独歩の独り世界・旅世界

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チュニジア・イタリア紀行 9,シラクサ Siracsa

 さて、シラクサである。このシラクサという街は、おそらく前8世紀にはじまったギリシア人によるシチリア植民の中でも、ナクソスと並んで最も古い街、つまり最初につくられた都市ではないかという点と、その後変遷が、いわゆるシラクサ史がそのままシチリア史となるくらい(ちょっとそれは無理か?でもそのくらい)統治者がいく度と変わってもこの街はシチリアの中心であり続け、その地名も最初から変わることなく続いてきたことは、そのままこの街の存在がいかに大きいものだったかを証明しているようにわたしには思われるのである。つまり少し誇張していえば、3000年の間地中海の中心はシチリアにあって、そのシチリアの中心は、パレルモメッシーナに三分されていた時代も長かったが、常にこのシラクサだったのではないか?と、、ま、それを可能とした、たいへんに恵まれた立地要件がこのシラクサには備わっていたということを聞いていた。その恵まれた立地というのは、どうやらシラクサ発祥の地といわれているオルティージャOrtigia島のことらしく、天然の要塞といってもよい海に突き出た半島が、港としてその交易に、三方を海に囲まれた要塞としては軍事的に常に利をもたらしたということのようだった。つまり、先見の明?その地を最初に発見した時点で、ギリシャ人はすでにを読み取っていたのかもしれない、そして瞬く間に神殿が造られ都市化していったようである。最盛時には100万の人口を抱える大都市だったこともシチリアの泰斗小森谷慶子さんという方の本で教えてもらった。そういった詳しいことはすべて、それらの本からの受け売りで、付け焼刃の知識でしかなかったが、シラクサの名はたぶん小学生のころには知っていたと思う。ま、それは単に日本語化できた、つまり白草と当てることができたから覚えられたのであって、その地にどうしても行ってみたいと、そのころから想っていたわけではなかった、、

 わたしはここに2泊を予定していた。もちろんシチリアでの重要な街であったと同時に、ちょうどここが折り返し地点だったこと、そして、これが決め手となったのだが、前回記したように全日程の調整で実はタオルミーナをカットしたので、次の宿泊地をパエストゥムPaestumに設定でき、その間を急行列車で繋ぐことができ、それがまた例の早割というやつで、とんでもなく安いticketをon lineで手にすることができたのだから(だからタオルミーナをカットしたともいえた、というのもタオルミーナパエストゥムシラクサパエストゥムはどちらも特急指定席込の料金が15.1€だった.)、その列車の発車時間シラクサ発、朝の7:32を考慮すると、どうしてもここに2泊する必要があった。しかし、最初にここの宿をairbnbで予約した時点では、まだ日程も漠然としてて列車のticketも取得してない段階だったから、とりあえず一泊しか予約を入れてなかった。そのあとで結局シラクサには2泊が必要となったとき、先の宿はすでに空いておらず、他を探してみたが立地等で納得いく物件はなかったのだった。で、ま、一日くらいと(後でもう一ヶ所そういうところがでてくるが)ホテルの検索サイトで、airbnb並みの値段のところは流石になかったが、それでも50ユーロくらい(五千円強だったからもう少し安かった?)のホテルをそのオルテージャ島で見つけてあった。予約しておいたaibnbの住まいは、いわゆる本土(新市街)それも駅まで5分のところだったから、最初の日はオルティージャの旧市街に泊り、2泊目が駅に近いところと、結果的にだがその配分はとてもうまくいった思っていたのだった。

 で、シラクサ着が17時ころだったから、まだ明るかったしホテルもすぐに見つかるだろうと高をくくっていた。しかし、そう簡単ではなかったのだ。このころにはガイドブックの情報があまりあてにならないことに気付いていた。カターニャでもそうだったが、ここでもまたオルティージャ島まで無料バスがあるという情報を信じて、いつ来るともしれないバスをしばらく待ってしまったのだった。が、一向にそんなバスは来なかったのである。いや、正確にいうと30分に一本くらいオルティージャ島を巡って駅まで来るバスはあった。しかしそれは無料ではなかったのである。しかし、それはガイドブックの情報が正しくなかったわけではなかった。実はそれはわたしの問題で、多少古くてもそうそう内容は変わらないだろうとケチって最新版のガイドブックを買わなかったからであった。それはそうだろう、一つ古い版は2年位前のもので、そうすると情報は4~5年前のものということになってしまうのだ。むしろ違ってて当たり前、変ってないほうがおかしい、のである。そして、それによる悲劇はこの後にも起こることになるのである。

 駅からオルティージャ島まで、歩くと荷物もあったから20分くらいかかったか?本土と島を分ける運河?に橋が並行して二本かかっていて、Via Malta通りを着たので、P.te Nuovoつまり新しいほうの橋を渡ってオルティージャに入ると、明らかに雰囲気は変わって、もうそこは観光地、観光客の世界だった。目の前にアポロ神殿跡があって、その周りは露店や土産物屋、レストランが並んで、その向こうに細い路地が見えていた。その路地裏だったらみつけるのは大変だと思いながら、プリントアウトしたホテルの地図を見ながら、ともかくまずホテルを探した。実は今回は、先にも触れたがもう一ヶ所同じサイトを使ってホテルを予約してあった。たぶんわたしはそこのサイトを二度と使わないと思うが、この時はまだましだったとはいえ、そこのサイトの地図がひどすぎたのである。まだ地図なんかないほうがよかったくらいだ、、それなら住所から探ったと思うからだ。が、なまじっか地図があったからそれを頼りにする。もしその地図がいい加減だったらどうなるであろうか?、いくらそこに示されているところにいっても見つかるはずはないのである。結局住所をから地元の人に聞いてそこにたどり着いたときは、すでに暗くなりかけていたのだった。疲れ切って、明るいうちにオルティージャ島を一周しようという目論見もついえていた。しかし、それはホテルには関係のないことで、実際そのホテルは先の橋を渡ったところから5分くらいのところにあって、こじんまりした素敵なホテルだったのである。

Ortigiaと本土の間に横たわる運河と、向こうに見えるのはPonte Umbertino橋Img_4133_640x480_2

Ortigiaに入るとすぐのところにアポロ神殿跡Img_4134_640x480_2


 すぐにシャワーを浴びて着替えて外出した。薄暗くなりつつある岸壁から海を通した新市街は、やはり趣を感じさせるものがあった。が、せっかく旧市街にいるのだから、と足はそっちに向いた。海沿いの通りをいって、適当なところから右に細い路地を入った。いかにも歴史を感じさせる建物の間の、イスラム統治時代もあったのだからその面影の残る細い迷路のような路地をどこへ出るのかわからないままのそぞろ歩き。その辺りは住宅エリアのようで人通りはなかったが、どこをどういったか、とある広場にでた。そこはもう観光客エリアになっていて、そこで初めてガイドブックを開いてみた。どうやらそこが、Pza.Archimede アルキメデス広場らしく、噴水があった。そう、シラクサアルキメデスの誕生地であり、没したところでもあったのだ。そこからは観光通りのようなにぎやかな通りがあったので、そちらを行く。細い路地に面白そうな店が並んでいたが、どちらかというと(いつものことだが)適当な入りやすそうなレストランというか飯屋を探していた。もちろんレストランも軒並みといった感じであって、どこもこぎれいで洒落ていて、そこにはワインを飲みながら食事を楽しむ人たちで溢れていた。が、そういう店はダメなのである。そうやって路地から路地を、ま、観光客だからそれは自然な行動だったと思うが、わたしはひたすら食べ物屋を探していたのだった。で、とあるところで、ここならというところを見つける。すでに1時間以上歩いていて疲れ切っていた。それもあったが、そこのオープンスペースは、孤食でも違和感のない雰囲気が全体を覆っていたので、ここはいいかもしれないと、その店の入り口にあったメニュウを見てみた。ありがたいことに、そのそばにはお勧めメニュウのサンプルのまであって、それは決して高いものではなかった。そこで席についてそれを注文した。失敗したのは、飲み物付きだったのでワインを頼んでしまったことだった。写真を見てていただければわかると思うが、出てきたそのプレートは、うまかっただけでなく、ボリュームがすごいことになっていた。久しぶりのレストランでのてんこ盛りを、もちろん残さず食べ切ったのだけれど、そのためにはワイン一杯では足りなくなり、ワインのお替りとビールも頼むことになったのだった。それでもトータル18€しかからなかったのだから、特筆すべき店といえたのだが、セコサでは右にでる者のいないわたしは、込みの飲み物として最初にワインでなくビールを頼んでおけば、あと1€安く済んだことを悔やんだのであった。そうやってシラクサ旧市街を酔っぱらいの足取りで帰ったのだけれど、帰ってからにわかにお腹の調子が悪くなってしまった。明らかに食べすぎが原因だった。

ホテルの部屋からport Piccoloと暮れなずむ新市街Img_4135_640x480_2

海岸べりから新市街Img_4136_640x480_2

旧市街の細い路地とアルキメデス広場(この2枚は次の日に撮ったもの)Img_4146_640x480_2Img_4158_480x640_2

この日の夕食、手前のプレートとまだ奥にもう一皿、これにグラスワインがついて10€だったが、ワインは足りなくなって、ワインとビールを追加するImg_4137_640x480_2

酔っ払った帰りがけにDoumoを撮るImg_4142_640x480_2


 ホテルは朝食付きなのがありがたかった。一晩寝てお腹の具合は回復していた。7時半からの朝食を、例によって一番でいただき、そのあとすぐにcheck outできるようにパッキングをして、その荷物は置いたののまま、朝の散歩にでかけた。昨日酔っ払って通ったドゥオモ前の道を行くと、昨日のレストラン前にでた。もちろんお店はまだ開いてない時間で、人通りもまばらだったが、よく見るとそのレストランの向こうがアレトゥーザの泉Fonte Aretusaという史跡だったことを知る。ともかく突端までいってみようと、その道をさらに南にいくと、マニアーチェ城 Castello Maniaceという要塞化した城があった。多分そこが突端のようだったので、有料だった(2€)が入ってみた。朝早かったので、観光客はまばら、その城のさらなる最突端まで行って、そこが確かに難攻不落の要塞(13世紀フェデリコ二世の築城)だったことを確認、ただその防御壁の高さが結構高くて、海の見晴らしがよかったわけではなかった。ま、一応最先端まで来てオルティージャ島の距離感(例えばホテルのあった島の入り口から突端のお城までの時間・距離とか)、だいたいの地理、一周するのに必要な時間がわかったので、オルティジャもこれで良しとしたのだった。ホテルに戻って10時半にチェックアウトして、今日の宿に向かった。無料バスはなかったが、島内をめぐって駅まで行くバスはあるとのことだったので近くのバス停で待ってはみたものの、やはりそれは来る気配がなかった。が、しばらく待っていると、それに乗るらしい地元の人が集まってきていた、みんな老人だった。ということはバスは来るのだろうと、それでも30分くらい待ったか?ミニバスが来たので乗り込む。乗客に観光客はおらず、地元のお年寄りで満員だった。0.5€を払おうとしたが、機械の扱いに戸惑っていると、お年寄りがやり方を教えてくれたが、なんと0.5€ではなく1.0€とのことだった。ま、それはいいとして、その後も各停留所でお年寄りばかりが乗ってきて、その数2~30人にもなったか?わたしも同じ年寄りだったが、観光客はわたし一人、そして結局そのバスで料金を払ったのもわたし一人だったのである。どうもそのバスは老人は無料だったようで、それならわたしもタダにしろ ! といいたかったのである。

朝のホテルから、前の写真と同じ風景Img_4143_640x480_2

朝食はこんな感じ;2枚Img_4144_640x480Img_4145_640x480

朝のDuomo;2枚
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前日食事したFonte Aretusa付近から反対側の港方面Img_4148_640x480

Castello Maniace;4枚Img_4155_640x480_2Img_4150_640x480Img_4152_640x480
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ホテルに戻る途中、Castello Maniace方面を振り返るImg_4157_640x480


上と同じあたりから別方向
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 ほとんどの老人たちも駅で降りたから、新市街に買い物その他の用事で、出かけてきたものと思われたが、わたしも駅前で下車し、そのまま逆方向に、人通りの全くない道を、これもネットでプリントアウトした情報を頼りに今日の宿を探した。その地番のところはすぐに見つかったが、そこは自動車修理工場のようなところだった。まさか、と思いながら聞いてみると、そこで働く若者が親切にも、それは隣だといって、そこへ連れていってくれて、わざわざインタフォンで呼び出してくれたのだった。インタフォンにでた相手が門を開けてくれたから、その若者に礼をいって中に入った。その門を入ると公団のようなアパート群が数棟建っている敷地で、そこの一画からおばさんがでてきて、なんか言ってるが、まったく理解できなかった。というのもそれは、普通に考えられる応対ではなかったからだ。ただ、感じでわかったのはここで少し待っていろ、というようなことだったので、わからないながらも為す術なくそこでしばらく待つしかなかった。そのおばさんはすぐにどこかにいってしまった。いったいここはどうなってるんだ、ま、いろんなホストがいることは聞いていたが、ちょっとひどくないか ! ?、だから安かったのか(この宿は最も安く20€くらいだった) ! ?、もしかしたらここは失敗だったか?、などと思ってるところに車で駆け付けたおっさんが来て、ついて来いという仕草、もちろん言葉でもそういっているのだろうがやはりイタリア語だった。結局待ったのは15分くらいだったか?ちょっとさえないアパートの一室(といっても部屋としてはキッチン、バスルーム等を入れれば5部屋くらいあったか?)に案内された。そして、イタリア語と片言の英語で、もっともほとんどは言葉も必要なかったが、ここには誰も住んでおらず好きに使ってくれというようなことをいわれ、鍵を渡してくれてその使い方(3ヶ所くらいあった)を教わり、あと明日出ていくときはどうすればいいかも確認して、そのおっさんはでていってしまった。それ以降、そのおっさんには会わなかったしmail等で連絡することもなかった。たぶんそのおっさんは、さっきこの敷地の門を開けてくれたおばさんの息子さんだったようだ。あー、こういう家があって、こういうやり方もあるのかと、ちょっと戸惑いながらも、ようやくそこに落ち着くことができたのだった。

 いや、外観は安アパート風だったが、実はその部屋はとんでもなく立派だったのである。イタリア人はみんなそうなのかとその時思ったが、わたしにあてがわれた部屋の家具・調度の豪華さには目を見張らずにはいられなかったのだ。Annaのところも贅を尽くしていたが、ここの家具類、そしてキッチンもバスルームも素晴らしい造りだったのである。まだ新しい大型の冷蔵庫には、飲み物食べ物がぎっしり詰まっていて、すべて食べ飲んでいいといわれたのだけれど、そういわれてもなかなかそうはできるものでもなかった。それでもテーブルの上にあった菓子類やパン類は少しいただくことになったが‥、、ここで結論を出すのは早すぎると思うが、こういう驚きはイタリアで結構経験することになったのである。つまり、予期せぬ凄さ!?、期待外れの逆(日本語ではなんていうのだろう)、そもそも当初の申し込み時のこの家の写真はちょっとみすぼらしかったので、最初から期待はしていなかったのだけれど、そこには宝物がいっぱい詰まっていた、という感じだった。

その日の20ユーロの宿、ベッドルームとキッチンImg_4203_640x480Img_4204_640x480


 荷の整理・片づけをして、12時前に外出、まず駅に向かう。そこからは少し距離がありそうだったシラクサのもう一つのハイライト、ネアポリス考古学公園にまで行くバスを先ほど降りたバス停で待った。が、やはり来ないのである、来る気配はここでもなかった。前日以来イタリアのバスは期待してはいけない、待たない方がいいという鉄則を学んでいた。この教訓はその後も生きる、というか、そのために歩き過ぎるという結果にもなるのだけれど、ほとんどの場合は歩いたほうが早いようだった(もちろん距離にもよるが、しかし今振り返ってみると、今回の旅はイタリアのバスに翻弄され続けた、とも言えた)。だからこの時は割と早めに歩きだした。ここも相当暑いところで、登り気味のmain street Corso Gelone<ゲロン通り;前5世紀の僭主、しかし善政でシラクサの発展に尽くしたので、その名が通りの名に残されていると前述の本にあり>を汗かきながら行く、駅から15分で公園入口ticket売り場に着いた。ま、そこでだいたいわかったのだけれど、駐車場の大きさや土産物屋の多さで、もちろんそこがシラクサの二大観光スポットの一つ(もう一カ所がオルティージャ島)であることはわかっていたが、そのレベル、わたし流のいい方だが、俗化レベルがわかったということだった。ticket売り場で博物館はどうするか聞かれて、普通はいかないのだけれどコンビticketなら13.5€といわれて、それを求めてしまった(考古学公園だけなら10€だったか?)。そして考古学公園は約2時間、暑い中を観て回った。観光客の多さは、ま、予想通りだった。ギリシャ劇場、陸上競技場、円形闘技場、それまでに素晴らしい遺跡を見てきていたので、すべて物足りなかった。人の手が入りすぎている感じがした。それと、見えるかと思った海が、少し高い位置にあったギリシャ劇場からも見えなかった。あのタオルミーナの海を背景としたギリシャ劇場を期待してきたのだが、それは適わなかったのである。それでも少し面白かったのは、かつて石切り場だったところのディオニュシオスの耳という洞窟というところで、甚だ興味深いものがあった。ま、そんなところで疲れ切ってこの考古学公園を後にした。で、せっかく博物館も入れるticketにしてしまったのだからと、そちらに向かう。州立パオロ・オルシ博物館は、少し離れたところにあって、そこまでの10分?も遠く感じられた。が、ほとんど人のいないその博物館は、わたしのような素人でもわかるほど素晴らしかったのである。一つ一つ説明できないが、その展示品の多さ、展示の仕方、そこに展示されている個々のものが、すべて感銘を与えてくれるようなものばかりであった。この彫像はすごいなと思って写真に収めたものが、ランドリーナのヴィーナスと呼ばれている大変重要かつ有名なものであったことを後から知るのである。わたしはずっと前からいい続けてきたことだが、期待すると外れ(考古学公園)、期待してないと当たる(その日の宿、この博物館)という法則は、この日も立証されたようだった。

考古学公園内のギリシャ劇場;2枚Img_4161_640x480Img_4163_640x480

陸上競技場と円形闘技場;3枚Img_4172_640x480Img_4175_640x480Img_4176_640x480

石切り場;4枚Img_4170_640x480Img_4171_640x480Img_4165_480x640Img_4168_480x640ディオニュシオスの耳;左2枚

考古学博物館;4枚Img_4183_640x480Img_4185_640x480Img_4187_640x480Img_4186_640x480右の彫像がランドリーナのヴィーナス

考古学博物館隣のサン・ジョバンニ・エヴァンジェリスタ教会Img_4179_640x480

 帰り main streetは下り坂だったので、その道をだらだらと駅に向かった。そしてわき道に入り、裏道を行く。そう、適当なレストラン・食べ物屋を探しながら、、もちろんmain streetにも、裏道にもそれはあったのだが、昨日のようなピンとくる店にはなかなか出くわさないのである。まだ夕食の時間ではなかったが、もしそんな店でもあれば出直そうと思ってのことだった。が、結局見つけられないでいたところに珍しくスーパーが現れた。これはいい、ここでなんか仕入れようと、早速入って物色、できれば新鮮な魚介が、すぐに食べられるように売っていれば理想だったが、それはやはり無理のようだった。それでもサラダ、パン、ワイン、ビールすべて入れて6ユーロだったのでうれしくなってしまった。早速アパートの宿まで戻ってワインを冷蔵庫に入れ、シャワーを浴びてからビールで喉を潤した。昼飯を食べてなかったから、買ってきたパンとサラダも、そしてワインも開けてしまった。疲れも吹っ飛び、ようやく一息ついて、そのうち酔いが回ってきた。気が大きくなったのか、外はまだ明るかったので散歩にでたくなった。観光客のいないまったくの間道をあてもなく歩く。しばらく行って鉄道が下を通る橋を越えると大通りにぶつかったので、そこを右に曲がった。それをずっと行くと考古学公園に行き着けそうな道だった。そして、その道をしばらく行った右手に、それを発見したのだった。何だあれ?かっこいいではないか!?、ま、酔っていたとはいえ感動してしまった。シュールだなぁ ! これがイタリアだ ! !、すぐにカメラを取りに戻る。往復15分、すでに日没が始まっていて暗くなったら写真は撮れないと思って急いだ。もちろん十分に間にあって、その写真を何枚か撮った。わたしのシラクサでの一押しは、これで決まり、たぶんこれに勝るものはないだろうと自画自賛した。もちろんその写真を最後に載せておくが、それは煙突だったのである、、

夕暮れ時の散歩にでるImg_4197_640x480

上の道から発見したシュールな煙突;3枚Img_4189_640x480Img_4193_480x640Img_4194_640x480