ポンペイPompeiについては、説明は不要かと思う。世界史の中では大きな出来事だったから教科書にも載っているのではないか?、なのでヴェスヴィオス火山の噴火がいつ起ったのかだけをあらためて記しておくに留めたい。というのもその日付はかなり重要だと思うからである。それはAD79年8月24日とのことで、大雑把にいって2000年位前に起こったことだった。つまりその2000年という年月が、この遺跡を見るときのキーワードになるのではないかと思ったからである。
その朝、7時にはSalvator Rosaのマンションをでて、すでに地下鉄の乗り方も覚えていたからすんなりナポリ駅まで行けて、Napoli Garibaldi発7:41のヴェスヴィオ鉄道の電車に乗れた。比較的朝の早い電車だったから混み合ってはおらず、ゆっくり座って8:15にはポンペイ遺跡の下車駅Pompei Scaviに着いていた。が、どうやら少し早すぎたようだった。そこで降りたツーリストはまばらで、駅からすぐの遺跡入り口はまだ閉まっていて、開門は8:30のようであった。なので駅の並び、遺跡入り口前のお土産屋さん、食べ物屋さんもまだ開店の準備中で、特に朝食を求めていたわけではなかったが、コーヒーでも飲めたらとうろうろしていたら、ちょっとした売店のようなところで、それにありつけた。紙コップにもらって、すでに少し開場待ちの列ができていたのでそれに並ぶ。もちろんここでCampania Arte Cardは有効だったので支払いはなく、ポンペイ・エルコラーノ共通入場券がいくらだったのかは聞き逃してしまった。で、8時半には入場したが、また、ツーリストは少なくいい感じに遺跡巡りを始められた。ただ、その朝天気いまいちで少し小雨が降りだしてきたりしたので、入り口近くのパビリオンで噴火当日を再現したビデオを見てしばらく様子見をしていたが、このビデオはとても参考になったというか、興味深いものであった。ちなみにこの遺跡には入り口が何ヵ所かあったようで、わたしが入ったところはマリーナ門と呼ばれているところだった。
Piazza Garibaldi ガリバルディ広場<地下鉄ナポリ駅>
ヴェスヴィオス鉄道車窓から、天気悪し
少し雨模様だったので、ここでビデオを見るが迫力があって大変参考になった、、
さて、そのポンペイ遺跡である。実はわたしはこの遺跡に40年ほど前に一度訪れたことがあった。まだ世界遺産などという制定はなされてなかったと思うが、もちろんポンペイは知らない人はいないくらい有名だったので、ナポリに来てポンペイに寄らない手はないと思っていた。それは話すと長くなるが、恥ずかしながら半年間の新婚旅行中のことであった。今も仲が悪いが当時からしょっちゅう喧嘩しながらの旅の途中のことであったが、我々がポンペイに来たら、たまたまその日は休館日だったのである。で、その後どうしたかはもう全く覚えてないのだけれど、ともかくここに入れなかったことは忘れようもなく、が、かといってどうしてもそのリベンジに来なければと思っていたわけでもなかった。しかし、先にもいったようにナポリに来ていて寄らない手はないであろう、ましてや遺跡巡りの旅をしてきて、そういう意味ではそれまでの遺跡とは意味合いが少し違っても、やはり2000年前の、それも当時の街がそのまま残っているという、世界的にも珍しく(だから有名でもあったのだが)かつ貴重な遺跡を見逃すわけにはいかなかった。もちろん最初から、そのつもりでナポリは2泊を予定していたのだった。そしてやはり見ごたえは十分だったのだけれど、ここの遺跡の印象は初めと終わりではずいぶん違ったものになってしまったのだった。どういうことかというと、わたしはここに3時間いた、そして前半の1時間半は、マリーナ門から入ったので、アポロ神殿、バジリカ、フォロ、大劇場、イシス神殿、剣闘士の宿舎といったあたりから円形闘技場のあるあたりまで主に南側を歩いていた。しかし、その前半だけでその規模がとてつもなく広いことがわかり、これはのんびりしていたら一日かかってしまう、また、相当疲れるであろうこともわかってきた。なにより、涼しくて人が少なくて印象がよかったのは最初の一時間くらいなものだった。ま、どこからこれほどの人があふれてくるのかと思うほど、9時半を過ぎたあたりから急に観光客が増えだし、そのほとんどはガイドに引率された団体さんで、それこそあらゆる国の顔ぶれ、そして老若男女があふれ出してきて、ここがアマルフィに劣らず俗悪な観光地に見えてきてしまったのだった。それでもせっかくだからと、ガイドブックを頼りに歩き回ったが、だんだん人は増え、暑くなってきて、疲れてきてで、最後はもうどうでもよくなってきてしまったのだった。というのも、まだ見終えてなかった北の方にいったとき、そこは細い路地だったが、団体のグループが何組も数珠つなぎ状態で、追い越すことも歩くこともできないところにはまってしまったのである。これまで回ってきた遺跡で、混雑で身動きがとれないなんてところは一ヶ所もなかったし、考えられないことであった。わたしは必死で戻ってそこから脱出したが、疲れは頂点に達していて、これ以上歩くのをやめたのだった。だから、結局40年ぶりに訪れた遺跡もすべて見ることができなかったのであった。が、もし40年前だったらここまですさまじい混雑はありえなかっただろうと思ったのである。ま、それにしてもである、それでもこの2000年前の世界最先端の国イタリアが、こうも高度な文化生活を営んでいたことを目の当たりにさせられて、少々の眩暈というか、つまりその後にもちろんいろんな進歩はあったにしろ、本質的には現代と遜色のないレベルの生活を営んでいた姿をこうも歴々と見せつけられたら、先にいったように、その後の2000年というのは何だったのか、という問を改めて突き付けられたようなインパクトはしっかりと刻み付けられたということであった。おそらくその意味でこの遺跡は高い価値を持つものであることを如実に学ばされたことにおいて、凄いと言わざるを得ないところであった(ま、だから世界中から連日ツーリストが押し寄せてくるのだろうけど、そしてわたしもその一人だったのだけれど‥、、)。
Pompeiの写真を何十枚ここに載せても十分な説明ができないので意味なさいと思うが、ま、感じだけでもつかんでください、、;30枚(だいたい撮影順、ギリシャ彫像の意図はわからないが、当然後から置いたものと思われる)
Abbondanza通りと、その道沿いの食べ物屋とか洗濯屋とか金持ちの家々;8枚
フォロForo北側付近、この頃になると疲れと人混みでどこがどこか、いちいち確認してないForoに戻って、もうヨシとした、、出口から入り口付近を撮る
そんなんで疲れ切って、逃げ出すようにPompeiをあとにした。つまり細部はもうどうでもよくなったのだ、全体をつかめてわたしはヨシとしたのであった。そして、お口直し?にならないかとポンペイとナポリのちょうど中間あたりにあったエルコラーノErcolano遺跡にいってみることにした。Ercolano Scavi駅まで15~20分?ちょうど12時ころ着いて、駅前の道を海に向かって下っていくと遺跡があるとのことだったので歩きだすと、ちょうどお昼時で、駅前にあった数件のレストランは呼び込み合戦を繰り広げていて、そのうちの一人につかまってしまった。しかし、わたしの場合はこういうのは歓迎だった。それでいくらくらいで食事ができるのかと聞くと、メニュウを見せてくれて飲み物入れて10€くらい?ピザだともっと安かったが、さすがにピザはもういいといった感じになっていたので、その男に帰りに必ず寄るから先に遺跡にいってくる、と約束して、そのまま歩いてエルコラーノ遺跡まで行く。10分くらい歩くと、ちょうど道から下をのぞくといった感じで、そこにエルコラーノ遺跡が、今の街のまさに真下に埋もれていたのがよくわかる形で発掘されて復元されていた。規模は小さかったので、疲れた身体にはありがたく、ticket売り場でカードを見せて入場した。そこからさらに下り気味に遺跡に降りていく。ここも当時の面影が、そのまま残っていて、その生活レベルの高さ、文化度の高さに驚きを隠せずに歩き回ること約一時間、こちらは1時間もあればだいたいは歩き回れたのであった。そして約束通りに、駅前のレストランまで戻ってようやく一息ついたのであった。
Ercolano 全景;3枚今の市街の下に位置することがよくわかるのと同時に、2000年前の家々がそのまま甦ったとしてもそれほど違和感がないのにも驚く、、
個々の家々;7枚、モザイクやフレスコ画がよく残っている
ピザはもう食傷気味だったのでパスタを頼もうと思ってメニュウを見ていたら、リゾットが目に入って、もう値段を気にせずにそれを頼んだ。思えば何日ぶりの米の飯だったか?いわゆる海鮮リゾットは、もう少し食べられたと思わすほどうまかったからか量的な物足りなさを感じた。ま、それでもビールとそれで12€だったので大満足の昼食だった。疲れがとれてお腹もいっぱいになって、そのあとはナポリに戻ってもう一ヶ所の重要ポイント、ここも見逃せないナポリ考古学博物館にいくつもりだった。が、そこで重大なミスが発覚、やむを得ず宿舎に戻った。カメラのバッテリー切れであった。そこから1時間で戻るとお父さんに迎えられた。多少英語がわかるので事情を説明、そしてバッテリーの補充、その間mailのチェック、これも予期せぬ流れでそうなってしまったが、そのとき重要なmailが入っていて、まだツキはあるように思えた。それは次の日の宿泊先Patriziaからのもので、急遽明日の予定の変更を知らせるものだった。つまり彼女の家が緊急工事で使えないので、近くのおじさんの家を提供することになったというもので、その了解を求める内容のものだった。もちろん異論なく、ついでにその場所へのいき方、時間等の確認の返信を送る。そんなんで約1時間、バッテリー補充は十分でなかったが、お父さんにこれからまた出かけること、夜9~10時ころになるかもしれないこと、明日は7時半ころ出る予定だけれど挨拶ができないかもしれないことなどを伝え、とてもお世話になってありがとうございましたとgrazie milleを連発して再び出動した。
このリゾットはうまかったか、量的に少し物足りなさが残った、、
考古学博物館はSalvator Rosaから二つ目のMuseo駅だったから16時半には着いていた。すでに無料では入れる2ヶ所は使用済みとなっていたので、半額の6€を払って入場、ここも思ったほど大きな博物館ではなかったので、少し助かった思いがした。ギリシャ時代の彫刻や絵画、貴重品・宝物が目白押しといった感じ、ゆっくり見たらキリがないし、いちいち確認して回る時間はすでになかった。で、一つの彫像だけを求めて、ざっと見て回って1時間、しかしお目当ての作品を見つけることはできなかった。ここには数多のギリシャ彫刻が展示されていて、やみくもに写真に収めていったが、ここにあるはずのディオゲネス像(何回か前に書いている犬のディオゲネス、その時参考にした山川偉也著の‘哲学者ディオゲネス’のなかにその像がナポリ国立博物館にあると記されていた)は見つけられなかったのだった。何回も書いていることだけれど、わたしのような凡才にとっては、せっかくの美術館・博物館も‘猫に小判’でしかない、おまけに物忘れがひどいから、写真にでも収めておかないと、そんなところに行ったっけ?、そんなのあったっけ?になってしまう。なのでざっと一周しただけで考古学博物館をあとにした。一応、それをもって当初期していたナポリの予定はとりあえず消化し、あとはどうするか?、暗くなりかけていたがまだ少し時間があった。さて、どこへいけるか、行くならどこへ行くか、とガイドブックを広げる。行けるなら行ってみたいところとしてわたしはオノボリさんだったから、やはり高いところ、サンテルモ城Castel S. Elmoという丘の上にあるらしいお城にいってみたかったが、果たして入場時間に間に合うかどうかが問題であった。そもそも行き方がよくわかっておらずガイドブックをチェック、それによると、どうもケーブルカーがあるらしい、で、その乗り場は?、モンテサントMontesanto駅は地下鉄2号線Cavour駅(ちょうど1号線Museo駅と2号線Cavour駅は乗り換え駅でつながっていた)からひとつ目だったので、まずCavour駅に行ってみた。で、このとき初めて乗る2号線のCavour駅のプラットホームに立ったが、そこがモンテサント方面にいく電車のプラットホームなのか、ナポリ方面つまり逆方向へ行くホームだか確かめてなかった。ちょうどそのとき電車が入ってきたので、一か八かで乗ってみた。果たしてどっちの駅に着くかの賭けであった。わたしはこの賭けに勝つことができた。モンテサントの駅から出て、少しいくと郊外へ行く電車の始発駅、ターミナルがあって、ケーブルカーの駅も併設されていた。が、わたしの持っているカードではゲートが開かず、そんなはずはないと聞いてみると、入って構わないといわれ例のカードで乗車できた。ケーブルカーを降りてからも道は定かでなかったが、カンと人の動きでなんとか入場時間ぎりぎり18時半にサンテルモ城に着く。で、ここは何時閉門で入場料はいくらかと聞いたら、意外なことをいわれる。理由はわからなかったがタダで入れたのだった。閉門は19時半とのことで、それでも1時間の時間があった。そのお城の上からは、すでに日は暮れていたのでナポリの夜景が素晴らしかった。ちょうどヴェスヴィオ山の左肩から登ったお月さんが満月で、その大きさ、明るさともに今宵ならではの絶景に花を添えた。たぶんその日は10月15日だったから、日本でも十五夜だったのではなかろうか?、まさにナポリを見て死ね、のナポリを見られたのではないかとこの幸運を喜んだ。もちろん写真にも収めたが素人の夜景写真では、その美しさまでは表現できていないから、このときも(独り)自己満足で終わるしかなかった。というのも、そのサンテルモ城とその前面の広場に面した絶景の地‘国立サン・マルティーノ美術館’前の広場は言わずと知れた若いカップルたちの場であったのだから、、こうして、19時半前にはそこをあとにし、またケーブルカーで丘を下った。
サンテルモ城入り口付近;2枚
お城の上から;7枚サンテルモ城下の国立サン・マルティーリノ美術館前広場は素晴らしい展望台であって、若いカップルの場になっていた
ナポリ湾、南と南西方向;2枚
このケーブルカーを往復に使う
ケーブルカーと郊外行き電車の始発駅でもあった、モンテサント駅周辺はちょっとした下町の雰囲気があって、賑わいのあるところだった。そこから宿舎のある.Salvator Rosaに戻るには、前日に寄り道した地下鉄一号線ダンテ駅が歩いても近そうだった。なのでそこからは下町雰囲気を味わいながら、どこか入りやすそうな飯屋でもあればとダンテ駅のあるVia Toledo方面に歩いていた。細い道にお店が建ち並び、ほんとにそんな感じはたまらなく良かったのだけれど、一軒の酒場?魚屋?の前で釘付けになる。立ち飲み屋のような雰囲気の狭い飲み屋さんは満席、しかし魚介のフリト(揚げ物、Fritto)のにおいがわたしを去り難くした。たしかtake outもできそうで5€と書いてあったが、どの人が店員で、どう注文していいかわからず、わたしを迷わせ続けた。普通はこういう場なら、向こうから何らかの声をかけてくれるのだが、わたしはその辺りをうろうろしてそれを待ったが、どうも商売繁盛、忙しすぎてそんな余裕がなさそうだった。わたしも行きつ戻りつして諦め難かったが、そんな店は他にないのかと移動した。ところが少しいったところにそれはあったのである。形態はまったく違って、レストランだった。が、通りに面して掲げられていた看板に、英語でturist menuと書かれて7€と出ていた。先の店が諦め難かったので、そのメニュウを出している店に出向いて内容を確かめた。確かに魚介のフライト+飲み物(ワインでもビールでも)がついて7€とのことだった。迷いがなかったのは、その店の外のテーブル席にまだお客さんがいなかったからでもあった。そして応対してくれたおばさんが、東洋系の顔立ちで英語が通じたのであった。そこには珍しく1時間以上居続けることになった。そこで頼んだ魚介のフリトが、うますぎ、まさにわたしが食べたかったもので、またその量が半端ではなかった。そしてそれを食べきるのに、白ワインのボトルがもう一本必要になる。パンまでついてきたから、ま、この旅で一番の晩餐となったのだった。しかもワインのボトル一本追加しても、合計15€だったのだから大満足。やっとのことでイタリア最高!!と叫べたのであった。やはり鍵は食べ物なのか?そのインパクトは確かに大きいかもしれない、、こうしてその夜はダンテ駅から三駅、酔っ払って10時ころの帰着となったが、ご夫婦と顔をあわせることもなく部屋に戻り、荷物のまとめにかかった。なんか終わり良しでナポリは心置きなく去れそうだった。残るは3日、次の日のローマ行きはナポリ発9時であった、、