独歩の独り世界・旅世界

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チュニジア・イタリア紀行  1,チュニス初日

  遺跡巡りをメインテーマとした今回の旅は、そのほとんどが紀元前に栄えたカルタゴギリシャ、ローマの遺跡巡りということだった。時代でいえば、紀元前5世紀ころフェニキア人とギリシャ人が地中海沿岸に植民都市を建設して覇を競っていたころから、そのフェニキア人が建設した植民都市国家(その時代の)大国カルタゴに対して、膨張著しいローマが戦いを挑んだ(というか、シチリアの覇権をめぐって、ぶつからざるを得なくなった)ポエニ戦役を制してついに地中海の覇者となって君臨し(紀元前2世紀)、その後カルタゴの地もローマの領土となってローマ化されていった紀元2~3世紀くらいまでの間に建てられた都市・街の廃墟、即ち遺跡群ということになる。が、実際はカルタゴの遺跡というのは、ローマに徹底的に破壊されたので(寛容だったローマにそこまでさせたのはカルタゴ側に問題があった)そのあとに築かれたローマ時代の遺跡の下に埋もれる形で発掘されたものしか残っていなかった(あとは軍港の跡)。カルタゴという地名は残っていた、それは今のチュニジアの首都チュニスから十数キロ東に寄った、カルタゴ時代の中心都市が築かれたところを近代になって再発掘して、現代のチュニジア人がそのままカルタゴという名前を持ってきた、ということだったのかもしれないが、おそらく大昔を偲んでその名は残されていたのであった。その地ピュルサの丘というところに立って眺める、ローマの遺跡の下から発掘されたカルタゴの住居跡、遠くに軍港の名残り、そして今のチュニスの遠望は、はるか二千数百年昔の栄枯を偲ぶ眺めでもあった。そのピュルサの丘の探訪からわたしの旅は始まったともいえた、、

 チュニスまでの直行便は、詳しく調べなかったか、まだ日本からはないと思う。格安ticket利用者は(直行便が)あったとしても、それが格安で出ることはありえないから、最初からそんなticketは探さない。乗り継ぎ便で、しかもその乗り継ぎが1~2時間、それでいて格安、かつTunis in → Roma outができるという理想的なticketを見つけたのはたぶん7月のことだったと思う。そのあと多少の曲折はあったが、それでも発券通りの日にちに何とか飛び発ったのは10月2日の深夜だった。羽田発は確か成田が開港して以来初めてだったと思う。我が家からは成田の方が近かったし便はよかった。それでも羽田へは空港リムジンが30分おきくらいにあったから(成田へは快速電車があって、リムジンバスは便が悪いし高い)アクセスは容易になっていた。

 カタール航空はドーハ経由で、ヨーロッパ及びアフリカ方面へは、初めて使ったがなかなかアクセスのいい航空会社だと思った。が、深夜発で直行便でなかったから、多少空席も目立った。我々がそんな航空会社を利用するがごとく、名の知れたツアー旅行の会社の団体さん数グループと一緒になった。どちらもヨーロッパ方面へ乗り継ぐ団体さんだったが、その顔ぶれは失礼ながら、わたしと同世代(±7~8)の中高年ばかりだった。その一組の方は名古屋から来ているといっていた。いやはや、その方たちを引率される若い女性の添乗員さんのご苦労を想い遣った、それはすでにもう始まっているようだった。旅が好きというだけでは勤まらない仕事である。

 道中隣席には、最初はぎこちなかったが何とか話をするようになった、わたしより一回り若い世代の日本人のおじさんがいて、話し出すとなんと同じ千葉県人ということで早速、メルアド交換するまでの仲になった。詳しく自己紹介までは至らなかったが、お互い旅好きであろうということは、その行き先と滞在期間を聞いただけでわかった。もちろんわたしの行き先・ルートも伝えたが、彼はわたしより長い期間、一か月間イランに滞在すること、どこに何時ということは何も決めてないという話だけで、それはわかるのであった。もう一人、ドーハで乗り継ぎの時に少し話した女の子がいた。このコ(娘)も見た目すぐに旅していることがわかるいでたちで、声をかけると案の定、ここからマドリッドに飛ぶといっていた、その後にサンチャゴ・デ・コンポステーラまで巡礼路を歩くといっていたから、ことのほか興味を覚え突っ込んだ話をした。ま、お互いに無事に ! 気をつけて ! 頑張って ! ということでつかの間の別れとなってしまったが、その後どうなったか、特にサンチャゴに向かうといっていた女の娘の動向は気になるところではある。

羽田;1枚とドーハ;2枚Img_3650_640x480Img_3652_640x480Img_3657_640x480


 さて、ドーハでの乗り継ぎは、それぞれそれほど悪くなかったようで、わたしは1時間待ちくらいで(詳しく述べると0時羽田発、11時間のフライトで時差6時間、現地早朝5時着、乗り継ぎに30分、1時間待ちでBoarding 6:30)7時に離陸、一路チュニジアに飛び発った。その便には日本人の乗客の姿はなかった。チュニスまではフライト6時間、ドーハ/チュニス間は時差2hで、チュニス現地時間11時の到着だった。その間は窓際をお願いした甲斐があって、サウジアラビアの砂漠上空、アカバ湾スエズ湾、そしてアフリカ大陸から地中海へとすべてを肉眼で確認することができたのだった(が、帰り便は失敗する)。もう一点附記するならばカタール航空は初めて乗ったのだけれど、食事は悪くなかったこと、そしてそれは当然だとしてもアラブの飛行機だがお酒を飲めたことは、わたしには好印象であった。で、チュニス着11時、チュニス/カルタゴ国際空港は、それほど大きくはなく、発着も便も多くなさそうで、比較的のんびりした、そして入国審査(イミグレ)は至って簡単・スムーズであった。だから11時半には、荷物をとって両替をすませ空港ビルを後にすることができた。ちなみに参考までにその時のレートを記しておくと、わたしはドルの両替をしたが(初めて両替表示でドルがほかの通貨のはるか下の方に表示されていたのが興味深かった)、そのとき1ドルは2.18dinar(ディナール、以下Dと記すが、ということは1D=約50円と知る)で、わたしはとりあえずと思って100ドルほど替え、それは218.3Dになったが、最終的にチュニジアでそれ以上両替することはなかった。

ドーハ上空から;2枚Img_3668_640x480Img_3670_640x480

アカバ湾スエズ湾
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  今回はこれまでの旅と違って、少し態度を軟化させたというか、軟弱になったというか、もう若くないのだからイキがった旅もできないと思って‘地球の歩き方チュニジア編’をアマゾンの中古で仕入れて持ってきていた(それと南イタリア編も、以下ガイドブックまたは本と表記したときはこの‘歩き方’のこと、結果的にずいぶん助けられた。最近地図・情報が正確になっているので今回少し見直した)。あくまで参考のために、決して頼らない、というつもりで、、で、まずはどこでも繰り広げられる初戦は、空港→市街の足である。その本にはバスもあるとあった。もちろん腐っても(年とっても)バックパッカー、いきなりタクシー乗り場には直行しない。そのバス停を探す、が、やはりわからない、人に聞く、何人かは知っていて本にあった通り635番と教えてくれたが、その乗り場は人によってまちまちだった。結局その乗り場を突き止めることができず、タクシーにするしかないかと諦めたが、今度は料金交渉である。地元の人なら中心部まで5Dくらいという情報は持っていた(これは本の情報ではない、歩き方は最新版だったがその情報はあてにならなかった)。そこで初めて認識できたことは、この国は英語が通じないということだった。つまり英語は役に立たず交渉にはなりえなかったのである。そうなると指を使ったりしての交渉になるが、片手でOKしてくれるドライバーは一人もいなかった。空港内で客待ちしているタクシーは延々と列をなしていたにもかかわらずだ。言葉が通じず、わたしの希望額は全く受け入れられずで途方に暮れていると、かわいそうな貧乏老人と思ってか知恵を授けてくれるものが現れた。しかも片言の英語でた。この場は、空港内タクシーだから(そのために少し彼らは自腹を切っている?)5Dのタクシーを探すなら空港内から出て、流しのタクシーを捕まえて交渉したほうがいい、というようなことをいわれる。似たようなことが本にも書かれていたので、そういうものかもしれないと思って空港外に出る。流しのタクシーはけっこう走ってていて何台か停めて交渉したが、結局は言葉の問題で交渉にはならなかったのである。万事窮すで、最終的には最初空港内に待機していたドライバーの言っていた10Dなら、という流しのタクシーの言い値に従うことにしたが、それなら最初から空港内タクシーを利用すればよかった、というのが、この国での最初の苦い経験となった。その損失は体力の消耗と30分の時間的ロスであった。タクシーは、20分くらいでわたしの指示したチュニスのど真ん中といってもいい、メディナ(旧市街)の入口、アラビア語でBab Bhar<バブブハル>、フランス語でPorte de France(フランス門)に着いた。(この空港外で流しのタクシーを見つけたほうがいいといってくれた真意は、流しのメーターでいってくれるタクシーを見つければ、それは可能だ、ということだったかもしれないと後から気づいた)

チュニスカルタゴ国際空港とフランス門Img_3713_640x480Img_3719_640x480

 今回のわたしの滞在先は一カ所を除いてすべてairbnbの宿を予約したと前々回に書いた。その日の宿はそのフランス門から近いはずだった。そのアドレスとフランス門からの来かたを知らせてくれていたのも、タクシーに乗ったらフランス門まで、と告げなさい、普通は5Dで来てくれると教えてくれたホストのFloraさんだった。ところがそこから教えられたアドレスへは一応グーグルで探っておいたが、今一つはっきりしていなかった。早くもカンを頼りにするしかなかった。久しぶりのアラブのスーク前の雑踏を、それを楽しみながらうろついていると、幸運にもその場所へはそれほど時間はかからずに行き着くことができた。が、すでに12時半ころになっていた。そこは多少年季が入ってる建物だったが、4階建ての古びた建物の2Fの半分を占めるバス・トイレ・キッチン以外に4~5室くらい部屋のある(賃貸ではない)日本的ないい方でいえばマンション(チュニジアはフランス語の国だったから、フランスの旧植民地だったかもしれないが、よくフランスに見られる共同住宅?フランス語でいうメゾン?)だった。ベルを押すとすぐに扉は開いて、数日前に連絡をもらっていたことだけどFloraさんはフランスにいっていて不在ということで、ご主人のOussema氏が迎えてくれた。失礼ながらFloraさんは写真でしか見てなかったが、それから想像して旦那さんはもっと年配かと思っていたら、なんとまだ30代?今風にいえばイケメン青年といった感じ、この人がまた優しく丁寧に、しかも完璧な英語で部屋の説明してくれ、ようやく肩の荷を下ろすことができたのだった(未だバックパッカー現役なので、肩の荷には両義的意味あり)。

 当初のチュニジアの予定は以下だった。最初この旅はツレも連れていくつもりで計画し、その時はチュニジア一週間を予定し、南部のサハラ砂漠まで行く案もあったが、幸いに途中であきらめてくれたので、わたしは大いに助かり、砂漠案もカットすることができ、一週間を4ヶ日に縮められたという経緯がまずあった。で、その4日は初日の半日にカルタゴ/ピュルサの丘近辺、2日目ドゥガDougga遺跡、3日目~4日目古都ケロアンKairouan~スースSousse~エルジェムEl Djem、まだ見どころはたくさんあったが、上記は少なくとも回りたい、また、それは不可能ではないと思っていた(個々の遺跡についてはその都度の説明していくのでここでは省略)。なのでFlora宅は最初の2泊とし、3日目から荷物を半分置かせてもらっての小旅行と考えていた。が、よくあることだが当然思っているように事は運ばなかったのである。すでに荷の整理をしシャワーを浴びたりしていると14時近くになってしまい、まだ右も左もわからずに、カルタゴ/ピュルサの丘まで行って、そのあたりを散策する時間があるか心配しながら街へ出る。まず目指すはチュニス一番の目抜き通りハビブ・ブルギバ通りAv.Habib Bourguibaを通って、カルタージュ・ハンニバルCarthage Hannibalまで行く電車がでるチュニスマリンTunis Marine駅まで行くことにして、、通りに出て写真を撮っていると路上にテーブルを出して多くの客で賑わっている食堂のお兄ちゃんから呼び止められ、言葉は通じなかったが何か食っていけ、といっている様子、、いきなりだったので断ったが、いかにもうまそうなものをみんなが食べている様子に刺激され、昼食も食べてなかったのでそのまま席について、他人の食べているものを手指しして、同じものといった頼み方で注文、それはケバブサントイッチのようなものであったが、その後たいしたものを食べなかったから、おそらくチュニジアで食べた一番うまいものとなった。それが3D(つまり150円)だったので物価も結構安いことを知って、ま、大満足を味わったのである。それから街ブラで、中央市場を通ってバルセロナ広場Place de Barcelone広場、Gare de Tunisチュニス鉄道駅へ、その界隈をぶらついてから、メトロと呼ばれる市電だと二駅のTGMチュニスマリン駅まではハビブ・ブルギバ通りを通って歩いて行ってみた。すでにそこに着いたときは15時を過ぎていたから、それからカルタゴ/ピュルサの丘は流石に無理だろうと判断、明日にすることにして、その変わり、それならOussemaに教えてもらったBab Saadounというところにあるというバスターミナルにいって、Douggaへ行くバスを調べてみようととっさに思いつく。そこまではメトロ3号線が、そのTGMチュニスマリン駅に隣接するTunis Marine Metro Reger駅から出ていたからでもあった。

フランス門界隈の雑貨屋と食堂(この食堂に入る)Img_3715_640x480Img_3716_640x480

わたしが頼んだケバブサンドと隣の人が食べていたものImg_3717_640x480Img_3718_640x480

Gare De Tunisチュニス鉄道駅Img_3727_640x480

ハビブ・ブルバキ通り;2枚(チュニスマリン駅は奥に見える時計塔のさらに向こうにあった)Img_3724_640x480Img_3728_640x480

Tunis Marine Metro Peger始発駅に停車中の6番と3番のメトロ(市電)Img_3729_640x480

 その後何度も乗ることになる市民の足メトロ(トラム)は5路線あって、市内移動には安くて便利な乗り物だった。しかもすでに相当疲れており、始発だったから座って少し休めるのがありがたかった。Bab Saadounまでは3号線で乗り換えなし、料金は聞いてもわからないから小銭を掌に載せ該当分をとってもらうやり方でたぶん0.5Dくらいだったのではないか?、お釣りがあったりするとちゃんと返してくれ、多くとられたことは一度もなかったと確信していたので、キップを買う時はいつもそうしていた。距離制のようだったが、だいたい0.3D~0.7Dくらいだったから、多少ごまかされたとしても10円、20円の世界、そもそも電車賃がそのくらいだったのだからうれしい乗り物だった。16時ころから北バスステーション、隣接するルアージュステーションをうろうろしていた。というのもどこで誰に情報を聞いたらいいのかわからなかったからである。バスの切符売り場の窓口はあったが、どこも人が並んでいたし、たまたま客のいない窓口にいっても英語は通じなかった。書かれている文字はすべてアラビア文字で、どこでどうすればいいのか為す術なしだった。informationはあったが人は誰もいなかった。諦めて帰りかけたとき、そのinformationの奥に部屋があって、そこに人がいる気配がした。適当に声を出して呼んでみるとおばさんが出てきた。おばさんでは話にならないだろうと思っていると、逆にDouggaか?、と英語で聞かれて慌ててしまった。そう、明日Douggaにいきたいんだ、といってみるとバスの時間を教えてくれた。が、言葉でいわれてもわかりずらかったので紙に書いてもらった。それによると、そのバスターミナル発、7:00,8:00,10:00,12:30,13:00,14:00,16:00で、向こうからの最終が17:00だからそれに乗り遅れないようにと忠告までしてくれたのだった(はっきり確認できなかったが、たぶんこのバスはその先の街Le Kefまで行くバスのように思われる)。この情報はありがたかった。つまり次の日の午前中にカルタゴ/ピュルサの丘へ行って12時半のバスでDouggaへという強行軍の可能性がでてきたからであった。

Bab Saadounの北バスステーションImg_3731_640x480


 そのBab Saadounバスステーションから少し南東に下るとメディナMedina(旧市街)の入り口があることが地図を見てて分かった。このメディナはチュニスの重要な見どころの一つであったから、また、モロッコなどでスークの面白さは十分知っていたから、いかないわけにはいかず、というか、そもそもチュニスの宿がメディナのメインゲート、フランス門(Bab Bahr)の近くだったので、いずれ行ってみるつもりでいたのだから、ならばメディナを通って戻ろうということにした。楽器屋が何軒も並ぶ通りをぶらぶら歩いてメディナの北門?にあたるスイカSouika門辺りまでは順調にきたが、もう相当に疲れていた。そこからはスーク、いわゆるアラブ世界特有の迷路の?商店街(たいてい屋根付き)となる。今までにも迷い込んだことのあるモロッコのそれ(10ヵ所くらいいっているか?)と比べると少し小ぶり?活気もいまいちか?なんて思いながらぶらついてて、そのままその道を曲がらずに行けばよかったものを、どこかで一ヶ所折れてからは、もうどこがどこだか、どっちがどっちだかわからなくなってしまった。それから1時間くらい彷徨い歩いたか?、もう商品・商店を冷やかすどころではなくなって、おそらく地元の人なら20分で抜けられた道を1時間もかかってようやくフランス門にでることができた。そういう意味ではスーク恐ろしや、でもあったのである。すでに18時を回ってて、スークの店々もほとんどは店じまいし終わったころだった。疲れ切っていたのでひとまず宿に戻る。夕飯の心配をしなければならなかった。いや、食事をするだけならレストランも安食堂もまだ開いてはいた。が、しかしどこで何を食べようと、ビールのない夕食では‥??、、ダメもとでOussemaに聞いてみる、どこか外国人に酒を売ってくれるところはないのか?と。すると彼はオレについて来いといって、一緒に外に出る。2ブロックいったあたりにスーパーがあって、そこでワインは買える、ビールはそこの従業員にいえば、買えるところを教えてくれるといって、自分はそのスーパーには入らずに先に帰っていった。よそ者顔でそこに入っていくと、地元の人たちが普通に買い物していた。フロアにはワインは陳列されていたが確かにビールはなかった。で、言われたとおり、男の従業員に聞いてみると、店舗をでて秘密の扉のようなところを教えてくれ、そこを入っていくと買えるところがあると教えてくれた。どうなってるんだ?と訝し気に入っていくと、地元の先客がいて、何やらこそこそと酒を買っているのであった。ビール2本3.4Dだったが、それでもビールが買えたことを喜んだ。そのスーパーでフランスパンも仕入れて(これは安かった)あと惣菜も探したが、買い方がわからず諦めた。パンだけあってもしょうがないので、街の食堂(昼にサンドイッチを食べたところと同じように店)で、これも注文の仕方がわからないし言葉も通じなくて、惣菜を3品くらい手指し注文して、3Dを掌に載せこの範囲でといってtake outにしてもらって持ち帰る。これで夕食としては十分だった。が、内容としては惣菜の中身が見た目だけで買ってしまって、少々偏りがでてしまったのは、ま仕方のないところ、食事をすますと、数十時間ほとんど寝てなかったのとその日一日の疲れで、いわゆるパタンキューで、チュニス初日は終わったのであった。

Bab Saadoun門Img_3732_640x480

Rue Bab Saadounとおり一帯にかたまってあった楽器屋の一つImg_3733_640x480

Place de Bab Souikaバブ・スイカ広場(スークの入り口)付近Img_3736_640x480

スークSouk;4枚Img_3738_480x640Img_3739_640x480Img_3741_480x640Img_3750_480x640

グランドモスク;3枚
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メディナ内にあった首相官邸?
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ということで、カルタゴ/ピュルサの丘までの予定が書き切れなくなってしまい、竜頭蛇尾のようになってしまったことをお詫びというか、恥ずかしく思ってることを付け加えておきます、、