独歩の独り世界・旅世界

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チュニジア・イタリア紀行 3,ドゥガ Dougga

 残りが二日になって、当初ここだけはいってみたいと思っていたところをいくつかカットしなければならなくなっていた。プランニングしていたときに、チュニジアで是非見たいと思っていたところとして、カルタゴ・ローマの遺蹟に限れば(チュニス以外では)あとはドゥガDougga、チュブルボマジュスThuburbo Majus ザグアウアンの水道橋L'Aqueduc de Zaghouan そしてエルジェムEl Djemの円形闘技場といったところで、そのほかにも魅力的なところはたくさんあって、例えばポエニ戦役に登場してくるウティカ Utiqueとかザマ Zamaいったところへも次の機会があれば訪れてみたいとは思っていた。また古都ケロアン(カイルアン)KairouanとかスースSousseといった街もいけるならいってみたいと思っていただけでなく、当初の予定(机上プラン)では全部は無理にしても、うまくいけばかなりのところまでいけるのではないかと以下のようなルートを考えていたのだった。その時点での制約事項としては、10/6 17時がフェリーの出航時間でcheck inは遅くとも1時間前とあったので、どんなに遅くとも10/6 14時ころまでにはチュニス帰り着いてなければならない、ということがあった。それでいろんな交通手段を検討しながらも(資料・情報は少なかったが)、10/4 チュニスからドゥガ往復(バス)、10/5 ザグアン→チュブルポマジュス→ケロアン→スース(もしルアージュでうまく乗り継げば、というレベル)、その日はスース泊、10/6 スース→エルジェム→チュニス(.ルアージュ、鉄道利用)で行けるのではないかと思っていた。

 が、二日が過ぎて、少なくとも丸一日行程の遅れがでてしまっていた。そうなると、やむなくどこかをカットして、どこを優先させるか、そしてその場合のルートは?ということになった。で、わたしの優先順位は以下となった。第一はDougga、そしてできればEl Djemは落としたくない。ではその場合のルートは?、可能かどうかわからなかったが、次のようなものになった。まず10/5の朝一番のバスでDouggaへ、午前中にDouggaを見終えるだろうから、そこからケロアンに行くルアージュでもあればそれを使ってケロアンへ、そしてケロアン泊か、スースまで行ってスース泊、最終日にエルジェムまでいって、そこから鉄道かルアージュチュニスに戻る、それも14時までに、、で、それは何とかなるのではないかと思っていた(ほとんどは自分に都合の良い憶測でしかなかったが)。

 そのルアージュについては少し説明が必要かと思う。ガイドブックにはその説明があったが、また実際にはまだチュニジアルアージュなるものは経験してなかったが、おおよその見当はついていた。というのはこのシステムは、バスや鉄道のインフラが進んでない中・後進国にはどこでもある、乗り合いタクシー(ワゴン車)であろうことはすぐに想像がついていた。それはモロッコでもグアテマラでも、他の多くの国々で経験済みだったばかりでなく、その有効性、利便性はよく知っていたからだ。ただ、この国にはこの国なりのシステムがあるだろうからそれさえ知ってしまえば多いに利用価値はあるだろうと思っていた。その程度の認識だったが、とりあえずは、その日10/5の朝は、7:00発のバスを利用するつもりであった。

 その朝、初日にバスターミナルに出向いて情報を収集していたことが功を奏して、7:00のバスに乗るべく6:00にはFlora宅を辞した。もっとも連日早寝早起きだったから、4時半には起きて、しばらくWiFiが使えなくなりそうだったので、少したまっていた仕事、例えば慌てて飛び発ってきたので、やり残してきたairbnbのゲスト評価といったようなことを片付けての余裕の出発ではあった。また、この日はバルセロナから間違わずにメトロに乗れたので6時半にはBab Saadounのバスターミナルに到着していた。そしてガラガラの窓口で、行き先を告げバスのticket取得もスムーズにいった。チュニジアも少し慣れてきたので、売店でカフェを飲む余裕もあった。バスはほとんど定刻にチュニスを発った、乗客は20人ほどだったか? バスはチュニス市街を抜け、郊外にでて肥沃の大地を西に向かった。しかし順調だったのは1時間くらいだった。郊外の比較的広い道路にでた辺りでバスは路肩に寄せて止まった。乗客には説明があったようだがわたしには何事かさっぱりわからなかった。こういう時は周りの行動に従うしかなく、全員がそこで降りだしたので、バスの故障らしいことがようやくわかるのであった。が、さて、どうなることやら、新しいバスがくるのか、次のバスを待っているのかは、わたしには皆目わかってなかった。それはこの時の乗客の行動を見て判断するしかなかったのである。思えば、こういう経験も随分してきてはいた。その最悪はキューバの5時待ちだったし、グアテマラでも経験したことがあった。ひょっとしたらわたしはバス故障男か?と思ったりもした。救援のバスは1時間ほどで到着。で、そのあとは順調にいったが、この後のわたしのスケジュールには微妙な影を落としたのであった。

メトロBab Saadoun到着はちょうど日の出頃だった?Img_3790_640x480

為すことなく1時間くらい救援のバス待ち
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 思いもよらないバスのトラブルで、またまた1時間のロスタイムとなってしまったが、そこからバスは1時間ほど走って10時ころにテブルスークTeboursoukというところに着いた。ここは‘歩き方’にはDouggaにいくにはここで小型トラックかタクシーをチャーターしていくしかない、とあったところだ。ところでわたしは、持っているticketがどこまでのものでどこで降りればいいかは全く分かっていなかった。ただ、初日にインフォメーションで聞いたときは、相手からDouggaにいくにはこのバスだと教えてくれたし、その朝の窓口ではDouggaといったら、然るべきticketを発券してくれたので、わたしはそれをドライバーに見せて乗車していた。つまり然るべきところに来たら教えてくれるだろうと、、そしてあらためてそのticketを見てみると、そこにはTeboursoukという文字は印字されてなくBorj Brahimとアルファベットがアラビア文字と一緒に印字されていたのに初めて気づいた(ついでながら料金も書かれていて、6.7Dだった)。もちろん、それがどこだかわたしにはわかってなかったが、ドライバーからなにもいわれなかったから、降りるのはここではないことは確かなようだった。ま、もう近いようだ、ということはわかったが、たぶんこの先に、もう少しDouggaに近いところに街でもあるのだろうと勝手に解釈していた。が、そのTeboursoukというところはこのあたりの大きな街であったようで、こちらは少し焦り気味だったのにそこで15分くらい休憩となったのである。そして、お茶でも飲んできたのか戻ってきたドライバーは、なぜかわたしに水のペットボトル一本くれて、なにかいったのだが理解はできなかった。わたしはこのときも、バスが遅れたお詫びかな?と勝手に解釈してそれをいただいた。すぐに出発したバスは、10分くらい走ったところで停まって、ドライバーはあの道を行けばDouggaに行けるといって、そこが降り場所であることを教えてくれたのだった。こういう体験を通じてだんだんチュニジア人の優しさが伝わってくるのであった。

 よく見ると、その先にDouggaと書かれた看板があって、その方向が指示されていた。が、他には何もない、荒野の真ん中?今まで走ってきた幹道を行き来する車の往来はけっこうあったが、人っ子一人いないところに投げ出された、といった感じだった。それでも、行き先表示に助けられ、その道を行きさえすればDouggaにつけそうだということはわかって歩きだす。そこまでは4kmの道のりということは知らずに‥、、最初の10分くらいは両脇に民家がちらほらあったから、そこが小さな村であることはわかったし、村民と思われる人も目にする。若者がバイクで追い越していったり、車が下ってきたりした。広めの道はずっと上り坂になっていたのだ。出会った人にDougga?と向かっている方向を指して聞いてみると間違いはなさそう、で、次に来たバイクを止めて、乗せてくれとゼスチャーで頼むと快く乗せてくれたが、数百mいったところでここまでといってバイクは右折していった。その時そこからあと3kmと聞いたのだった。その辺からは民家も人通りも車の通行も全くなくなったのであった。ま、そこで改めて、結構大変なところに来てしまった、ということが分かったが、もとより覚悟の上というか、わたしには歩くことは苦ではなかった。四国遍路を思えば、あるいは数々の山登りを思い返せば、4kmはたいした距離ではなかった。それでも確かに登り坂とあって1時間はかかったと思う、その間確か車が一台追い越していっただけだったように記憶しているが、少なくとも人と出会うことはなかった。それでも30分くらい歩いたあたりで、遠く山の頂にアクロポリスが見えだしたときは、感動ものだった。それからはずっとその山の頂を目指して歩いていく。やっと家らしき建物、そして入り口のオフィスらしいコンクリートの建物が見え、そこでticketを買う。7+1D、1Dは例によって写真撮影代、そこのおっさんに帰りの車の手配はできるのかと英語で聞いてみたが、いってることがわかってくれたようだが、そんなことは難しいといったような返事しかもらえなかった。そこで気づいたことだが、そこはどうやら持っていたガイドブックに書かれていた入り口ではなさそうだ、ということだった。なにしろDougga遺跡入り口というのに、土産物屋も普通のお店も何もなく、ただticket officeがあっただけ、その手前に人がいるのかいないのかわからない建物があって、そこは宿のようでもあったが、営業しているかどうかも定かではなかった。それはそうだろう、たぶん裏口と思われたそのケートからに入場する人は、一日にあっても数名、ほとんどまったくないのでは、と思われるようなところであったからだ。が、わたしにはそれが何よりよかった。このアプローチといい、人気(ヒトケ)のなさは、わたしが何より求めていたことだったからだ。結果的にこの遺跡は、今回の17日間で巡ったギリシャ・ローマの遺跡の中で最も気に入った遺跡となったのだった。

ドライバーがここから右手の道を行けばDouggaだと教えてくれ、下車したところ。よくみると看板があった。Img_3830_640x480

車も人も通らない道を行く、、Img_3795_640x480

遠くに何か見え出す、これは望遠でとったものImg_3796_640x480

アクロポリスが見えてくる
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だんだん近くなってきたが、入り口はまだ先だった、、Img_3800_640x480

 遺跡の中に入るとそれでもけっこう観光客の姿は見られた。彼らは観光バスで来て、表の入り口から入ってきた人たちであることはすぐにわかった。が、それでもわたしがその遺跡をぶらついた1時間余りの間、その数は20人を超えていないと思う。入り口は山の麓にあって、山全体が都市となっていたようで、ここでも歩き方の地図が役に立った。下からそれぞれの遺構を確かめながら頂上のキャピトルを目指す。頂からの眺めは素晴らしいものがあった。そこが中心であったキャビトル、フォルム、マルシェ(市場)跡がわかりやすく残っていた。なにより頂に建つキャピトルのギリシャ的(?、ここはローマの遺跡だが)建造物は実に絵になるのであった。ま、こんな内陸の、こんな山の上にカルタゴを滅ぼした後のローマはその権勢を示し、偉容を誇る建造物でもって2000年の歳月を越え、それを今に伝えていることは歴史の驚異のように思えてならなかった。紛れもなくここは山上の大都市であったようだ。苦労して来た甲斐のある、見ごたえある遺跡だった。苦労したからこそ、だったからかもしれないが‥??、、

写真が多すぎといわれそうだが‥Img_3802_640x480入り口を入ったあたりから、、

Img_3803_640x480リピコ・プュニック廟;ローマ時代以前のチュニジアに残っている非常に数少ない建造物とガイドブックの解説あり、これも麓にあった。

この辺は住居跡?;2枚Img_3804_640x480Img_3805_640x480

キャピトルとその周辺;6枚Img_3806_640x480Img_3809_640x480Img_3811_640x480Img_3815_480x640Img_3814_640x480Img_3822_640x480

カエレスティス神殿への案内標識とキャピトルから西に少し離れたところに建つカエレスティス神殿Img_3818_640x480Img_3816_640x480

劇場跡;4枚Img_3823_640x480Img_3824_640x480Img_3825_640x480Img_3826_640x480

 約1時間、そこまでの疲れも癒しながらうろついて劇場を見終わると、そこがメインゲートの表口だった。そこには売店とトイレがあった。なら、もしかしたらタクシーを呼べる?いや、呼べたとしても呼ばなかったと思うが、情報として聞いてみると(売店も兼ねた?)オフィスの女性は、この道(メインゲートの前の道)を下っていくと7kmでテブルスークへ、裏口からだと4kmでバス停に着く、どちらも歩くしかないという返事だった。しかたない、それなら来た道を戻るしかないかと、再び裏門を目指して山を下った。裏門をでたところに、なんでそこにいたのかわからないが村人が一人いて、バイクを持っていたので、ダメもとでジェスチャー、というかシチュエーションで会話の内容は決まっているから、こういう場合は言葉は不要となる。乗せてくれたのである、ちゃんとバス停まで届けてくれた。向こうからtipを要求してこなかったが、もちろんわたしから頼んだことである、少し多かったかとあとから悔やむほど、ま、相場としては2DくらいでOKだったと思われたが、わたしは遺跡にも、またこの幸運にも満足していたので5Dほどをこのおっさんに渡し、シュクランというアラビア語で礼をいった。1時間歩くところを15分くらいで来られたのだから、それは幸運といってよかった。連れてきてくれたのは村の中心で、その近くがバス停のようだった(つまりわたしがバスを降りたところではなかったのだ)。が、バスが何時に来るかはわからない。そこには学校帰りの女子学生が何人かバス待ちをしていたが、いずれにしろそこがバス停であることは間違いなさそうだったし、来たバスに乗るしかなかったのだから、話しかけることはしなかった。話しかけても通じなかったであろうし、いずれにしてもこちらはいい年をした爺さんである。ま、遠慮したということだ。と、その近くにワゴン車が一台停まっていたのを見つける。もしかしてそれはルアージュではないかと思ってドライバーに話しかけた。が、やはり会話にはならなかった。それでもわたしはテブルスーク、もしくはチュニスに戻りたいということはわかってくれたようで、彼らはここでバスを待てというようなこと、つまりそのワゴン車はテブルスークにはいかないこと(あるいはルアージュでなないこと)をわたしにわからせた。そうこうするうちにバスが来たのだ。それがどこ行きかはわからなかったが、チュニス行きではないようだった。が、それに乗れと言ってくれ、その立派な大型バスのドライバーにも何か言ってくれた。慌てて飛び乗り、然るべき料金(0.5D)を払った。バスは10分くらい走って見覚えのあるテブルスークルアージュステーションの前で停まってくれ、ドライバーはそこで客待ち中のチュニス行きのルアージュを指して、あれに乗るようにといってわたしをそこで降してくれたのだった。この時も彼らの親切を感じ、また、幸運を感じていた。そのルアージュは15分くらいして客がいっぱいになったからか、あるいは13:30になったからか、つまり後で知ったことだがたいてい30分おきの発車(0分、30分)のようだったから、それで出発したのかもしれなかったが、いずれにしろ13:30に発車したルアージュはバスより早く、というのは朝のバスは通らなかった高速道を走っからか15:15にはバスターミナルに隣接するチュニスルアージュステーションに着いたのだった(ちなみに料金は6.5Dだった)。いっきょに朝の1時間の遅れを取り戻せたように思った。

わたしが朝バスを降りたところ(この先)の村の中心近くのバス停付近、村の名前は確かめなかったが、ticketにあったのが村名か?Img_3829_640x480

Teboursoukのルアージュステーション、左のワゴン車がチュニス行きだったImg_3832_640x480

Teboursoukの市庁舎?Img_3831_640x480


 問題はそこからだった。いくらルアージュはバスのいかないエリアも含めて、そのルートは縦横に張りめぐされているとはいっても、客のいないルートを走っているわけないから、テブルスーク~ケロアンなんて、いくらルアージュでもそんな路線はなかったのがわかって、それならチュニスにいったん戻ってしまう方がいいだろうと判断したのは正しかったと思う。しかも15:15ならまだ可能性のある時間だった。では、どのようにしてどこにである。一番確実な鉄道は前日にもらってあった時刻表を昨日からずっとチェックしていた。が、あいにく、その時間から間に合いそうな列車は見つけられなかった(それこそあと1時間早ければあった)。その時点ではすでに鉄道もなく交通の便の悪いケロアンは諦めていたので、問題はその時間からスースまたはエルジェムにいけるか、であった。で、鉄道が無理だったので残る手段は一つ、ルアージュしかなかったのだが、スースあるいはエルジェムへ行くには、もう一つのターミナル、南バスターミナルのあるBab Aliouaまでいかなくてはならなかった。そこへはメトロで行けたので大急ぎでメトロに乗る。南バスターミナルとルアージュステーションのあるBab Aliouaに着いたのは16:00ころ、で、最初にバスを探してみるが、インフォメーションが見つけられず、諦めてルアージュステーションに、、が、これがまた広すぎてしかも雑然としてて、どこにいけばいいの皆目見当もつかなかった。仕方なくうろついて、行き先をいいながら聞いて回るも相手の言ってることがわからないから、どこへいけばいいのか全くわからなかった。それでも、まだ幸運は続いていたのか、うろうろしていたらドライバーの方で、スース、スースといってる人を見つける。で、確認するとこれからスースまで行くという、、それはラッキーであった。で、そのまま素直に乗ればよかったものの、その時余計なことを聞いてしまった。エルジェムにいくルアージュはないか、と。それは相手に伝わったようで、エルジェムにいくルアージュチュニスからはない、スースで乗り継げるから、これに乗りなさいというような回答をもらう。あとで聞かなければよかったと後悔したが、これもまたチュニジア人の親切だった。まさか、それが仇とでるとはそのときは思ってもいないことだった。いずれにしろ、そのルアージュの客となり、どうにかその日のうちにスースに着けるのは確実となった。わたしはそのあとのことを考えていたのだった、、

<つづく>