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インドネシアの旅 第二章フローレス島 その2, Liang Bua リアンブア洞窟(Liangはたぶん洞窟という意味?)とホモ・フロレシエンシス

Liang Bua洞窟の写真を最初にもってきた、中から撮ったもので左下の人間の大きさから洞窟の大きさがわかると思う、、Img_7346_640x480


 序章で述べたようにこの旅のそもそものきっかけを作ってくれたのが、このLiang Bua(タイトルのようにリアンブア洞窟というと洞窟が重なってしまうので、以後洞窟は省く)で2004年に発見されたというホモ・フロレシエンシス(通称ホビット)の発見・発掘現場を是非見たいと思ってはるばるやってきたこの地は、その意味では今回の旅の第一の目的地だったのだが、日本を出発して5日目にしてようやくその地ルテンにたどり着いたのだった。そして当初知り得なかったことだが、そこにゲストハウスを営む日本人女性がいたことは、とても幸運なことであった。で、堰を切ったようにわたしはまみーさんにいろいろ質問していた。最初は身近なこと、つまり食事をするところはあるか、ATMは近くにあるか、ビールを売っているところはあるのか?そして明日リアンブアに行きたいが、どうやっていったらいいか?リアンブアを目的に来る人はいるか?そもそも日本人でここまで来る人はどのくらいいるのか?そしてプライベイトなことながら、いつから、どうしてここにお住まいになっているのか?といったことまで根掘り葉掘り聞くので、まみーさんも相当うんざりされたのではないだろうか?そしてもっとも重要だと思われた次の質問にも的確に答えてくれた。わたしにとってそのとき重要だったのは、ここに二泊できるどうか?だった、できれば二泊して洗濯をしたかったのだが、もしかしたらその余裕はないかもしれないと思って、この先のルート等について聞いたのだ。わたしは31日の夕方にはマウメレMaumereに着いてなければならなかった、で、できれば途中一ヶ所バジャワBajawaに寄れれば寄りたかった(その日は1/28だったが)。ここからバジャワ、マウメレの交通機関はどんなもので、可能性はどんなものだろうか?と聞いた。答えは、それなら明日の午後のバス(これがGunung Mas busだったのだが、それは朝と午後の二本しか出てないとのことだった)でバジャワまでいったほうがいいのではないか?Liang Buaへは明日の午前中にいって帰ってこられるだろう、たぶんベモ(一定のルートを走る乗り合いワゴン車)またはオジェでいけると教えてくれた。それを聞いてこの快適なゲストハウスの連泊と洗濯は諦めることにした。そして教えてもらった近くのレストランに食事に出かけ、かなり暗い街中をビールを求めてふらついた(あとでわかったことだがここは館内では禁酒、禁煙だったのだ)。近くの中国系(華僑?)のレストランでおいしい食事(ビールは置いてなかった、グリーンカレーが20000Rpは安くてうまかった)をとってから、ビールを売っているらしい店を探したが見つけられず、ATMで多少のRpを引き出して戻った。シャワーを浴びようと思ったが、それほどその日は汗をかいてなかったのと、そこが相当寒いところだったので身体を拭くだけにした。その夜は久しぶりにmailのチェックができたが、送受信をしているうちにどんどん睡眠時間がなくなっていくので途中でやめて床についた。よく眠れたが、朝方の大雨の音で目を覚ます、いやはや、雨季とはいえこれまでそれほどの大雨に降られてなかったから、雨具はまだ使ってなかった。が、その日は本格的な雨対策を強いられそうだった。

 さて、ここで若干のリアンブアのホモ・フロレシエンシスについて、またまた受け売りの解説をしておかなければと思う。インドネシアホモ・エレクトス(ジャワ原人)などこれまで有名な古人類の化石、骨などの発見・発掘場所が無数にあった。そしてそれまでの定説を覆す大発見が、このフローレス島ルテンのリアンブアで見つかったのが先にも触れたが2004年のことだった。たかだか15年前の話である。どうしてそれが大発見だったのかというと、これまでの人類の進化の流れのどこにもあてはまらない新種?としてしか扱えないような特長を示す骨がでたからで、それはなぜか体長が1mそこそこで、よって脳の容積も極端に小さく、それまでの人類(ホモサピエンス)とみなす頭蓋容量(最近までは500CCとか?)に達していなかったのだ。つまり発見当時は、それは新種の人類なのか、あるいは新人に至る前の旧人、原人の系統なのかという議論を生んだらしい。その発見者オーストラリアの考古学者Mike Morwood及びオーストラリア、インドネシアの学術調査隊が2003年から2004年にかけて発掘・調査し発表したものは驚くべき事実を伝え、衝撃的なニュースとなって瞬く間に世界に広がったということだが、新聞その他を読まないわたしがそのことを知ったのは昨年のことであった。そしてたいへん興味深く思ったので(遅すぎだが‥、、尚、その経緯はわたしが手にした本‘ホモ・フロレシエンシス 上・下<NHK books>’に詳しい)素人が故の無謀さというか、何もわかってはいなかったが、ともかく野次馬根性でその現場を見たいと思ったことが、そもそものこの旅の発端だったということはすでに述べた通りである。そして今、そこまで車で(またはオジェ=バイク)で1時間のところに来ていたのである。もちろん多少の雨でもいくつもりでいた、そのための時間はその日の午前中しか残されてなかったのだから‥、、

順序どおりでないが先にLiang Buaの写真を6枚載せてしまう、、Img_7350_640x480Img_7349_640x480Img_7331_640x480Img_7334_640x480Img_7340_640x480Img_7347_640x480

 まみーさん一家はルテンの中心部にあって薬局及び雑貨屋?を営んでおり(ゲストハウスは副業?しかし当初は二部屋からはじめたそうだが、今や10数人が泊まれる大きなゲストハウスになっていた)、その家の角から各地にいくベモがでていた。まみーさんに教えられた行き先をいって、まずベモのドライバーと交渉するも、言葉が通じなくて話にならなかった。というのはまみーさんがいうには、リアンブアの近くを通るベモはあるが、往きはその近くまでいって降ろしてもらえばいいが、帰りはベモが何時に通るか全くわからない、だから多少お金を払って待っててもらうか、時間をいってきてもらうしかないとのことだったが、そんな込み入った話ができるわけがなかった。それはベモのほうが全然安上がりだと思ったから(それと雨が降っていたから)そうしたのだけれど、それならオジェのほうが高くとも話は早そうだった。オジェドライバーもたむろしていたからリアンブア?リアンブア?といってみた。一人が名乗り出て50000Rp(400円くらい?ベモだと10000Rp?)でいくといってきたから、思ったより安いと思ったので値切らなかった。実際片道1時間、見学30分で、トータル2.5h拘束するのだから高くはなかった。すぐに完全装備のつもりでポンチョ型の雨具をかぶってバイクの後ろにまたがった。しかし8:30に出発したときには雨はほとんど止みかかっていた。一つ問題だったのはヘルメットがきつすぎてメガネをとらないとかぶれなかったことで、30分ほどはせっかくの景色を楽しむことができなかった。が、雨上がりとはいえなかなか美しい田園風景の中をいき、遠くに山が見えてきたので、止まってもらってヘルメットを脱いだ。そこからはところどころで写真を撮りながらいく、、正確には45分でリアンブアに着いた。番小屋があって管理人のおばさんが出てきて20000Rp払う。後から一組、地元?の家族連れと一緒になったが、われわれが着いたときは無人だった。感慨深く中に入り写真を撮る、なかなか立派な、いや大きな洞窟だった。写真で見たことがあったが、ここは何万年、いや驚くなかれ100万年前から1.5万年前まで、現生人類の前の原人と思われるホビットが生活していた場所だったのである。彼らは小さい身体ながら共同でステゴドン(島嶼化によって小さくなったゾウ)を捕獲し、洞窟内で火を使用し石器を用いていたらしい、しかし、彼らは現生人類(ホモサピエンス)でなく、150万年以上前にアフリカを出たとされるホモエレクトス(ジャワ原人他)の系統らしいのだ。すでに絶滅してしまった彼らの多くの祖先(亜種)の中でどうして彼らだけ1.5万年前まで生き延びられたのか?そもそもどうやってウォーレス線を越えられたのか、といった疑問や謎は尽きないのだが(たぶん今でも多くの学者が研究中、論争中のようである)わたしのようなド素人の興味も尽きないのである。尚、現生人類の出アフリカは2~30万年前のことらしい、、門外漢のわたしがもっとも興味を覚えるのは、その人類の拡散である。このホモ・フロレシエンシスに限らず何十万年前に人類はどうやって海を越えられたのか?今の南太平洋の島々の祖先は中国大陸(ユーラシア大陸)から渡ってきた人々らしい(5~10万年前?)、またコロンブスのはるか以前、たぶん紀元前に大西洋を越えた人はいたであろう?このホビットの祖先もウォーレス線を越えているのである。いったいどうやって?人類拡散の謎(寒冷期に海面が下がり陸棚になったところは別にして)も尽きないのである‥、、

角の家(お店)がMJR Ticketing Guest House、道路右側にベモ、オジェが待機しているImg_7370_640x480

Liang Buaまでの道 ;5枚Img_7315_640x480
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時々ベモと行き交ったImg_7321_640x480この悪路は流石にバイクからおりたImg_7361_640x480川の向こうに見える小山の中腹に洞窟があったImg_7323_640x480川を渡るとゲートまであった、往時はたいへんな数の観光客が押し寄せたことであろう‥??

管理人のおばさんが出てきたImg_7326_640x480

洞窟前の道
Img_7328_640x480下からImg_7351_640x480上から

上から番小屋を振り返る、小屋の向こうが博物館
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 小屋の横の建物が博物館とのことだったので帰りに覗いてみた。こんな辺鄙なところ、その日はたまたまわれわれのほかに一組の客があったが、すでに往時の盛り上がりが覚めて15年もたっている今、ほとんど訪れる人もいないのではないかと想像できた。が、それにしては小規模ながらきちんと整った博物館だった。それも当時の熱狂の残滓のようにも思われた。帰り道は来たとき以上にstopをかけて写真を撮りながら帰った。ありがたいことにその間雨には振られなかったのである。10時半にはルテンの街に戻ったが、Gunug busは14:00と聞いていたので、少しルテンの街を歩いてみた。昨夜は夜だったのでほんのわずか歩いたに過ぎず、右も左もわからなかったが、ここはマンガライ県の県都?お役所の立派な建物がいくつか建っていた。人の流れも多くけっこうな賑わいで、そのど真ん中にMJR Ticketing Guest Houseはあったのである。あとで知ったことだが、その中心部の一角は昨日のレストランもそうだったが華僑の出身者で占められており(実際世界中の街で商売に成功しているのが華僑で財を成している)つまり近隣はすべて彼女のご主人の親類か縁者でかたまっているとのことだった。そのご主人と彼女はお二人がアメリカに留学中だったときに出会われたそうで、その後結婚されてここに住むことになったらしいと話してくれたのは、そのとき偶々そこに泊まってらした日本人の倉地さんという方だった。で、もっと彼から話を聞きたいと思って11時ころゲストハウスに戻ると倉地さんは食堂にいらしたので、コーヒーを飲みながら、またいろんな話を聞くことができた。彼はこれも偶然だったが、わたしと同郷の人で、千葉県東金の方、わたしの住まい千葉市もよくご存知だった。彼はすでに40年くらいインドネシアと関わっているといっておられたが、お年は73歳と聞いたからわたしより先輩で、1977年から仕事でこちらに住んでいたが、今はリタイアされて日本に住んでいて年に何回かぶらっとインドネシア詣でをされているという、このゲストハウスの常連さんだったのである。彼はインドネシア各地に滞在され、それこそインドネシア中の道路の建設に携わっていたらしく、インドネシアのことはほんとに詳しかった。物静かな語り口ながらその話は含蓄のあって面白いかったし、お勧めの観光スポット(例えばティモールスマトラ島の話)やバリ島デンパサールのお勧めの店なんかも教えてくれ、はたまた千葉の話から東金の話まで話題は尽きなかった。ルテンの街にも詳しくて、ちょうど昼時になったので一緒に近くの中華屋(ここもご主人の親戚とのことだった)に出向き、久しぶりに汁たっぷりの麺を食べることができたのだが、ここでも失態、またまたご馳走になってしまったのだった。

博物館の展示を写す;4枚Img_7355_640x480Img_7358_640x480Img_7357_480x640Img_7360_640x480

帰路の風景(同じ道だったが);2枚
Img_7363_640x480美しい棚田Img_7368_640x480丘の上の道からルテンの街を写す

ルテンの街;5枚Img_7372_640x480main street

前にインドネシアは島によって宗教の勢力図が違うといったが、フローレス島はキリスト教が強かった。まみーさん一家もキリスト教徒とのことだったが、この教会とは別のところのようだった、、Img_7373_480x640

ところどころ信号があって道路標識がたっていた
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左が政府機関の建物、右が警察署、手前はグラウンドあるいは単なる広場?Img_7371_640x480_2

MJR Ticketing Guest Houseに戻るImg_7377_640x480

千葉・東金の人倉地さんと中華レストランに、結局下のおそばmie kuah?をご馳走になってしまった
Img_7379_640x480Img_7378_640x480この汁そばはインドネシア料理店にはなく、ここが中華屋さんだったから頼めたのだと思うが、うまかった、、

 ほんとにここは一日で去るのが惜しまれたのだが、しかたなかった。お世話になった皆さんに礼をいって(まみーさんFamilyの写真を撮らせてもらったりして)、バジャワ行きのバスのドライバーが迎えに来たので14:10まみーさん一家、そして倉地さんに別れを告げた。そこからバジャワまでは4時間半かかって到着は18:40だった、、

まみーさんfamily、写真の掲載許可をもらって撮らせてもらった、左の次男さんは超優秀で(ここに写ってないが長男さんも)四ヶ国語を話した、、Img_7383_640x480

Gunung Mas Busのこのときの乗客は外国人ツーリスト10名くらい、インドネシア人3名くらいだった、、Img_7391_640x480

景色抜群の浜辺近くのレストランで17:10に休憩Img_7390_640x480雲に覆われているが右の高い山が、これから向かうバジャワのInerie火山、その左の丘陵をバスは登っていった、、

途中の山道から、先ほど休憩した浜辺を振り返る、、Img_7394_640x480