独歩の独り世界・旅世界

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チュニジア・イタリア紀行 最終回 Ostia Antica~帰国まで、、

  やっとというか、漸くというか、どうにか最終回です。年内に何とか終わらせようと思っていたのですが、何とかカタはつきそう、、しかし、年とともにマンネリ化し体力は落ちて、旅そのものが面白くなくなっていることは承知しています。そんな旅にここまでつき合ってくださってありがとうございました。もしかしたら、もう一回まとめをお届けすることになるかもしれませんし、来年も懲りずにまた出かけることになるかもしれませんが、いずれにしろ来年もよろしくです ! !

 その日の朝食を断ったのは、何せインスタントのコーヒーから牛乳からジュースまで冷蔵庫にあったし、湯沸かしまで備えてあったのだから、それならパンでもあれば朝食としては十分と思え、わざわざPatriziaに来てもらうまでもないと思ったからだった。それで前日に夕食のピザを買ったときに、朝食用にと思ってタルトを買っておいたのだが、これは流石にイタリアと思わせるほどうまかったし、わたしの朝食としてはそれで十分だった。そしてバックパックのパッキングは完璧にして、それを預Patrizia経由Fabioいたから、すぐにそれは承知してくれ、7時には戻ってくるつもりであることを告て、8時半ころFabio氏宅を後にした。

 Ostia Antica遺跡は、他の遺跡と同じ8時半からのオープンで、Fabio氏宅から5分のそこへ一番乗りかと思ったら、すでに一組の先客がいた。半額の4€を払って入場、どこもそうだが、人のいない遺跡はほんとに、ゆっくり昔を偲べて多くを語りかけてくているような気がするのだ。ここの遺跡もかなり広範囲に昔の姿を留めていて、大きな街だったことがわかる。ローマを支えた外港として発展した街で、その後は他の都市と同じように、神殿やフォロ、劇場、浴場、商業施設が建設され、最大時に5万人人口を抱え都市と。この広大な一画を回るのに、ここでも2時間を要した。ポンペイほどではなかったが、10時を過ぎたころから、多くの団体客が押し寄せてきて、ここも郊外の静かな遺跡ではなくなっていった。つまり、数少ないながらここも含めたローマを巡る観光コースはあったということで、毎日相当数集客を誇っているようだった。それでもローマの中心地にある名所・史跡に比べれば、ずっとずっと静かに遺跡語りかけてくれるこの遺跡を最後に訪れたのは正解だったかもしれなかった。わたしにはここを宿泊地に選んで当たりだったことと合わせてOstia Anticaは極めて印象が良いところとなったのであった。

Ostia遺跡;36枚Img_4829_640x480_2公園入り口Img_4830_640x480_3メインストリートDocumano Massimo;2枚Img_4835_640x480_2

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モザイクの残る浴室;4枚Img_4838_640x480Img_4841_640x480_2Img_4839_640x480_2Img_4840_640x480_2

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劇場あととその前に広がる同業組合広場?;7枚Img_4845_640x480_2Img_4846_640x480_2Img_4848_640x480_2Img_4852_640x480_2Img_4856_480x640_2Img_4850_640x480_2Img_4854_640x480_2Img_4857_640x480_2

Img_4851_640x480_2Img_4858_640x480_2食堂?Img_4861_640x480_2カピトリウムと上からの眺め;4枚
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テヴェレ河がすぐ脇を流れている、かつての積出港辺りか?Img_4864_640x480_2Img_4867_640x480_2

広大な敷地にさまざまな建物が点在していたが、ガイドブックもなく、また説明板もほとんどイタリア語だったため、以下の写真の解説は無理、、Img_4870_640x480_2Img_4873_640x480_2Img_4874_480x640_2Img_4877_640x480_2Img_4878_640x480_2Img_4880_640x480_2Img_4881_640x480_2Img_4883_640x480_2Img_4886_640x480


 その時点でまだ半日の余裕があった。が、その日はあいにく天気が悪かった。そのときはまだ傘の出番はなかったが、電車に乗って2回乗り換えて、地下鉄A線のバルベリーニBarberini駅で降りたときにはパラパラときていた。で、Berberiniに下車した理由は、実はたいしたことではなかった、というかむしろ結果としては間違えだったのかもしれなかった。というのは、その時わたしはどこへ行けばいいのか、はっきりと行ってみたいところがあったわけではなかった。ローマまで(ピラミデまでは30分くらい)の電車の中で、持っていたコピーを見ながら、どこを抑えておこうかと迷っていて(それほど名所はいっぱいあったが、ここだけはというところがあったわけでなかった)、結局選んだところがパンテオンPanteonだった。別にどうしてもというわけではなかったが、そこそこ有名だったことと以前来た時に寄っていたかどうかの記憶が全くなかったからだった。そしてそこにいくには、地下鉄駅からだと、どこからも遠そうだったが、その中でもバルベリーニという駅が近そうだったから、というより、その駅前のバルベリーニ広場から、市内をめぐるミニバス116番がでているというような記事を目にしたからであった。が、前日と同様、この乗り場がよくわからなかったのと、ようやく見つけたそのバス停で待っても待ってもそのバスは来なかったのだった。すでにイタリアのバス、特にローマのバスを信用してなかったわたしは(それはわたしの探し方の悪さとかタイミングの悪さであったのかもしれないが)歩くことに決める。しかしこれも前日と同じくだが、方向がわからずに、また確かな地図もなく、あてずっぼに歩くことになった。ま、あとから思えばまたバカやってしまったとも、あるいはほんとにカンが鈍くなっているともいえるのだが、その時も迷うのである。というか、そもそも現在地がわかってなく、方向もわかってないのだから、迷うという言い方は正しくないかもしれない。こっちではないかと歩いていったさきに何もなかったのだ。いや、ローマでは何もないということはありえない、10分も歩いて何もないことはないのだが、しかし、その表示が完璧でなかったように思う。道の表示も建物の表示も、普通それがしっかりしていればそれを確認できた時点で現在地はつかめるからだ。が、そのとき少なくとも30分は彷徨い歩いてとある広場にでたのだけれどそれが何という広場かわからなかったのである。そしてまた、これも予想してなかったことだけど、ローマ中心部の道がみんな狭くて、いわゆる幹道らしい目印になる道路にぶつからなかったのである。また、わたしはついついいろんな裏道・小道に入ってしまう癖があった。そうやって一時間彷徨い歩いても、知っていれば30分でたどり着いたと思えるパンテオンにたどり着けなかったのである。一度だけ人に聞いてみた、ホテルマンだったから、道も知っていたし完璧な英語だった。しかし、これは完璧な英語を話されたから逆にわたしが半分くらい聞き損なってしまっていた。それで、言われたようにいって、途中までは行けたと思うが、どこか一ヶ所間違うともう元の木阿弥、また裏道をぐるぐるということになった。そんなんで、最初に行き着いた広場がコロンナ広場P.za Colonnaだったらしいことをあとから知るのだが、その時は全く分かっておらず、だからパンテオンはそこからすぐだったこともあとから知るのであるが、そのときそこで少し休んでから、歩きだした方向は全く逆にいってしまったのだった。なのでしっかりした地図さえ持っていたら、コロンナ広場から5分で着けたのに、また30分歩いて着いたところは、これまたその時はどこかわかってなかったが、どうやらポポロ広場P.za del Popoloというところだったこともあとから知ったのである。そこではその場所の名称看板は目にしなかったが、パンテオンの方向を示す案内板はあったので、結局来た道を戻ることになった。そうして、またしばらく歩いていると、どこをどう間違えたかわからないまま、見覚えのあるところにでたのだった。わたしはそこにいくつもりではなかったのだけれど、なんとスペイン広場にでてしまったのであった(ここも特に表示があったわけでないが、さすがにここは覚えていた)。が、そこは目的地ではなかったし、その時は雨が降っていたから、写真を一枚撮って早々にそこをあとにする。しかしこの時、ようやく確たる場所がわかったので、方向もつかめたのであった。

彷徨い歩いていき着いた4広場Img_4888_640x480_2少しぱらついていたバルベリーニ広場

30分ぐらい歩いてたどり着いたコロンナ広場、しかしそのときはどこだかわかってないImg_4889_480x640_2

さらに30分くらい歩いてたどり着いたポポロ広場、しかしこの時もそこがどこだかわかってないImg_4890_640x480_2

また30分くらい彷徨って出たところが、スペイン広場だったImg_4891_640x480_2

 バルベリーに駅から歩きだして、時たま降ってくる雨の中1時間半くらい歩き続けたと思う、この日も早疲れ切っていた。もちろん歩きながら、すでにずっと昼食時だったからローマで最後の飯をどこかで食べようと、わたし向きレストランを探していた。食事処は無数にあったし適当そうなところも何ヵ所かあった。で、どうしようかと何回か躊躇ったが、最後の一押しがなかった。また、狭い道を歩いてて、もうパンテオンは近そうだと確信が持てたあたりにあったレストランが、その最後の一押しを押してくれた。要は、そこの店員から呼び止められ、ランチ飲み物付きで10€と声がかかったのが、その一押しであった。くどいかもしれないが、値段や格もさることながら、ま、わたしにいわせればそんなことが入りやすさにつながるということであった。だからこの時は手頃な価格のセットメニュウにこだわらず、ま、最後ということもあってうまそうなものがあれば、それを食べてみようと思っていた。その声をかけてくれた店員は、パスタが食べたいというとシーフードバスタを勧めてくれた。それは飲み物付きだが、少し高くて14€だったが、それを頼む。で、それは確かにうまかったのだけれど、奇妙な巡りあわせとでもいったらいいか、イタリアでの最初と最後の食事が同じメニュウになってしまったことが何とも不思議だった。もちろん魚介満載だったが、皿を覆うそのほとんどはムール貝で、それはパレルモでKeigo氏が、イタリア料理を食べたいというわたしの注文に応じてつくってくれたものと同じものとなったのであった(彼は最初にムール貝を大皿を出してくれて、そのあとトマトベースのパスタだったが、この時はトマトベースのパスタの上に山盛りのムール貝が乗っていたのだから、ま、メニュウとしては同じ、そして奇妙なことに味も価格もほぼ同じであった)。それでも付いていたグラスワイン一杯では足らなくなって、お代わりを注文することになったが、それは最後の昼飯に満足だったということであった。その店員にパンテオンの場所を確認すると、前の道を行くとすぐだと教えてくれ、少し酔っ払ってその店をあとにした。

これがそのときのシーフードパスタImg_4894_640x480_2

 雨のパンテオンは、それでも人だかりができていて混雑していたが、写真だけ撮れば十分だったので、それは気にならなかった。というか、疲れもとれて少しいい気分だったから、実際は何も見ていなかったに等しい。思えばそこまでが長かったから、到着しただけで達成感があった?それだけでよかったのである。それにしてもである、確かにそこはちょっとした広場になってはいたが、わかりずらかったのである。こんなごちゃごちゃした道の中の方にあるとは思ってもみなかったし、ま、ローマ中心部の街中全体がオノボリサンにはわかりずらかったということであった。なのでローマは全体として手こずってしまったという印象が残ってしまったのだった。パンテオンからはナヴォーナP.za Navona広場がすぐだった。ここもよく知られた場所だったので、パンテオンとはセットで考えていたから、そちらへも寄って写真を撮ったりしていると、すでに16時近くになったいた。もうローマはいいか!?ということで、そろそろ戻ろうとしたが、はてどうやって??、バカの一つ覚えで40番か64番のバスでTerminiにでるのが一番確実そうだったのでその乗り場を探すが、確かそのバスは街中は通ってなかったはずだ。で、川の方へ歩いていくと、これも見覚えのあるトラムの乗り場があった。確かこれはヴェネチア広場にいってるはず、で、来た電車に乗ると一つ目か二つ目が終点のヴェネチア広場だった。ということはヴェネチア広場までは歩いても近かったようだった。ちょうどトイレにいきたくなって、こういう時こそBarを使う、といった知恵はあったので、近くのBarでカフェアメリカーノ(1.5€)をもらってトイレを借りた。そこからはバスでTerminiにでてピラミデでLido線に乗り換えた。

パンテオン;4枚Img_4895_640x480_2Img_4898_640x480_2Img_4897_480x640_2Img_4899_640x480_2

ナヴォーナ広場;4枚Img_4900_640x480_2
Img_4903_480x640_2Img_4906_640x480_2Img_4901_640x480_2ここはベルニーニ作の四大河の噴水が有名なのだとか??


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最後によったヴェネチア広場となりのP.za d'Aracoeli


 雨でもいってみるつもりだったからOstia Anticaでは下車せずに二つ先のLido Centro駅までいって下車した。しかし、奇跡に近いのだけれどこの時すでに電車からお日様がでてきたのを見ていた。そこから浜辺までどうやって行くのかは知らなかったが、遠くはなさそうだったし方向は明らかであったから、誰にも聞かずに歩きだす。15分くらいで海岸通りにでた。そろそろ日が落ち始めたころだったが、日没には十分間に合った。オスティアの浜の写真の撮れそうなところを探して歩いていると、ちょっとした広場があって、桟橋というか、まさに夕日を眺めるところといったような場所があった。そこにはすでに市民が集まっていたし、ま、若い二人向けのようなところだった。その浜辺は夏は海水浴で賑わうところらしく、海水浴客用の夏の小屋が無数に建っていた。今は先の広場に人が集まってはいるだけで、浜辺には人影はほとんどなかった。ここが、その昔ローマの外港のあったOstiaの海だったのか、と昔に思いを偲ばせたが、港そのものはすでに1世紀には存在していないようであった。太陽の沈むまで、しばらくその辺をうろうろしていた。その一日の雨天が嘘のだったように、二日前の予想が見事に実現するという奇跡的な逆転劇?、わたしは素晴らしいOstiaのサンセットをイタリアの最後の光景として瞼に刻んでFabioおじさんの家に戻った。到着はちょうど19時、Patriziaの姿はなく、直接礼をいうことができなかったが、Fabio氏には一つ覚えのgrazie milleの連発で別れを告げる。荷物を背負って帰りがけに、二晩世話になった食料品店(酒屋兼惣菜屋)によって安ワインを一本土産として調達して、駅に向かった。ところがここからは今度はちょっとした悲劇がまだ待っていたのだった。まず、電車が相当遅れていた。で、ピラミデで下車しオスティエンセ駅に着いたとき、予定していた19:47の列車には1分遅れで間にあわず、次の20:17分を待っていたら、何と突然にその列車はキャンセルになって、その列車に乗っていた空港へ行く乗客は全員そこで降ろされることになった。結局20:47発の列車でぎりぎりになってしまって、それでも何とか間に合ったのだけれど最後にハラハラドキドキされられることになった。つまり3回目の‘1分が60分に’は下手すると飛行機に乗り遅れるという危うい状況だったのである。こうしてともかくも帰国の途に就いたのであった。

Lido di Ostiaの街と浜辺;9枚Img_4908_640x480_2Img_4912_640x480
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Pontile de Ostia オスティア桟橋Img_4916_640x480_2
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Img_4921_640x480_2Img_4920_640x480_2Img_4923_640x480_2Img_4924_640x480_2Lido Centro駅


 だからフィウミチーノ空港では、ほとんど待つことなく機上の人となったのだが、この時も失敗をしていた。23:45発のカタール航空はドーハまでは5時間はほとんど眠れなかった。そして乗り継いだ飛行機は日本人ばっかり、たぶんこのカタール航空は、わたしのticketも安かったが、相当安いticketを出しているからヨーロッパ方面の団体さんがよく使用しているようだった。さて、この乗り継ぎ便でわたしは通路側に座っていたが、ローマで希望すれば窓側をとれた可能性はあったのだ。が、そんなことを考えてる余裕はなくチェックインを終えていた。わたしの失敗は、往路は夜行便だったから、窓側も何も関係なかったのだが、帰りの便は日中に亜大陸の上空を飛行することに気付いてなかったことにあった。たまたま進行右側に座っていたから、少しだけヒマラヤを見ることができたのだけれど、もし窓側の席だったら、ずっと下界を見ながらの飛行となったのである。これはまさに雲泥の差、もったいないことをしてしまったと悔やむ結果となった。こうして、10/19の22:30羽田着、結局そのフライトでもほとんど眠れなかったばかりか、時差ボケからか、その後数週間不眠症の日が続く。ずっと疲れっぱなしの旅だったこともあって、そろそろこんな旅ももう無理なのかと(毎回こんなことをぼやくようになってしまったが)歳を感じさせられたのであった。<了>

帰りの飛行機から見えたヒマラヤ付近;3枚(窓側の席でなかったのが口惜しい、よってどこの辺りかよくわからなかった)Img_4926_640x480Img_4927_640x480Img_4933_640x480