションはまたサンフェリペに行ってみることにし、またセロデクルス越えをしたがこのときは少し出遅れてしまったので出陣には間に合わなかった、が、このときサンフェリペにまた行ったのにはもうひとつ理由があった、実は以前のホームステイ先もそうだったが基本的に日曜の食事はない、で祭日であったこの日も食事がなかった(祭日の木・金・土のうちこの日だけ食事がなかった)、そこで前々から聞いていたのだけれどサンフェリペの教会付近にはレストランがたくさんあってアンティグアより安くてうまいという情報をついでに確かめてみようと思っていたのだ、プロセッションが去った後人込みもひいてきてレストランもそろそろ店じまいの気配だったがそのうちの一軒に入ってみた、そしてグアテマラの名物料理のひとつペピアン(Pepian煮込み料理)を頼んでみた、40Qくらいでその定食は美味であった(ペピアンにも何種類かあった、わたしが頼んだのはPepian de Espinazo、骨付き肉の煮込み?その定食にはスープ、サラダ、ご飯、トルティヤ、飲み物、デザートがついていたから確かに安かった)、ところで、そこのレストランのテレビがプロセッションの実況中継をしていた、それはアンティグアだったのかグアテ市のプロセッションだったかはわからなかったが、長時間にわたって生中継をしているようだった、ということは今はほとんどのグアテマラ人は現場に行かなくともテレビでしかも全行程?を見ることができるということを初めて知るのであった、それはそうだ、グアテマラ最大の行事、視聴率は高そうであった、、、レストランを出ると外は雨だった、しばらくサンフェリペの教会で雨宿りしていたが止みそうもないので傘を出して雨の中を歩き出す、アンティグアに入ったころはもう真っ暗で帰りを急いでいるとちょうどその道をどこかのプロセッションがやって来た、キリスト受難のレプリカの山車が先導していたのでエスクエラデクリストのそれだとわかった、もちろん立ち止まってそれを見送る、あれっ!?なんか違うな、とその時気づいた、そうか、その日はキリストが十字架の上で磔死?した日だった、装束がすべて紫から黒に変わっていたのだった、そして十字架を背負うキリストでなく、それはキリストの遺骸を載せた山車に変わっていた、当然後に続く楽隊の音楽も変わっていた、おそらくそれは他のプロセッションも同様のことと思われた、雨の中悲しみを漂わせた行進は続いていった(16時に出陣したエスクエラデクリストの帰還は夜中の2時、15時に出陣したサンフェリペの帰還予定時刻はなんと翌朝の6時となっていた)、、

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  翌4月23日はSabado de Gloria(栄光の土曜?どう訳すのかよくわからない)と呼ばれ、お悔やみの日?、各教会ではミサや祈りが行なわれていたのであろうが、プロセッションも二つあった、エスクエラデクリストとサンフェリペのそれであった、だからたぶんこの二つの教会が今年の主役だったのではなかろうか?(つまり出ずっぱり?それが年による持ち回りなのか?とか、どのように決められるのか等、その仕組みについては調べられなかったので、わからなかった)しかし、その日の午後の二つのプロセッションは、いずれも規模が小さくなった、それは悲しみのマリア様の山車だけだったからで女性だけの行進だった、また当然その衣装は黒になっていた、そして次の24日日曜はDomingo de Resurrecion復活の日で、さぞや盛大なパレードが繰り出されるのかと思っていたら意外にも小さなプロセッションが二つあっただけのようであった、というのも、アンティグア市内ではオブラスソシアレスObras Socialesというところから13時に出ると聞いていたが、それを見逃してしまったのだ、が、それだけでなく、どういうわけかもう町全体が疲れきっていたのか観光客も減っていて、だいぶ静かになってきていた、もうプロセッションへの期待も興奮もおさまってきていてセマナサンタの収束が感じられた、、、そうやって拙い見聞であったが、わたしのセマナサンタも終わった、興味が尽きないものであったが、キリスト教のビッグイヴェント&グアテマラ最大にして中米最大のお祭りだということがよーくわかった、十分に堪能し、その意義と理由とが納得・実感できたのであった(キリスト教についても、ほんの少し勉強になった)、、、

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