独歩の独り世界・旅世界

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チュニジア・イタリア紀行 2,カルタージュ/カルタゴ

 近代チュニジアがフランスの保護領だったことも知らずに現地入りしたわたしは、英語が通ぜず、しかし住民の98%はアラブ系でアラビア語が現地語であっただけでなく、そのほとんどがフランス語を話すことにたじろいだ、というか、フランス語はメルシーくらいしか知らなかったので困惑してしまっていた。空港はAeropot de Tunis Carthageだったし、その日行こうとしていたピュルサの丘へは、カルタージュハンニバルGarthage Hannibalという駅が下車駅とのことだった。そう、カルタージュCarthageはカルタゴのフランス語表記だったのである。

 その朝、前日に早くに寝入ったので夜半に目覚めてしまっていた。睡眠不足と快適なベッドのおかげで4時間半の睡眠だったが熟睡でき、時差ボケによる夜半の目覚めになってしまったようだった。疲れもだいぶ取れていて夜中の1時だったがそのまま起きて、たまっていた仕事を片付けた。仕事とはすなわち、それまでの記録の整理だったり金銭出納、mailのチェック、必要に応じての返信等だった。明け方近くになってまた少し眠くなってきて2時間ほど仮眠、7時に起きて7時には出かけよと準備て重大な失敗に気付く。それでもその時気づいてまだよかったともいえた。カメラのバッテリーが切れていたのだ(バッテリーの寿命か?その後も同じような目に何回かあう)。それから30分ほど補充にあてたが、もちろんその時間では100%にはならなかった。前夜に気付いていれば寝ている間に済んだ話なので、この30分のロスは悔やまれた。8時過ぎに大急ぎで出発するも、その後も失敗が続く。そのときはTGMチュニスマリン駅まで行くつもりだったので、バルセロナ駅から電車に乗った。前日に歩いて結構距離があることがわかったのと電車なら2駅で、それも0.5Dくらい(例によって小銭を掌に載せてしかるべき額をとってもらっていたので正確にいくらだったかわからない)だったからだ。が、前日に一度通り過ぎただけだったので、この駅のこと、そしてここの市電の路線のことを正確には把握していなかった。バルセロナの市電(メトロ)駅はホームが2ヶ所あったし路線は5路線くらいあったのだ。そのいずれも不確かなまま、また言葉も通じなかったので人にも聞かず、あてずっぼで乗った電車は反対方向にいってしまったのだ。慌てて次の駅Republiqueで降り、戻る電車にのったらそれはバルセロナには戻らなかったが、なぜかふた駅でチュニスマリンに着いたのだった。だから、この時は運に助けられたが、さらに見当違いのところにいってしまう可能性もあったということだった。こうして当初8時ころには着いていたかったチュニスマリン駅には9時過ぎの到着となってしまったのだった。1時間のロスで、可能なら午前中にピュルサの丘近辺を探訪して、午後にドゥガDouggaへという強行軍は、あきらめる方向に傾いた(結果的にはそれで正解だったかもしれないが??)。

TGMチュニスマリン駅Img_3752_640x480

 TGMチュニスマリン駅から、カルタージュ・ハンニバル、シディブサイドSidi Bou Said方面マルサプラージュMarsa Plage行きの郊外電車が出ていた。が、そのとき買ったキップはカルタージュハンニバルではなかった。その時点で午後のDouggaは止めにしたので、逆に少し余裕ができた。ならばと、わたしはひと駅先のLe Bacというところまでの切符を求めた。0.4Dだった。時間的に余裕があれば行こうと思っていた先は観光ポイントではなく港だった。地図で見る限りそこが一番近そうな駅だったのでそうしたのだけれど、実際は違ったようで、Le Bacの駅員さんにそういわれたときはすでに遅かった。それでもそこから行けなくもないといわれ、少し遠かったけど20分くらい歩いて港まで行った。それは2日後に乗船するフェリー乗り場の下見だった。日本で予約したチュニスパレルモのE-ticketは持っていたものの乗船場所についての情報はほとんど知らされてなかったから、当日まごつきたくもなかったし、そこまでのいき方も知っておきたかったからだった。で、正しい駅は次のLa Goulette Vieilleと教えてもらったし、そこからでも15分はかかることがわかっただけでも、その時下見しておいたよかったと思う。フェリーに関してはあとで記すとして、いずれにしろ乗船に際しての混乱・失敗は避けられたのだから、、約1時間の寄り道で、確かに周りに何もなく、道さえなかったLeBacの駅と違って、どうやらそこの海辺は海水浴客のリゾート地のようでもあったLa Goulette Vieille駅の周辺には商店、レストランだけでなく、リゾートホテルまであって賑わいのあるところだった。もちろん帰りは港からそのLa Goulette Vieille駅にでて、そこからカルタージュハンニバルまで行ったのだけれど、カルタージュハンニバル駅に着いたときは11時を過ぎてしまっていた。そして駅前には一軒のお店もなく、案内板も地図もないカルタージュハンニバル駅からは、この時は持っていたガイドブックがかなり役に立った。なにしろ前日にエアポートのインフォメーションで地図はあるかと聞いてみたが、そんなものはないとあしらわれてしまっていたから、チュニジアでは本の地図を頼りにするしかなかったのだ。丘に向かう広い坂道を登っていくと、両側は邸宅が並び、学校もあったようで昼休みだったのか、授業が終わったからか、金持の子弟といった感じの学生がぞろぞろ降りてきた。つまり史跡といった感じが全然ない高級住宅地のヒルズが、今のピュルサの丘のようだった。それほど勾配のある坂道ではなかったが、この時実感したのはここは(チュニスは)相当暑いところ、ということだった。ようやく丘の上と思われるところに至るとそこには立派な教会が建っていて、どうやらそれがサンルイ教会というところで、ガイドブックによると1890年にフランスによって建てられたものとあった。入場は有料のようだったので中には入らず、教会前の石段で少し休む。教会前は広場になっていて、土産物屋が数件、観光バスが何台か停まっていた。その教会の隣が史跡で(というか、この教会はカルタゴ本丸の跡地に建てられたものだった)すぐ脇に入り口があって、10+1D(1Dは写真撮影代)を払って中に入った。

間違えた駅Le Bacから港に向かう途中Img_3754_640x480

帰り道La Goulette Vieilleへ行く途中の海岸線Img_3756_640x480

La Goulette Vieille駅Img_3757_640x480

ピュルサの丘に建つサンルイ教会
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教会前の広場で店を出していた土産物屋の一つ
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 丘の上の頂上だから眺めは悪くなかった。前回の冒頭に記したのが、この時の想いであった。が、そんな感慨にひたるよりも暑さに参っていた。だから、ここかぁ ! ?、といった感じでさっと一通り巡って、すぐに博物館に入って暑を避けた。博物館はそれほど大きくはなかったが、展示されていた資料は興味を引くものが多かった。当時のカルタゴの地図?想像図のようなものが特に興味深かった。博物館とあわせて、それでも1時間くらいそこにいたか?そして次に向かったのはローマ劇場とローマ人住居跡だった。ここはひとつの別れ道だった。というのはビュルスの丘を背にしてチュニス湾が前方に開けていて、右方向に下っていくと古代の港跡、ところがローマ劇場とローマ人住居跡は左手にあった、しかもそれらはそれほど下ったところにあったわけでなく、さらにそこから下っていった海際に、これもローマ時代の名残アントニヌスの共同浴場跡があったのだ。だから自然に足は左手に向いて、しかしその行程は距離があって、一つ一つ見ていったら、共同浴場跡に着いたときはこれまた相当消耗してしまっていた。炎天下カルタージュハンニバル駅からは、2時間ほど(いや朝から)飲まず食わずで歩き通していた。その間ローマ劇場とローマ人住居跡では、他の観光客には一人も会わなかったが、共同浴場まで下るとそこは観光バスで来ている欧米人の団体さんと、ピュルサの丘のほどの賑わいに遭遇することになった。そこでぼけーっとしてしばらく休みをとったが、そこからは歩けない距離ではなかったカルタゴ港までの15分ないし20分の道のりが遠く感じてしまっていた。あとで悔やんだが、それほど疲れ切っていたのだ。で、この先電車で三駅のところにあるスィデブサイドSidi Bou Saidというところがお洒落な街で、地中海の眺めが美しいところという本の紹介を見てしまったものだから、そこで食事でもして体力の回復を図ろうという誘惑に負けてしまった。それでまたカルタージュハンニバルから電車に乗ってそこまで行ってみた。ところが海辺かと思っていたそこはこれまた半島に突き出た丘の上にあって、少し登り気味に歩かなければならず却って疲れることになった。もちろん洒落たお店、レストラン、土産物屋が並び、若いカップルや旅行者であふれてはいた。今時世界のどこにいっても目にするKorean girlsをここでも見かけたが日本人の女の子とは出会わなかった、が、ま、そういうところだった。いずれにしろ、わたしのような貧乏年寄りのくるところではなかったのだ。わたしは高そうなカフェ、レストランは当然遠慮するから、普通の商店で一個1Dの簡単なパン(後で本を見たらそこにはフリカッセと載っていた、安くてうまい手ごろなサンドイッチ。カルタージュハンニバルにはそんな店すらなかった)と飲み物を買って、松林の下でカルタゴの海を眺めながらしばしの休息、少し元気を取り戻し、早々に退散することにした。

カルタゴ遺蹟跡(ピュルサの丘)からチュニスを望むImg_3766_640x480

これはローマ時代の遺蹟と思われる
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ここがカルタゴ時代の住居跡だったか?
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古代カルタゴ港がこの距離で望まれた;2枚Img_3773_640x480
Img_3768_640x480(これは望遠を使っている)

カルタゴ博物館の入り口を飾るモザイク;2枚Img_3774_640x480
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博物館内のコレクション;2枚Img_3776_640x480Img_3777_640x480

Img_3779_640x480_2ピュルサの丘から20分くらい離れたところにあったローマ人居住地跡(ここの前にローマ劇場跡によったが、現在コンサートなどに使われてて、完全に修復されたものになっていたので、あまり面白みなく写真は撮らなかった)

海際に作られたアントニウス(紀元2世紀)の共同浴場;2枚Img_3781_640x480_2
Img_3782_640x480向こうの丘に大統領官邸があって、この辺りは厳重な警戒がしかれていた

この浴場跡があった辺りの海岸線
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Sidi Bou Said;3枚
Img_3785_640x480Img_3784_640x480この辺りで食事休憩を取る
Img_3786_640x480チュニジア全体がそうであったか覚えてないが、ここは猫が多かった、、


 帰り道に昔のカルタゴ港に一番近い駅で降りて、写真だけでも撮ってチュニスに戻るつもりでいた。ところがスィデブサイドで何枚か写真を撮っていたら終にバッテリー切れしてしまったのだ。やはり朝方の充電が中途半端だったので、その日一日持たなかったのだった。諦めるしかなかった、で、疲れてもいたので、もうチュニスに戻ることにした。TGMチュニスマリンからはまたメトロを使う。バルセロナで降りて、鉄道駅で列車の時刻表をもらって、駅のそばにあるはずの郵便局を探してみたがそれは見つけることができなかった。昨日教えてもらった酒の買えるスーパーで、その時はワインを仕入れ(6.5D)Flora宅に17時ころに戻る。早速ワインを冷蔵庫に入れ、たぶんその日は使うことはないと思われたがバッテリーの充電、シャワーを浴びて諸々の片づけ(明くる日の早朝チェックアウトする予定だったのでパッキングとかmailのチェック)をする。それまでのチュニジアの印象はとてもよかった。まず人が穏やかである。そこそこ近代化していて、わたしにとっては言葉の問題以外は不便を感じることはなかった。物価は安いしアラブ世界の面白さがあった。が、一点だけ、わたしの言いたいことはもうお分かりと思うが、これはアラブ世界どこでも共通なこと、そう、それは酒が飲めないことだった。もちろんここではそれが買えた。が、買えてもレストランや安食堂では決して販売されないし供給されない。だからわたしはワインを仕入れて冷蔵庫で冷やしておいたのだった。ここでの食事はそうやってどこかで適当にtake outしてきて部屋食にする以外なかったのである。19時ころ、その適当な何かを仕入れに出かけた、が、ほとんどのお店はもう閉店になっていた。フランス門近くのケバブ屋さんもそろそろ閉店しかかっていた。take outといっても言葉の問題があったから、それ(一番無難なケバブサンドイッチ、本にはシャワルマChawarmaとでていたが、現地の呼び名は確かめなかった)をまた注文するしかなかった。しかし、そこのケバブサンドイッチは最初のところのフランスパンでなく、アラブの世界特有の丸パンで値段も少し安く2.8Dだった。戻って、ワインを開けOussemaに一杯ついで、これまでの経過報告と明日の予定を話した。最初に話はしてあったが荷物を一日預かってほしいこと、そして明日は6時ころ出かけるから挨拶できないこと等々、、出かける際の鍵の扱い方などを聞いて、礼をいって自室に入り、ワインと丸パンサンドの夕食。味は悪くないのだが食べきれないほどのボリュームに閉口する。それでも、なかなか口当たりのいいチュニジアワインのロゼで何とか平らげワインは一本開けた。おかけで前日と同じ20時半には眠りにつけたようだった。チュニジアの夜は知らないところで更けていった。

Img_3788_640x480夜のフランス門(Bab Bhar)