独歩の独り世界・旅世界

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インドネシアの旅 第四章 イリアンジャヤ その4,ジウィカJiwika 他


 いずれにしろニューギニア島イリアンジャヤはかなり突然の形の訪問だったから(下調べをしておらず)どこへいったらいいか、どこに泊まるかといった情報はガイドブックか藤原さんのアドバイスに頼るしかなかった。バリエム渓谷トレッキングから戻って、お礼と報告方々これからの話をしていて、その日の宿の話になった。前回のホテルBaliem Pilamoは悪くなかったが、わたしには高すぎたのでガイドブックにあったもう少し安いところにしようと思っているというと、それならば、実は昨日一人の日本の若者が来て、その彼に紹介した安宿、いわゆるホームステイのようなところがあるが、そこでよかったら紹介してくれる、価格は250くらいだけれどどうか、といってくれた。それは願ってもないことだったので、早速藤原さんのバイクで2ブロックほど離れたところのいわゆる一般の家(ま、わたしのところと同じ民泊のようなところ)へ連れていってくれた。たぶん藤原さんとは懇意の方と思われたが、そこは思った以上に素敵なところで、そこの若奥さんがまた実に気さくな人で感じがよかった。これなら最初からここに来ればよかったと思ったが、ま、物事には流れがあるから、それはそれで仕方のないこと(その日-わたしが到着した日 - は空いてなかった可能性もあったし、そのときも先客が出たところらしかった)、むしろその日から2泊できたことを幸運と思うことにした。藤原さんに礼をいって、できたら今夜一緒に食事する時間はありませんかと聞いて、その約束を取り付けた。そのときその日本人の方がいたかどうかわからず、藤原さんは(忙しい人だから)すぐに帰っていった。広い中庭に入ってすぐにここの良さがわかったから、その場で2泊分550(一泊250+10%tax)を払った。一見フィリピーナといった感じの超陽気な若奥さん - Rueさんといった - と話していたら、わたしの隣の部屋から日本人の若者前田君がでてきて、Rueさんがわたしの部屋の掃除とセッティングをしてくれている間彼と少し話しをすることができた。自己紹介のあと例によって彼の旅模様を聞いてみると、なんでもオーストラリアでのワーホリを終えての帰り道で(といっても数年かけて世界一周をして帰るとのことだったが)、とりあえずオーストラリアからパプアニューギニアに入り、陸路で国境越えしてこちら側、つまりイリアンジャヤに入ったのだそうだ。そのルートは知らなかっただけに、おっ、なかなかやるなぁと感心して話を聞かせてもらった。ま、ワーホリ中もけっこういろんなところへ出かけたようで、旅慣れている感じはあった。それで、そのとき彼は何か用事がありそうだったので、今夜藤原さんと夕食を共にする約束がとれたが一緒にどうかと誘ってみたところ了解がとれたので、話の続きはまたあとで、ということになった。部屋の準備が整い、わたしは片付けとシャワー、そして洗濯はどうすればいいか聞いて、彼女がやっておいてくれるということで50で頼んだ。また、ご主人と買い物に出かけるので何かほしいものはないかと聞いてくれ、ビールは無理そうだったからコーラを頼む、かくのごとく誠にフレンドリーかつホスピタリティに溢れた女性だったのだが、どうやらそれはキリスト教の信仰に支えられたものであることを彼女はわたしに語ってくれたのだ。そのとき、そういえばこれまでに確かにわたしは世界中でクリスチャンのこうした愛というのか、ホスピタリティ精神に溢れた慈善的活動にずいぶん助けられてきたことを思い出していた。わたしのなかでクリスチャンに対する考え方が錯綜するのであった。

Rueさんのゲストハウス Hogar Asucok;2枚Img_8104_640x480Img_8103_640x480

 少し昼寝して15時半頃から街ブラに出かける、すべて歩き回るには広すぎた街であったが、それでもこのときはワメナの飛行場(二日後の早朝そこまで歩いていくつもりだったので)からメインストリートのJl.Trikora、その道と直角に交わるこの街の商店街のある道Jl.Irianを歩き回ってパプアコムにいった。Jl.Irianを歩いているとき急に便意をもよおし、我慢できなくなって近くにあったホテルに助けを求めた。快くトイレを貸してくれ事なきを得たが、そのホテルはその対応も含めてなかなか感じがよかった。何もお礼ができなかったので、せめて今度来たら必ずここに宿泊させてもらうと言葉だけで礼をいったが、そのホテルの名前がPutri Daniだったので、この約束は果たしたいと思った。藤原さんとの約束は17時だったが、考えてみれば少し早すぎたかもしれなかった。忙しい身である藤原さんも、従業員の女の子たちも、まだ仕事中であったし、お客さんが次から次と来ていた。わたしは邪魔にならないようにそこでWiFiを借りて、mailのチェックやバリ島の宿探しなどをして前田君の到着を待っていた。彼は17時半頃やってきて、藤原さんが18時頃仕事の区切りを付けてくれたので近くのレストランにいった。酒のないのが残念だったが、そんな話をしながら、酒のない理由や酒にまつわる話などを聞かせてもらい楽しい食事ができた。最もわたしが聞きたかったのは、藤原さんのキャリアならびにここに住み着いた理由だったが、最初は1980年代に日本山岳会の登山隊を率いてこられたのがきっかけだったらしく、その後も何回かこの地を訪れており、ここに住みつくことになったのは2001年ころからとのことであった。で、その理由は!?その答えはなんともわたしを感動させずにはいられなかった。なんと、彼は今風にいうと、ある意味オタク?、つまり絶滅種動物の追っかけ、その幻というか生き残りを追っかけているとのことであった(だいたい想像はつくと思うが、この人の純真さは、本物としか言いようがない ! !)。素晴らしい生き方だと思った、、今では病気をして山はやらなくなったそうだが、その絶滅種動物の情報を得ると世界中に飛んでいくとのことであった。忙しい人なので、貴重な一時間を割いてくれたことは感謝にたえなかった。ほんとにいろいろ世話になって、そんなものでは追いつかなかったが、せめて食事代だけは出させてもらい、彼は先に帰られた。そのあと残ったわれわれは少し情報交換をした。というのもいい按配に、前田君は、前日にわたしが次の日に行こうとしていたジウィカJiwikaというところに一人でいっており、逆に彼は次の日バリエム渓谷に行こうとしていたからだ。Jiwikaへはミニバスがでているから一人で全然問題なしとのことだったが、逆に彼は次の日バリエム渓谷へも一人で行こうとしていた。そこでわたしはわたしの印象をすべて話し、時間的には前回書いたようなこと、つまりキリセ辺りまでは一泊で往復可能、途中まで乗り合いトラックがMisi Pasarからでていることなどを説明、ただしその後の道はわかりわかりづらいし、ま、道中それほど危険はないと思うが、やはり単独行はやめたほうがいいのではないかと一応は伝えた。しかし彼は若かったしそれまでに聞いていた旅暦でも、一応トレッキングの経験もあり、なにより冒険心も旺盛のようであった(ま、この辺りまで来るような人は皆そうだが)。で、簡単な地理的状況やキリセの宿泊場所などを口答で説明し、あとは彼の考えに任せることにした。その夜は一緒に帰って、もう少し話の続きをしてから(前夜ほとんど眠れてなかったから)わたしは寝床についた。その夜も激しい雷雨があったのをおぼろげながら聞いていた、、

街ブラ;4枚Img_8152_640x480空港まで歩いてみた、、Img_8112_640x480_2空港の背景にけっこう高そうな山が連なっていた、、Img_8105_640x480たぶんパプアコムの近くの交差点
Img_8106_640x480_2ホテルPutri Daniには借りができてしまった、、

 次の朝、すべてセルフだが、コーヒーもトーストも(その気になれば卵料理も)いただくことができた。そのゲストハウスは平屋ながら中庭を囲んで客室が6部屋くらいあって(あとオーナーの部屋が二つとDKとリビングスペースがあって)かなりの敷地面積であった。わたしがいた間は、すべて満室状態のようだった。オランダの年配のご夫婦 - この方たちはかなり長く滞在しているようだった - あとは仕事できているインドネシア人らでDKは共有、しかしこれほど至れり尽くせりの宿で250なら他の選択肢は考えられなくなるというものだ。8時頃前田君を送る、次の日戻るとのことだったがやはり彼は一人で出かけていった。そのあと彼と会うことはなかったので(わたしは次の日の早朝そこを発ったから)、どこまでいってどこで泊まったか?、ま、彼のことだから何とかうまくやったであろうと想像はできた。わたしは8時半頃出かける。大通りまで出てベモを探す、それらしき車がいたのでジマバJimaba Pasar?と聞いてみる、okだったのでそれで15分、5でいった。が、そこでは結構難儀する、言葉は地名のジウィカJiwikaしか通じないから、あらゆる車のドライバーにJiwika,Jiwikaといって聞いてみる、それぞれがあそことか、あれと指示してくれるところにいって同じ質問をする、何度か繰り返しているうちにその車に行くきつく、すでに何人かの乗客があった。ドライバーはそのときいなかったが乗客が保証してくれた。その車は9時半にPasar Jimabaを出発した。Jiwikaまでは30分くらいだったか?、まず橋をわたって完璧な舗装道路を行く、周りは田園風景、しかし意外にもこの道はけっこう車の往来はあった。10時頃ここがJiwikaと促されて下車、30だった。降りたところに一軒の家があって、わたしを見つけたからかすぐにコテカおじさんがでてきた。前日に藤原さんに会ったとき確かこのおじさんのことは聞いていて、相当有名人らしかった。なのでいわれるまま挨拶してその家に入った。なんと片言の英語が通じたのだ、、で、家の中 - そこにはいろんな写真が貼ってあった - や後ろの畑 - ヒョウタンの畑で、それが即ちコテカの元であるが - に案内してくれ、とどのつまりはコテカを一つ買う羽目になった、というかこれは一つくらい土産にいいかと思っていたので、彼の写真を撮らせてもらうことと合わせてひとつ購入してあげた(あとで街でもう一つ買うことになったが、それはだいたい20~30の相場だった、そのときは知らずにコテカと写真代として50払ったが、払いすぎてはいなかったようだ、彼からしたら不満だったかも知れないが?)。しかし彼はそのあとたいへんよく面倒を見てくれたのだ。早速Jiwika村へ案内してくれた。Jiwika村は道路を渡って200mくらいいったところにあって、ここは相当観光客が来ているようで、いわば観光村といった感じであった。この村がツーリストの対象になっていると思われたのは、まず村の入り口があってそれは仕切られた区画になっており、そのゲートから入ると10件くらいの家屋が並んでいて、ま、それで一箇村となっているのだが、そこの住民はみな裸族で写真を撮らせる代わりに入村料として一定の額を納めさせられるのであった。それにはそこで大事に保管されていた300年位前のミイラの拝観料も含まれていた。なのでわたしがヤギさん - バスを降りたところの家のおじさん - に連れられてそこに入ってまずしたことは、そこの村長との料金交渉であった。いくら珍しいからといっても、こういうのは交渉ごとである、村長氏は最初150といってきたから、わたしは100で何とかしてくれと頼む、で、その折り合いは120で結着したから素直に払った。そして奥から出してきてくれたミイラの写真を手を合わせてから撮らせてもらった。しかし、それを拝ませてもらうと、そこから1時間ほど山を登ったところに塩作りの池があるとガイドブックにはあったが、そこまでは行く気になれず、もう十分とした。それはJiwikaまでの途中にあった村、アキマAkimaという村にも同じく300年位前のミイラが保存されているとのことだったが、そこもパスすることを意味していた。それでも20分くらい待ってつかまえた帰りのベモのドライバーにはAkimaと告げて、そこで降ろしてもらった(Jiwika~Akima間は20だった)。そこでは少し歩かなければならないAkima村へは行かず、これもガイドブックにでていたのだが、展望の丘というのがあったからそこに行ってみることにしてそこで下車したのだった。もちろんそんな標識も看板もなかったが、それらしい丘が道の右手にあったので、そこに登ってみた。人はおらず、道もあるようではっきりしなかったが、適当に歩いて高みに至った。そこからはそれほど展望がいいわけではなかったがWamena方面の展望はきいた。しばらく休んでからまた道まで降りて次のベモをつかまえる、12時ころにはPasar Jimabaに戻った。

Rueさん宅の中庭Img_8107_640x480Img_8108_640x480前田君の出発前にツーショット

ベモでJimaba ミニバスターミナルへ(ターミナルといってもただの広場、どの車がどこへ行くのかなんて、外国人には見つけようもない)Img_8114_640x480

Jiwika方面行きのミニバスは9時半に出たが、どこ行きだったかは確認できず、、Img_8116_640x480Wamenaで車が渡れる唯一の橋?;2枚(上の写真は橋の手前)Img_8117_640x480

ここがJiwikaといって降ろされたところ、細い並木道を行くとJiwika村があるImg_8119_640x480

その反対側に建つ一軒家からコテカおじさん現れるImg_8120_640x480

確かヤギさんといったか、親切なおじさんだった、、;3枚Img_8121_640x480Img_8123_640x480Img_8125_480x640わたしが購入したコテカに紐を通してくれている、そのあとでJiwika村に連れてってくれた、、

Jiwika村;9枚Img_8128_640x480もしかしたらミニバスでツアー客が来るのであろうか?村入り口前の広場、、

Img_8127_640x480村の入り口?Img_8130_640x480共同村内はこんな感じ、、Img_8132_640x480Img_8136_640x480観光客用の土産物屋?

ヤギさんが案内してくれ村長さんを紹介してくれた(羽根飾り他の装飾品はたぶん最高のもてなしorお洒落?or正装??)Img_8131_640x480

交渉の末拝観料がまとまり、ここのミイラWimontok Mabel mummyを持ち出してきてくれた(今やこのミイラが観光収入の貴重な財源となっているようだ)Img_8135_640x480Img_8133_480x640ミイラを抱えているのが村長さんImg_8134_480x640

帰りのミニバスを道路脇で待つ、、やはりコテカ衣装は今では特殊?しかしヤギさんは特に観光客を意識してではなさそうだった、、
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ミニバスを降りて展望の丘?に登ってみる、ワメナ方面;2枚Img_8142_640x480Img_8143_640x480ワメナの中心部に建てられている巨大十字架はちょうどパプアコムの裏辺りに位置している、、

 ジマバ市場は、先にゆっくり見学してなかったから、このときは写真を撮りながら少し物色してみた。土産になりそうなものはないか、特に手編みの袋ノーケンを探した。数はけっこうあって、それこそそのコーナーだけで2~30人の売り子がいて、それぞれ自分が編んだものか身内が編んだものか、いずれにしろ自作の商品を並べていた。大きさもデザインもいろいろ、いくつか素敵なものを見つけるが、意外にもわたしが外国人だったからか、けっこう高い値段をいってきた。200~300 - コテカの10倍 - それはそうであろう、このある種芸術品はすべて手製であるのだから十分にその価値はあった。が、その値段では街の土産物屋、あるいはRueさんのところで販売していたものと変わりがなかったのだ。どうしようか迷ったが、結局そこでの購入はやめにした。すべてがいまひとつ、これというのを見つけられなかったからだ、、そこからまたベモで街まで戻る、が、そのとき大失敗をやらかす、やってきたベモに乗るときに背負っていた小さなバッグにヤギさんのところで買ったコテカを指しておいたのだが、それが長すぎてはみ出しており、車のドア枠上部に引っ掛けてあっさり、というか簡単に割れてしまったのだ。悔しかったが、ま、そんなに高くはなかったのだからと諦めるしかなかった。その車には同じく外国人のツーリストが乗っていて、彼らはホテルバリエムピラモで降りたから、わたしもそこで降りた。彼らはホテルの宿泊客であったが、わたしはその通りの向かいにあった食堂に行きたかったのだ。前日に見つけてあったところでメニュウにcotoがでていたからであった。懐かしきマカッサル名物チョトはモツの煮込みとご飯といった感じでわたしのお気に入りだった。が、なんとその価格はマカッサルの3倍?55、ま、ある意味ここは離島?(遠隔地?)飛行機しか輸送の便がないのだから、イリアンジャヤはすべてが割高になるのも仕方のないことのようだった。それでも帰り道に割れてしまったコテカでは土産にならないから、もうひとつ土産物屋で探してみた。案外洒落たもの-ヤギさんのところで手に入れたものより、全然よくできていた - が30で売っていたから(それはそんなに高くなかったし、そもそもそれはこの地でしか買えなかったから)一つ購入して貴重な土産とし、その後の運搬・扱いには十分注意するようになった(日本につくまで)。そこから銀行に寄って15時頃パプアコムに寄らせてもらった。別れの挨拶と礼を述べに寄ったのだが、最後のお願いもあった。それは今一度WiFiを借りて、次の日からのホテルの予約をすることであった。調べてあったバリ島のKutaとUbudのホテルの予約をし、その場所の地図をプリントアウトしてもらった。最後までいろいろ面倒見ていただいて、お礼のしようもなく、ただただ頭を下げてそこを辞した。むしろなにがしか手数料の形で受け取ってくれたほうが、こちらとしては気持ち的に楽だったが、それも適わずご好意に甘えるばかりであった、、ただ思ったことは、できたら近いうちに再訪したいということで、またきます、といって別れの挨拶とした。

Pasar Jimabaジマバ市場;4枚Img_8144_640x480Img_8146_640x480Img_8147_640x480ノーケンはこの辺り2列で販売されていた、、Img_8150_640x480その端には弓矢の類、これもお土産用か?

Hotel Balien Pilamoの前辺りに見つけてあったcotoの店で昼食Img_8151_640x480

パプアコムに寄る、藤原さん&美女軍団を撮りたかったが、拒絶されそうだったので止めてこの2枚、地図はほしかったのだけれど手に入らなかった、、Img_8153_640x480Img_8154_640x480

 Rueさんには次の日朝が早いことを告げておいた。わたしの飛行機は、朝一の6:15発の予定だったから、遅くとも5時半には着いてなくてはと思って、5時のチェックアウトのつもりで、その方法を教えてもらった。最初は歩いていくつもりで、それでも20分で着くと見込んでいたのだが、あとからRueさんから、朝早くチェックアウトするのはかまわないが、その時間はまだ真っ暗で、安全性の保証ができないからタクシーにしなさいといわれた。そのときマカッサルの悪夢が甦り、その通りかもしれない、少々高くつくが身の安全を考えてそうするかと思い直し、5時にタクシー(100)をお願いした。そしてパッキングをして、前からなかなかいいと思っていたノーケンを一つ購入(200)、夕食にはこれもRueさんのところの袋麺(10、卵もサービスしてくれた)と近くの何でも売っている小さな店で仕入れたバナナのフライと干し小魚がそれぞれ5だったから、合計20で夕食を済まし、早めに床についた。次の日は4時半に近くのモスクから流されるコーランで起こされ、目覚ましは不要となった。起きだして洗面を済ませ、コーヒーを飲む時間がありそうだったのでキッチンに行くと、すでにRueさんが起きていたのにはびっくりさせられた。この人の素晴らしい人間性には感動的ですらあった。タクシーは5時に正確に来てRueさんに見送られて空港に向かった。そのときも雨が降っていたのだ、まさにタクシーにして正解だったのである。ただし、5時5分についた空港では、すでに来ていた数人とその後に到着した10数人と一緒に、空港が開く5時半まで、扉の前で待たなければならなかった。つまり最終的には6時半離陸だったから、もしかしたら6時に空港到着でも間にあったかもしれない?ということだった。フライト時間1時間でJayapuraに着く、ここでは乗り継ぎ時間が15分しかなく大慌て、しかしここでも7:45発予定は30分遅れて8:00搭乗、8:15の離陸だったから、いずれもセーフだった。マカッサル着11:30は現地時間10:30で、そこでは4時間半待ち、マカッサル発15:00のSriwijaya Airは20分の遅れで16:30にバリ島デンパサールのNgurah Rai国際空港国内線ターミナルに着いた(フライト時間は70分で金額は4500円くらいだった、尚前回述べているかもしれないが、マカッサル~ジャプラ~ワメナの往復は3.2万円くらいだった)、、

Wamenaの空港;3枚Img_8155_640x480Img_8158_640x480Img_8159_640x480

Wamena~Jayapura間;4枚Img_8165_640x480Img_8167_640x480Img_8171_640x480
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上の2枚(着陸前)と下の1枚(離陸後)はいずれもJayapura近辺Img_8176_640x480

次回の旅の行き先に決めている香料緒島の島々が眼下にいくつも現れた、が、どれがどれだったかはわからずじまい、写真もうまく撮れなかった、、Img_8181_640x480

マカッサル直前、雨模様だった、、
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