独歩の独り世界・旅世界

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インドネシアの旅 第一章 その3,ウォレス線とアルフレッドウォレスAlfred Russel Wollaceについて

 今回は旅の話から少し脱線して、ウォレス線とその発見者の19世紀の巨人、アルフレッド・ ウォレスAlfred Russel Wollaceについて一章を割きました、、正直いうとこの人については今回の旅がなかったら、その存在を知ることはなかったと思います。恥ずかしながらこの人はどんな人か全く知りませんでした。なぜ恥ずかしながら、といったかというと、普通はこの人のことは知らなくても別に恥じる必要はないと思いますが、偶々ちょっと気になったので早速図書館で調べてみたら、なんとこの人は19世紀の博物学者だったのですが、その名が知られるようになる前は探検家だったからです。若い頃探検という言葉に惑わされて現を抜かしていた身としてはいささか穴があったら入りたい心境になったからです。しかし彼の経歴を読み進めていくうちに、そんなことよりももっと重要で世界史に残る人物だったことを知るようになりました。それがこのウォーレス線、だったのではありません。一通りこの人物を知った後では、このウォーレス線なんか、彼にとっては、あるいは歴史上の重要さにおいてはおまけみたいなものだということもわかってきました。その辺のところを受け売りでこのあと紹介していきたいと思いますが、その前にではウォーレス線とはなんだったかということについて知りえた範囲で説明しておきたいと思います。

 いや、生半可の理解で説明するより、今の世は誰でもすぐにWikipediaで何だって検索できてしまいます、なので、それをコピぺするほうが確実で早そうです。が、しかしアナログ人間はその方法を知りません、なので、それをそのまま書き写すことにしました。ウィキにはこうありました‥、、

‶ ウォーレス線(Wallace Line);インドネシアのバリ島、ロンボク島間のロンボク海峡からスラウェシの西側、マカッサル海峡を通りフィリピンのミンダナオ島の南にいたる東に走る生物の分布境界線のことをいう。これより西の生物相は生物地理区のうちの東洋区に属し、東はオーストラリア区に属するというもの。1868年、アルフレッド・ラッセル・ウォレスが発見したことからこの名がついた。

氷期には海面が下降し、東南アジア半島部からボルネオ島、バリ島までの一帯がスンダランドと呼ばれる陸続きになっていた。同様にパプアニューギニアとオーストラリアはサフルランドを形成していた。スンダランドの東側とサフルランドの西側は陸続きにならなかったことから生物相が異なる状態が現在まで続いているものと考えられている。″

 …(生意気に)少し受け売りで補足するとバリ島とロンボク島の間が陸続きにならなかったのは、今の状態からいえばそれほど水深が深かったから、ということだと思います。また1868年の発見というのは、実際はこのことに気がつくのは彼が1854年から1862年にかけてのマレー群島(ここでいうスンダランドがあった辺りの島々)を探検、採集、研究していた頃のことで1856年にバリ島からロンボク島に船で渡ってしばらく滞在していたときのことのようです。ただ、その概念が知られるようになったのは1863年の王立地理学協会において発表された論文‘動物の地理的分布’が最初であった。1868年というのは、その学説をハクスリーが認め、それをウォーレス線ともよぶべきものとして称えた、つまり世に認知された年ということではないかと思われます。ともあれ、それは生物地理学上、未だに通用している学説として(その後多少の変遷はあり)画期的な大発見で、ウォーレスの名は世に知られるようになったった‥、、

 しかし、彼にかぶせられる勲章はそれにとどまらなかった、というかそれ以前に、とてつもない業績をすでに成し遂げていたのだった。それはその頃同時代の科学者、生物学者、地質学者としてすでに名声を博していたあのダーウィンとの関わりであった。もちろんそれは彼が植物学者、生物学者、(魚、昆虫を含む)鳥獣ハンター、植物採取家 - それは同時に旅行家、探検家を意味したが - としてはじめて南米に赴いたとき、すでにダーウィンビーグル号航海記’は世に出ていたし、後の遍歴でも明らかになるように階級社会のイギリスで彼とダーウィンとでは出自が違っていて、ウォレスの評価がダーウィンをしのぐことはなく、またウォレスのダーウィンに対する敬慕の念は生涯かわらかなかったことに関係してくるかもしれない(最後は同等に遇され、多くの栄誉を授かり数々の叙勲を賜わり、そしてダーウィンの葬儀にはその棺を担ぐ一人になっている)。しかしともあれ、ダーウィン種の起源をめぐって、当時ほとんど時を同じくしてダーウィンとウォレスは同じ構想、同じ説を発見して、どちらが先かと学会を悩ませたといった経緯を聞くと、そんなことがあったのかと驚かざるを得なくなる。ウォレスはその閃きを1848年から1852年の間のアマゾンに於けるフィールドワークと先述の1854年から1862年のスンダ列島領域での活動を通して導かれたようで、なんとその説を論文にしてイギリスにいるダーウィンに送ったのだった(すでにそのころはお互いを認知していたようである)。で、ごく手短に言ってしまえば、それに驚いたダーウィンはそれも参考にしながら急遽自説を整え自然淘汰説を発表したらしいのだが、当時それはダーウィンとウォレスの共同発表という形をとったようであった。つまりダーウィンのもっとも有名な‘種の起源’は、ウォレスの力添えもあって成し遂げられたものといえたらしいのだが、その後その功績はウォレス自らダーウィンのものとして捧げ、顕彰されていったようである。そしてダーウィンもそれに答えるようにその後のウォレスを称え、支え、助力を惜しまず、二人の関係は良好に終生続いたというような美談まで、わたしは知ることになったのだった。だが、その後二人の名声は、一方は未だ世界の誰もが知る、歴史の上で燦々と輝く地位を得ているのに、それほどの功績のあったウォレスについては、今やほとんど忘れられかけた人物になりかけている、どうしてこうまで開きが出てしまったのだろうか?そのことについてもわたしが読んだ本にはきちんと触れられていたが、(そこまでわたしが触れるのは無理なので)ま、少しはウォレスという人の人となりを理解してもらえたかと思って、わたしの受け売りはこの辺で終わらせていただくことにします。それにしても、わたしには稀にみる面白い(&凄い)人物に思えたので、興味のある人には図書館行きを勧める次第である。最後にひとつだけ付け足しておきたいことがある、それは彼の最初のアマゾン行きのことである。わたしもアマゾンは下ったことがあり、わたしの仲間は本格的なアマゾン遠征隊の一員として1970年代に足掛け5年くらい、その地を隈なく歩きほとんどの支流まで踏破してきた。が、それを遡ること120年前にアマゾン川本流からリオネグロの支流まで入って、分水嶺を越えてオリノコ川までいたるその探検行は探検部の端くれとしては、まさに驚異を持って面白く読ませてもらった、個人的にはこの部分においてAlfred Russel Wollaceという人に最大の敬意と拍手と賛辞を贈りたいのだが、いささか遅すぎの感あり、すでに150年の時がたってしまっていたのだ、、どうかウォレスの名声甦れ ! ! である。<了>