独歩の独り世界・旅世界

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インドネシアの旅 第一章バリ島~ロンボク島~スンバワ島(次回からこの部分ヌサトゥンガラ緒島とす)その1,バリ島へ

 前回の序章で書きましたが、バリ島自体はわたしにとっては目的地ではなく、ま、どうでもよかった。バリ島は30年位前に家族で正月を過ごしたことがあり、そのときは確かにまだ楽園であったし、とてもよい印象を残してくれていた。が、その後のバリ島爆弾事件がまだ記憶に新しく、その前後辺りからの俗化の象徴のような発展振りを聞いていたから、その魅力はわたしからは遠ざかっていた。なので今回バリ島は最初からスルーするつもりでいたのだけれど、では果たしてどこからiu/outするかがプランニングの際の案件になっていた。大まかなプランニングとしては前回述べたように、まずはいわゆる小スンダ列島インドネシアではヌサトゥンガラNusa Tenggara緒島と呼ばれている島々を西から東へ横断してみることをその第一目的としていた。何故そこだったかは、これも前回簡単に記しているが、その中の一つの島、フローレス島に興味があったからである。ただヌサトゥンガラ緒島も多くの島々の総称で、その中の最大かつ主要な島であるティモールTimorは今回は寄っていない、次回の楽しみとなった。もし時間的余裕がなければ、フローレス島からバリ島に飛行機で戻って、乗り継ぎで帰国するなら10日で十分だったかもしれない、が、1月にこの旅を決めた時点で思い切って予約が入っていない期間を閉館としたから、このときわたしには20日間という時間的余裕があった。それならそこからスラウェシ島も行けるかもしれないと構想はだんだん広がっていった。問題は先にいった、日本からどこに入るか、つまりジャカルタinかデンパサールinかで、これはticket探しの最重要項目で、つまりそれによってスケジュールや地域が決まってくるという側面もあったのだ(つまりジャカルタinの場合はジャワ島の周遊が可能となるがその代わりスラウェシやニューギニアまではいけなくなったであろう、ということ)。

 インドネシア行を決めたのは1月になってからであったが、これも前回いったように最初の構想を思いついたのは半年も前のことで、そのあとちょくちょくとticket情報は検索していた。一番安いticketを見つけたのは去年の秋口で、Vietnam航空でホーチミンまたはハノイ経由でジャカルタin/outの往復が確か3万円くらいだったと思う、で、1月にそのticketを問い合わせたときにはちょうどchinese new yearの時期と重なっているとかで、その価格はおよそ倍になっていた。何社か問い合わせた結果もほとんど同じで、格安ticketで6~7万円だった。インドネシア往復に6~7万も出す気がなかったから、ネットで探しているうちに見つけたのがAir Asiaの航空券だった。往復で4.3万円~くらいからでており(価格は出発日、帰国日によって変動する)しかも直行便でデンパサールDenpasar in/out、流石にLCCである、探せばあるではないかと即決したのが、もっとも安かった1/24発2/15着のticketで4.3万円(諸税込)だった。そう、わたしの場合は価格重視だから、価格を見て日程を決めている部分は多々ありで、それによってプランニングも変わってくることになるのである、、

 そうやって日程はかたまりつつあったが、1月24日を出発日にしなければならなかったのはその日がもっとも安かったからだけではなかった。実はもう一つ理由があって、1月の23日まではなんだかんだ野暮用があったのでそれより早くは無理だったし、その日より遅くすることも難しかったのだ。なんとなればそれが先にいったスラウェシ島行きに関わっていた。できればスラウェシ島にもいってみたかった(地図を見ていただければわかる通りスラウェシ島はヌサトゥンガラ列島ではなく、そのはるか北方に位置している大きな島である。どんな島かは第三章で‥)、で、調べてみるとそこに行くのにもっとも簡便な(距離が近くてかつ便数が多い)のはバリ島デンパサールからの飛行機であった。たぶん4~5千円でマカッサルMakassar/Sulawesiに飛べたと思う。しかし、フローレス島まで数日かけて陸路と船でいって、同じルートを陸路で戻るのも、あるいは飛行機を使ってデンパサールまで戻るのも、どちらもあまり気乗りしない方法であった。できたらフローレス島からスラウェシ島に渡る船はないのか?たぶん1月の半ば頃までこの船探しに必死だった。そして見つける、それこそ一万数千の島々からなるインドネシアには国営の船会社Pelni Lineというのがあって、そこがマウメレMaumere/フローレス島~マカッサルMakassar/スラウェシ島間を結んでいた。もちろんdailyではなく不定期、しかも20時間もかかるというものであったが、何とかつかんだ就航情報によると、わたしにとって好都合な日(乗れそうな日)は2月の1日出航の便しかなかった。そのあとは10日間その間の就航はなかったし、それ以前の便はどうやってもその日までマウメレに到着できそうになかった。逆算して、2月1日の船に乗るには日本を1/24に発つのがギリギリ間にあいそうな日だったのである。こうして1/24発 2/15着のLCC Air Asiaのticketを手にしてわたしはまだ大雪のあとの残雪で真っ白な成田を飛び発ったのであった。

1/22の大雪、1/23我が家の裏側を写す(特に本文には関係のない写真)Img_7111_640x480


成田を飛びたってからの雪景色;2枚(2枚目は肉眼で遠くに富士山が見えていたが写真でははっきりしない)Img_7118_640x480Img_7128_640x480

 成田の出国もスムーズではなかった。ま、朝の8時半発というのは、成田には地の利があるわたしのところからはそれほど問題にはならなかったが、LCCというのは荷物の制限があって、重量7kgまでというのが相当危ぶまれた。実際jet starで四国に行くときもいつもヒヤヒヤだったが、タイのときもそうだったがチェックインカウンターの女性は見てみぬ振り?眼をつぶってくれたのであった。それと幸い席は窓側(今は事前に座席の指定ができるが、web checkinしたときにすでに座席は窓側になっていたので変更はしなかった)で、成田の雪景色が見られてよかったのだが、3席の窓側はトイレが不自由で、トイレの近い年寄りには良し悪し、隣の日本人親子に気を遣うことになった。また、LCCは食事がつかないから7.5時間のフライトで腹をすかしたくないと思って事前に予約をしておいた(弁当500円でコーヒーつき、これはなかなか当たりだった)が、飯を一人で食べるというのも気が引けるものである、この辺は今後どうするかはわたし自身の課題として残った。今いったようにフライト時間は7.5時間デンパサールNgurah Rai 国際空港着は20分遅れて16:20は現地時間15:20(時差1時間)気温は28℃だった。

pre bookingの機内食(500円)はけっこううまかった、ビールは機内販売されていたが隣を慮って購入しなかった、、Img_7129_640x480

バリ島Ngurah Rai Airport(ただの証拠写真)Img_7139_640x480



 先にいったようにバリ島は二度目だったが全く記憶がなかった。それでなくとも記憶力の悪さに定評のあるわたしに30年前は古すぎた。だからはじめてきたといった趣だったが思っていた以上に入国手続きはスムースだった。何年か前からビザも不要になっていたしそれほど混んでなかったからだと思うが、どうやらこの時期バリ島は雨季でオフシーズンとのことで、それほどツーリストの数も多くなかったからかもしれない。まずは両替、どこでも空港の両替はレートが悪いことは決まっており、ATMもあったが、最初は多少悪くともその国のレートを実感するという意味で、とりあえず3000円ほど両替してみた。手にした額は348000Rp<インドネシアルピア>、この通貨に慣れるのにその後一週間ほどかかった。少し詳しく解説しておくと、その後はすべてATMを利用したが(ATMは多少手数料がかかるがレートは悪くない)その後街でみかけた両替屋のレートはだいたい10,000円=1200,000Rp~1250,000Rp(空港では1000円=116,000Rpだった)、わかりやすくいうと1円が125Rpで、そうすると1000Rpが8円、10000Rpが80円、紙幣の最高額である100,000Rp札が800円ということなのだ。これを最初に覚えておけばよかったのだが、この0の多さに何度混乱し間違えたことか?後で知った方法は最初から千単位以下(,000)を無視するという方法だった。最初の料金交渉はオジェOjekドライバー(タイなんかだとバイクタクシーと呼ばれている?)とだった。東南アジアの国々ではこのバイクタクシーは一般的でわたしはよく利用していた。わたしは一人だしタクシー嫌いである、料金はたぶんタクシーの1/5くらいではないかと思う。だから最初からオジェを探した、が、相場がわからなかった。まず行き先だが、わたしは次の日にはロンボク島に向かうつもりでいたから空港近くの宿を予約していた。airbの宿で1300円くらいだった。で、当初は歩くつもりでいた、というか歩けそうなところを予約したのだったが、この暑さと空港付近の地図の複雑さ、そしてコピーしておいた地図のわかりにくさ(実際こまごました、細い道路が迷路のようにはびこるところだったので歩かなくてよかったと後から思った)等々で、バイクタクシーにしたのだけれど払った額はともかくとしてそれは正解だったように思う。ドライバーには住所を示して相手の出方を伺う、100(ハンドレット)といったように思う、それっていくらだ?皆目見当がつかない、いずれにしろ高くいってきているのは確かだから、ノー、そしたら70まで下げた、それでも高いと思ったがある程度相場の見通しがついた、で、わたしは50ならといってみた。彼は60でOKといってきたからそれで交渉を成立させた。それでも彼に利があったことは後から知る相場で今はわかる。50は50000Rpのことで約400円、ま、あの近さならタクシーでもその額で行ったかもしれない‥??、、が、実際走ってみて、思いのほか時間がかかったのである。実際若いドライバーも住所だけではたどり着けず、何回か場所の確認をして、最後にはtel入れてようやく細い路地の置くにある安宿(airbの宿だからhotelでもなく看板もない?)にたどり着く、知っていればバイクなら5~10分で着けるところ30分以上かかってのことだった。だから、ま、ご苦労さんとtipを10(以下,000がつくが)はずんだが、気前がよすぎたかもしれない、最初はともかく金銭感覚がわからなくてよくやってしまう軽率な振る舞いだった。ともかく16:50にairbの宿にチェックインできた。

 シャワーを浴びて着替えて早速街に出た。やらなければならないことが二つあった。ひとつは前述した船会社Pelni Lineを探すこと、もう一つが次の日のロンボク島へ行く交通手段、シャトルバスが出ているとのことだったがその会社Perama社を探すことだった。Pelni社のBali島オフィスは宿の近くにありそうなことは調べてあった(宿の選択もそれで決めていた)。Perama社の場所は少し遠くて歩けるものか地理感がつかめてなく、わからなかったので行ってみる(歩いてみる?)しかなかった。ホテルの従業員に(airbの宿だったが、ホテルのようでもあり、プールがあって客室も10くらいあった)簡単に現在地と付近の地図を書いてもらい、それと‘歩き方’の地図を参照にして歩き出す。大通りに出てしばらくいくと屋台がでていたので早速腹ごしらえ、昼飯代わりのMie Bakso(kは発音しない、Mieは麺、つまりこれは肉団子麺)はその後どこでも見かけるのだが、初のインドネシア飯は口にあった、が30000Rpは少し高かく感じた。大通りを10分くらいいったところにPelni社はあったが、すでに閉まっていた。たぶん16時頃までのようだったが、明日の業務開始時間等のアナウンスはどこにもなく、その後近くの人やトラベルエージェンシーの人に聞いてみたが、8時という人あり9時という人ありで全く不明、ま、これがインドネシアらしいところといえば、その通り、ということかもしれなかった、、

 そこから30分くらい歩いたか?バリ島Kutaのど真ん中、例のバリ島爆弾事件のあったところ、今はモニュメント(慰霊碑)の建つところからさほど遠くないところにPerama社はあってそこは当然まだ開いていた。明日のシャトル情報を聞く、ロンボク島Mataramまで行くには朝6:00発のシャトルしかないこと、ロンボク島行きのフェリー乗り場のあるパタンバイPadangbaiへは10時のシャトルがある、といった情報を得る。ということでPelni社が9時オープンだとギリギリになりそうなことを確認、すべては明日次第ということになった。暗くなりかけた同じ道をビールの売っているコンビニ(どこにでも売っているわけではなかった、人に聞いて知るが、その店でもビール<ロング缶30000Rp=240円だった>はけっこう高く感じられた)に寄り、take outできそうな飯屋を探して、インドネシアといえばナシチャンプルかナシゴレン?ナシゴレンを20000Rp(160円)でtake out(持ち帰り)とし、例によって部屋飯で初日は閉じたのだった(実際は閉じなかったのであるがそれは次回)‥、、

宿の門構えだけはバリ島らしかった、、Img_7143_640x480

大通りの屋台でBakso(肉団子麺)を食うImg_7144_640x480

ナシゴレン(焼き飯)の部屋食、これもうまかった、、Img_7146_640x480