独歩の独り世界・旅世界

他のサイトに書いていた'独歩の独り世界・旅世界'を移転しました

四国八十八ヶ所 お遍路初体験 4,三坂峠を越えて久万高原へ、、

 その日の夕食で顔を合わせたのは、わたしを入れて全部で5人だった。100人以上収容できそうな大広間の片隅で、見ず知らずの男性5人はひとつのテーブルで黙々と箸を進める。だれも口を開かない。わたしもなかなかいける料理に、二本目の缶ビール500mlを飲みながら一人舌鼓をうっていた。一本目は宿に着いた早々、喉の渇きに耐えかねて半分を、残りは風呂から上がってすぐに空いていた。そのうち若い男性の二人組みが退席し、残ったのは中高年男性が三人、わたしの前に座ってる二人のおじさんはいずれもわたしより年配そうだったし、お遍路のベテランそうだったので、わたしからはなかなか口を開けなかった。そのうちどちらかがやっと口を開いてくれていっぺんに座が解けた。おざなりの自己紹介でわかったことは、わたしと同年くらいの右の男性は愛知から徳島に移り住んだ人?なんでもまだ仕事をされているようで、車で廻っているようだった。もう一人の左側の年配の方は高知の人とのことだったが、思った通り、年ははるかに先輩、また遍路経験は80周以上(87周といっていたような記憶がある)という大ベテランだった。いずれももう食事が終わりかけたころにやっと場が和んだといった感じだったから、それ以上の盛り上がりには至らなかったのだけれど、この大先達のある言葉が記憶に残った。この方は、昔は歩いて廻っていたが今はもっともお金のかからない廻り方をしている。それは歩くところは歩くが公共交通機関が使えるところはそれを利用している、ということで、四国内のフリー切符やお得な切符がでることがあるから、それを利用したほうがいい、といっていた(実はその後この言葉を噛みしめるときがくる)。他にもいい話があったと思うが、こちらも飲んでいたのであとはあまり覚えていない。

 その夜は疲れていたこともあって早く眠りに落ちたことはいうまでもない。夜半に眼がさめてしまい、仕方なくパッキングをしなおしていてあることを思いつく。それからしばらくうつらしていて7時に昨日の宴会場に出向くと案の定その場にはすでに一人の姿もなく、わたし一人での食事となったが、美味しい朝食をしっかりいただいた。歩き遍路の基本は早立ちにある、ということを知らないわけではなかった。だから歩いている人は朝食付きにしなかったり、宿も朝6時には朝食をだしていたから、7時に朝食をとる人なんかいなかったのである。しかし、わたしはこのとき早立ちできない理由があった。夜半にパッキングしてて思いついたこととは、不要な荷物をここから送ってしまう、ということだった。その日は高度はたいしたことないとはいえ山越えだった。三坂峠という700mくらいの山越え、この峠越えは歩き遍路にとって少しばかり難所のようだったが、実はひそかにこの山道に期待するところがあった。それは前日アスファルト道コンクリート道ばかり歩かされていて、いささかうんざり、これでも多少の経験があったからどんなに山道のほうが歩きやすいかを知っていた。そういう道、そういう遍路道を歩きたかったのである。しかし、その先も歩き通すことを考えると荷はできるだけ軽くするに越したことはないこともわかっていた。案内書にも余分な荷物はさっさと送り返すに限るとのアドバイスがあった。もうひとつ、それを決めた背景があった。それはその宿では使わなかったが、どこでも洗濯機と乾燥機を備えているらしい、ということがわかったからである。それで余分と思われる衣類をはじめ、溜まった書類・紙類やその他もろもろを厳しく選別してみたのだった。偶々郵便局が宿の先にあった。しかし峠の手前ではここが最後の郵便局のようだった。それで郵便局が開く時間まで待たねばならなかったのであった。

 たぶん9時だったか?と知りながらも、8時前にはチェックアウトして歩くこと5分、久谷郵便局はあったのだけれど、やはり営業時間は9:00~17:00となっていた。待つしかなかった。荷をその前に置いてあたりをぶらつく。と、一人の若いお遍路さんが向こうからやってきた。順うちであるが、この時間だと前夜はどこに泊まったのだろう?もしかしたら野宿?といろいろ聞いてみたいこともあったが、彼には彼の都合もあろうかと、そのまま挨拶だけ交わして別れてしまった。こちらの経験が未熟で、にわか遍路のわたしに情報がほとんどなかったのが、わたしを遠慮させた?節もある。しかし思えばこのときが歩き遍路さんとの初遭遇だったのである。前日には一人の歩き遍路さんとも出会っていなかったのだ。だから会ったら、ま、挨拶は交わすとしても、何をどの程度話したらいいのか、といったことがわかっていなかった。時に海外での遭遇なんかでも、こちらが遠慮してしまうことは間々あったからである。

郵便局の近くにあった観光案内板?Img_1160_640x480

 久谷郵便局は8時50分には人がいて荷物を受け付けてくれた。1000円くらいで荷物を2kg近く減らせたのだから待った甲斐はあったというものだ。9時にはそこを出発でき、遅れを取り返すべくバス道を登っていく。まだアスファルト道だ。20分くらいいったバスの折り返し点あたりで、今度は自転車お遍路さんに会う。この方は中年という感じだった。逆うちですか、と聞かれる。そういわれてもまだ逆うちということをそれほど意識してなかっので、短い区間の区切りうちです、としか答えられず、こちらから聞くことも思いつかなかったので、そんな簡単な挨拶で別れてしまった。彼からは去り際に、この峠はきついですよ、頑張ってと激励され、こちらも気をつけてとエールを送るのが精一杯、しかし、自転車で廻っている人もいるんだ、あれも大変だろうなと感心してしまったのだった。だんだん坂道は急になったがアスファルト道はしばらく続き、一時間くらい歩いたところで坂本屋という、地図にも載っている休憩地点に着いた。お店は開いておらず、一軒のあばら家の前の道端で作業をしていた老女というほど年は召してないが、ま、おばさんとおばあさんの中間位の女性から、一杯の麦茶を労われた。戸締りがしてあったので、そこがお店なのか、はたまた宿なのか判別できなかったし聞きもしなかったが、もしかしたら今は閑散期ということで閉めていたのかもしれなかった。それでも傍らにベンチがあったので、そこで10分ほど休ませてもらって、礼をいって立ち去ろうとしたら、水を持っていけといって冷凍室で凍らせたペットボトルを一本くれたのだ。この際、水はたいへんありがたかったので思わずお金を渡そうとすると、これは接待だといって固辞された。接待は気持ちよく受けろ、という解説も目にしていたから、深く頭を下げていただいた。だんだんお遍路の素晴らしさ触れいく、核心に入っていくような気がしていた。まさに道も少し行くと漸くアスファルト道が終わって本格的な山道になった。この山登りは先ほどの自転車遍路さんがいうほどきつく感じられなかったが、- もっとも自転車のほうが、山越えに関しては却ってきつかったであろうと想像できた- それでもこの峠は松山~高知を結ぶ昔の往還道で、難所として馬子唄にもでてくると書かれた案内板があった(写真参照)。坂本屋からちょうど一時間の山登りで峠着、むしろその辺までが、わたしには快調かつ順調だった。峠着11:20で10分休憩して11:30ころから峠を下りだしたのだが、そこからはまたアスファルトの車道、国道33号線の下りだった。

なんとも風情のある建物の‘坂本屋’、左に見えるベンチで休むImg_1162_640x480

20分くらいいったところの休憩所、ここは何かの史跡あとだったが由来は控えてないImg_1163_640x480

上記の場所と峠の中間辺りにあった案内板Img_1164_640x480

三坂峠の標識?Img_1166_640x480

上の峠から5分くらい下ると国道(33号線)に出た、左が峠へ続く道Img_1167_640x480


 今はその峠から2kmほど下ったところで三坂道路というトンネル道にぶつかるので、この峠道自体はいたって交通量の少ない道だったが、そのためか頂上付近に茶店も休憩場所もなく、わたしはひたすらどこか休むところ、できれば食事ができるところがないかと探しながら下っていったが、とうとうそれらしきお店に出会うまで、峠から1時間も歩かなければならなかったほど、その道沿いには何もなかった。その間に一人のお遍路さんに出会っているが、国道をはさんでわたしは右側を、その方は反対側を歩いていたから、挨拶を交わしただけ、お年もはっきりとわからないくらいだった。やっと見つけたいわゆる昔の食堂、といった感じの店で昼食をいただく。客はゼロ、その主人は以前素泊まりの宿をやっていたことがあったが、今はやめてしまったといっていた。そういえば遍路地図にはそこから2kmほど手前にも宿のマークがあったのだが、そこもやっていないようだった(最初そこで昼飯が食べられるかと期待したのだが)。料理を作ってくれたお母さん(80代といっていたからお婆さん?全然そんなお年には見えなかったが)も注文したものだけでなく、これも食べて、これも食べて、と煮物やあり合わせ物が入っている器をどんどん持ってきてテーへブルに置いていくのだった。休憩と食事を済ませ、またコンクリート道の歩行が始まる。だんだんしんどくなってくる。途中で雨まで降ってくる。その日の宿は久万高原の癒しの宿‘八丁坂’というところに前日電話で予約を入れておいた。で、この日の行程はそこへ行き着くだけだったから、気持ちの焦りはまったくなかった。わたしがルート策定したとき、おおよそ次のような日程を組んでいた。一日目は既述のように松山市内から46番浄瑠璃寺までは歩けるだろう、そうすると宿泊所は長珍屋しかなかったので、そこは自宅にいたとき連絡を入れておいた。次の日はどこまでいけるか案じたとき、一日にどれくらい歩けるかを想定しなければならなかった。常識的に平地なら平均1時間4km、わたしでも通常時それはまったく問題なかったし単発的なら5kmくらいは可能だったかもしれない。へんろ保存協力会の資料では、平地歩行平均1時間4kmとして1日30kmくらい、時間にして10時間くらいを限度にしたほうが良いと書かれていたが(山道等はさらに時間がかかることも無論明記されていた)、ま、それは健脚・若者の場合であろう。実際30~40kmも歩いている若い人にも出会っている。しかし、わたしの場合は昔はともかく今は歩き続けた場合そんなに歩けなくなっているのを知っていたから、1日20kmと想定したのである。一日20kmとしての松山~宇和島6泊7日だった。そうなると二日目の宿泊地は浄瑠璃寺からちょうど20kmくらいの久万高原あたりがその候補になった。ところがこの久万高原というところは詳しくは知らないが、札所が2ヶ所あったが、むしろ愛媛県の観光レジャーの基地といった感じで宿泊施設はやたらとあって、どこにしたら良いのか決められなかったのだ。たぶん意識的にだと思うが、この優れたガイドブック(保存協力会編の解説書のことをいっている)には、廃業したところも含めて数多くの宿泊施設のリストが載っていたが、評価が一切書かれていなかった。それは当然といえば当然の話だが、連絡先はあってもそこの値段を含めた一切の記載がないから、これほど悩ましいことはない。だから結局あてずっぽで、ということになる。地図を見てエイ、ヤで決めるしかなかったのである。それでも一応候補地は絞ってあった。二日目は移動だけで久万高原まで、三日目が45番44番(この2ヶ所を巡るだけ20km近くあった)を巡って再び久万高原か久万町、四日目、鴇田峠越えで内子町大瀬あたり、五日目が大洲まで歩き大洲泊、六日目が西予市卯之町まで歩いて泊、七日目が43番42番41番を巡って宇和島という日程は可能ではないかと思っていた。で、この日の宿‘八丁坂’もエイ、ヤで決めたのかというと、そうでもなかった。実はここの情報は前日のタクシードライバーO氏から聞きだしたものだった。あまり期待はせずにチラッと久万高原あたりに泊まる予定だが、どこか知っているところはないかと聞いてみたら、ほんとに細い糸だが八丁坂という宿の評判を聞いたことがあるとのことだったので、それを覚えていて連絡を入れてみたのだった。その宿はとてもいい宿だったので、これもドライバーO氏のおかげだったのだ。

 さて、そこまで行き着きさえすれば、その日の予定は終了となるのだったが、存外その道のりは厳しかった。だいたい1時間歩いて一回の休憩をとっていたが、適当な休憩所というものがなかなかなかった。歩いている身とすれば別に屋根のある休憩所でなくてもベンチひとつあればどれほどありがたかったか!?、特に市街部、アスファルト・コンクリート道しかないようなところのちょっとした片隅にベンチひとつでもあれば、である。結局それを探して食事をしたところ(久万高原町東明神)から1時間歩いてやっと久万町立美術館前にある久万公園入り口の休憩所まで、一息入れるところはなかったのであった。もうそこでかなりの疲労がでていた。そこからは少しの登り、そしてトンネル通行が待っていた。小休のあとトンネルに向かう。入り口に反射板の付いたベスト?みたいなものが歩行者のために用意されていたが、面倒だったので持参のヘッドランプを装着して結構長いトンネル(峠御道トンネル 623m)を歩ききる。それほど交通量もなく危険は感じられなかったが、車が迫ってくるときの爆音はけっこう凄まじいものがあった。トンネルを抜けると気持ち雨脚が強くなったように感じられた。そこからは下り道となるが、その雨の中反対側を登ってくる女性のお遍路さんがいた。このときも反対側だったので挨拶を交わしただけだったが、歩き遍路の女性に出会ったのはこのときが最初だった。15分くらいかかって下りきると川があって橋がかかっていた。そこからは地図だと5分くらいだったが、その時急に足裏に痛みを感じた。石でも入ったのかと思って靴を脱いで点検したが、何もなかった。痛みをこらえて必死の思いで宿まで歩く。ちょうど3時ころに到着した。まだ新しくて清潔そうな宿で、とてもあたりの柔らかい女将さんが温かく迎えてくれた。きれいな部屋をあてがわれ荷物を置き、靴下を脱ぐと足裏は両足ともたいそうな水膨れになっていて、それが痛みの原因と理解できた。そしてまともな歩行が難儀になってしまった。

 ありがたいことに、これもお接待ということで、洗濯機・乾燥機はご自由にお使いくださいといってくれた。早速それに甘えて、それまでの分とその日の衣類をすべて洗濯して乾燥機にかけ乾かすことまでできてしまった。その間風呂をいただき、でてから持ってたバンドエイドの類を足裏にべたべた張る。まさかマメ?水膨れになるなどとは思ってもいなかったのだ。原因を考える。靴か?道路か?歩き方か?、その優れた解説書(へんろ道保存協力会発行のもの)にはマメ対策のことが詳しく載っていた。しかしその前に靴選びがことのほか重要であるとして、たとえ高価であっても登山用品店で軽登山靴をお店の人のアドバイスにしたがって選ぶことが望ましいと強調していた。実はわたしはそれを読んでいたがこの説を軽視してしまっていた。それというのも、かつて少なからず山歩きをした経験があったから軽登山靴は持っていたのだ。で、確かに山の縦走等の長距離歩行で、登山靴でも軽登山靴でも、これまでにマメや水膨れになったことは一度もなかった。ただ、わたしはジャングル踏破のようなときは普通のタウンシューズやウォーキングシューズで数日間歩き続けたこともあり、そのときもなんら障害はなかった。事実今回も少し迷ったのだけれど、恐らく何度も書いているようにいわゆる舗道歩きのほうが多いのではと予測して、わざわざ新しいウォーキングシューズを買い求め、それを履いて何回か、数十キロの足慣らしはしていた。そのときはなんら異常なく、むしろ快適に感じさえしたから、今回軽登山靴はやめにしたのだった。どうなんだろう?やはり靴なのだろうか?あるいは舗道歩きで相当消耗したということではないのか?未だそれについて納得いく結論を持っていないが、これについては次回の遍路行で軽登山靴を履いて臨んでみようと思っているので、あるいはそこである程度の結論が出せるかもしれない‥??、、もうひとつ、わたしはマメ・水膨れを予測していなかったから軽視してしまった箇所があった。正直これはわたしの失敗・失策であった。それはテーピング対策という、マメができそうになったら、その箇所に予め貼っておくという手である。できてからでは遅いともいっている。その知識がなくテープも持っていなかったから、今回は結局為すすべなしになってしまった。そういう意味ではいい経験、いい勉強させられたということであった。それでもそのときはまだ軽症と思っていたので諦めてはなかった。少なくともその夜は兵庫から車で来ていた中年のご夫婦と一緒に、女将さんがこの宿を立ち上げた経緯やネーミングの由来を聞きながら、美味しい夕食を楽しんでいた‥、、

癒しの宿‘八丁坂’(次の朝撮ったもの)Img_1168_640x480