独歩の独り世界・旅世界

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‘ギリシャ哲学者列伝’より 最終回<犬のディオゲネス>その2,

 今回は‘ギリシャ哲学者列伝(中)’と山川偉也氏の‘哲学者ディオゲネス’を参考にしてわたしのディオゲネスを語れるところまで、、

7,<ディオゲネスは両替商ヒケシアスの子で、シノペの人。さて、ディオクレスの伝えるところによると、彼の父親は市の公金を扱う両替業を営んでいたが、通貨を改鋳してこれを粗悪なものにつくり変えたので、彼は追放されることになったということである。>

シノペという街は現在トルコの黒海沿岸にあるSinopというところ、当時ギリシャ(ミレトス人)の植民都市だったようである。で、この事件がいつ起こったのか、山川氏の詳細にわたる考察をもってしても、前393年~359年の間としか特定できないとのこと、よってどうもディオゲネスの生年もはっきりしないようである。また、この変造事件も、ディオゲネスの父が、あるいはディオゲネス本人が、また両者が関わったとする様々な憶測があるようで、そして追放されたという説もあるし自ら退去したという説もあるようである。で、シノペからアテナイまでは流離っていったのか?

8,<‘祖国を奪われ、国もなく、家もない者。日々の糧を物乞いして流離い歩く人間’なのだからと。しかし彼は、運命には勇気を、法律習慣には自然本来のものを、情念には理性を対抗させるのだと主張していた。>

と、自嘲気味に自らをとらえていた節がある。誰の詩かは不明とのこと、また、

9,<おかしな話だよ、マネス(彼の奴隷?)の方はディオゲネスなしで生きていけるが、ディオゲネスの方はマネスなしにはやっていけないとすれば>

流浪の途中で、奴隷は逃げ出したのか、彼が解放してやったのか?、そしてどうやってアテナイにたどり着いたのかはわかっていないことのようだ‥、、

10,<ところで彼は、アテナイにやってくると、アンティステネスのところに身を寄せた。しかしアンティステネスが、自分は誰ひとりと弟子を受け入れたことがないからといって、入門を断ると、彼はその場にとどまりつづけて、ねばり強く頼みこんだ。それであるとき、アンテイステネスが彼に向かって杖を振り上げると、彼は自分の頭を差し出しながら‘どうぞ打ってください、あなたが何かはっきりしたことをおっしゃってくださるまでは、わたしを追い出すに足りるほどの堅い木を、あなたは見いだせないでしょうから’、と言ったのであった。そしてその時以来、彼はアンティステネスの弟子になったのであり、そして亡命の身だったので、簡素の暮らしを始めたのであった。>

しかしこの件について、先の山川先生の考証によると、どうもアンティステネスとディオゲネスが史実として出会うのは、ちょっと無理があるかもしれないということであった。もしかしたら後の創作ということもありうるが、ま、筋としてはあってもおかしくない話で、だからディオゲネスは、キュニコス派の二祖となったということではなかったのか?また、この種の入門譚もよくある話で、例えば禅の世界の達磨に弟子入りを乞う二祖慧可の雪中断臂や雲門文偃(864~949)という中国臨済禅の巨匠が若いころ睦州に弟子入りを乞う時の話、雲門折脚など、禅門(道教に近い)にはそんな逸話が多く散見される、で、わたしは勝手に禅とキュニコス学派の近さを感じて、どちらにも親しみを覚えてしまうのであるが、以下もそれに近い話、、

11,<ネズミが寝床を求めることもなく、暗闇を恐れることもなく、美味美食と思われるものを欲しがりもせず走り回っているのを見て、自分の置かれた状況を切り抜ける手だてを見出したということである。>

12,<また彼はある人に手紙を出して、自分のために小屋を一つ用意してくれるように頼んだが、その人が手間取っていたので、メートローオン(キュペレ神殿で、公文書の保管所)にあった大甕(酒樽)を住居として用いた。>

13,<.彼はまたアテナイ人から愛されてもいた。事実、ある若者が彼の(住居にしていた)大甕をこなごなにこわしたとき、アテナイ人はその若者に鞭打ちを加えたが、彼には別の甕を提供してやったからである。>

14,<哲学から何が得られたかと問われて、‘他に何もないとしても、少なくともどんな運命に対しても心構えができているということだ’と答えた。>

とのことである。たぶんこの辺りが、一番ディオゲネスらしいところではないか?、で、あとはランダムに、というのはラエルティネスの原本は、まったくランダムに話が出てくるのと、その量が半端でないので、これ以上類似性のある逸話を集めるのはわたしには難しそう、それと面白くない話も結構あるのでそれは省いて、今の時代に通じそうな話を適当に、ということでお許しを乞う、、

15,<人生を生きるためには、理性をそなえるか、それとも、(首をくくるための)縄を用意しておかねばならないとつねづね語っていた。また教養は、若い人たちにとっては節度をたもたせるもの、老人たちには慰め、貧しい人たちには財産、富める者たちには飾りであると、彼は言った。>

16,<財産よりもまさっているからという理由で正しい人たちを称賛しながらも、他方では大きな財を蓄えている人々を羨んでいる連中を、彼は非難していた。>

17,<主人たちがどん欲に食べるのを目にしながらも、主人の食べ物を何ひとつかすめ取ろうとしない奴隷たちには、彼は感心していた。>

18,<あるとき彼が、‘おおい!人間どもよ’と叫んだので、人々が集まってくると、彼は杖を振り上げて彼らに迫りながら、ぼくが呼んだのは人間だ、ガラクタなんぞではない’といったのであった。そして彼はまた白昼にランプをともして‘ぼくは人間を探しているのだ’といった。>

19,<彼はあるとき、神殿を管理する役人たちが、宝物の中から灌奠用の盃を盗んだ男を引き立てていくのを見て、‘大泥棒たちがこそ泥を引き立てていくよ’と彼は言った。>

20,<彼の周りに立っていた少年たちが、‘‘咬みつかれないよう用心しようね’といったのに対して、‘心配するな、小僧ども、犬はビート(青二才)を食べはしないよ’と彼は言った。>

21,<ある人たちが宴席で、まるで犬にでもやるように、彼に骨を投げあたえた。すると彼は、帰り際に、ちょうど犬がするように、彼らに小便をひっかけた。>

22,<あなたはどこの国の人かと訊ねられると‘世界市民(コスモポリテーズ)だ’と彼は答えた。>

この‘世界市民(コスモポリテーズ)’については、山川氏の詳しい論述があって、それを紹介できるかどうか?実は己をこのようにとらえた、おそらく世界で初めての人ではなかったか?だからこの考え方が、後世に大きな影響を与えたことが論じられていて、ディオゲネスの核心部分なのだけれど、それは次回か、別の機会ということになりそう‥、、

23,<世の中で最も素晴らしいものは何かと訊かれたとき、‘何でも言えること(言論の自由、パルレーシアー)だ’と答えた。>

24,<法律習慣(ノモス)によることには、自然本来(ピュシス)に基づくことに与えたような価値を少しも与えようとしなかった。そしてこのことは、彼に言わせれば自由にまさるものは何もないとして、まさにヘラクレスが送ったのと同じ型の生活を送りとおすことだったのである。>

25,<また、法に関しては、それがなければ(文明化した)市民生活を送ること(ポリテウェスタイ)は不可能であると彼は言っていた。なぜなら彼の主張では、市民国家(ポリス)が存在するのでなければ、文明化していて(アスティオン)も何も益にならない。しかるに、市民国家は文明化をもたらすものであるし、また市民国家が存在するのでなければ、法は何の役にも立たない。したがって法は文明化をもたらすものなのだ、というわけである。>

さて、次で最後としたいのだけれど、実は晩年ディオゲネスが奴隷として売られてしまったという話、、

26,<また彼は、奴隷として売りに出されたときにも、まことに堂々とした態度でそれに堪えた。というのも彼は、アイギナ島への航海中に、スキルパロスの率いる海賊どもによって捕らえられ、クレタ島に連れていかれて売りに出された。そして触れ役のものが、お前はどんな仕事ができるかと訊ねたとき、‘人々を支配することだ’と彼は答えた。そして触れ役に向かっては、‘誰か自分のために主人を買おうとしている人はいるかと、そう触れ回ってくれ’と言ったということである。またその折に彼は、紫の縁飾りのある立派な衣装を身につけたあるコリント人(クセニアデスという人)を指さして、‘この人におれを売ってくれ。彼は主人を必要としている’とも言ったのであった。それでクセニアデスは彼を買い取ったが、ディオゲネスはその買い主に対して、よし自分は奴隷であるとしても、自分のいうことには従ってもらわねばないないといっていた。そして彼を奴隷として買い入れてくれたクセニアデスに、‘さあ、命じられたことはしてくださいますように’と彼は言った。そこでクセニアデスが、‘(エウリピデスの詩の文句を引用しながら)いまや、河の流れは上方に向かっている’と応ずると、‘でも、もし仮にあなたが病気にかかって、医者を買い入れたのだとしたら、その場合あなたは、医者の言うことには従わないで、“いまや、河の流れは上方に向かっている”などといわれたでしょうかね’と彼は問い返したのであった。>

27,<クセニアデスはコリントへ連れ帰り、自分の子供たちの監督にあたらせ、また家のこといっさいを彼の手に委ねた。そして彼の方は、(主人の)クセニアデスの息子たちを、次のような仕方で教育したということである。すなわち彼は、他の学業をすませると、乗馬、弓引き、石投げ、槍投げの指導をしたし、またその後、息子たちが相撲場に通うようになってからは、彼は体育教師に対して、競技選手向きの訓練を施すことを許さないで、ただ血色よくし、体を好調に保つことになるだけの訓練を行わせたのであった。>

28,<また、その息子たちは、詩人や散文作家や、さらにはディオゲネス自身の書物の中からも数多くの章句を覚えさせられたし、そして学んだことを記憶にとどめやすくするための早道となるあらゆる方法も練習させられたのであった。また、家にあっては、彼らは身の回りのことは自分で始末し、粗食に甘んじ、水を飲んですますように彼はしつけた。さらに髪は短く刈らせて飾り物はつけぬようにさせたし、また、道中では、下着をつけず、靴も履かず、口はつぐんだままで、あたりをきょろきょろ見回すこともないようにさせた。その上また、彼らを狩りにも連れていったのだった。他方、息子たちの方でも、ディオゲネスその人には気配りをして、彼のために両親に対していろいろ頼みごとをしてやったのだった。>

29,<彼はまた、家事全般をたいへんうまく取りしきったので、主人のクセニアデスは‘よきダイモーン(福の神)がわたしの家には舞い込んだぞ’といいながら、そこらじゅうを歩き廻ったほどであった。>

30,<彼の知人たちがが身代金を払って彼を自由の身にしてやろうととたら、彼の方は、その知人たちを愚か者と呼んだということである。というのは、ライオンだって、これを飼っているものの奴隷ではなくて、むしろ飼っている者たちの方こそライオンの奴隷だからというのであった。つまり、恐れるというのは奴隷のすることだが、この野獣は人々に恐怖を与えるのだから、と。>

さて、彼の死については諸説あったようだが、一番いい話は、

31,<彼はクセニアデスの家で年老いていったのであり、そして死んだときには、その息子たちによって葬られたということである。またその折、クセニアデスが、どんなふうに埋葬しようかと訊ねたら、それに対して彼は、‘顔を下にして’と答えた。そこでクセニアデスが‘なぜそんなふうにするのか’と訊ねると、‘もうしばらくすれば、下にあるものはひっくり返されて上になるだろうから’と彼は答えたとのことである。そして彼がこう答えた理由は、そのときすでにマケドニア人たちが覇権を握っていたからであり、つまり、低い地位から身を起こして身分の高いものになっていたからである。

32,<彼は90歳近くで生涯を閉じたといわれている。そしてその死については、いろいろ異なった説が伝えられている。すなわち、ある人たちの説では、彼は生の蛸を食べてコレラにかかり、それがもとで死んだということだし、また別の人たちの説では、自分で息をつめて死んだということになっている。そして彼の知人たちは、息をつめたことが死の原因だろうと推測していたということである。彼がもうこの世から立ち去りたいと望んでしたことだと彼らは解釈した、というわけである。>

この死に方は、あり得るし、できるなら理想的な死に方のようにも思う。先に例をだした禅者の多くはこれができたし、そうやって自らの生を閉じた話はけっこう聞いていたからである。いずれにしても、ソクラテスの孫弟子で、かつ狂ったソクラテスと呼ばれた偉人はこうしてよく生き、そしてその寿命を全うした、ということだったようだ。
 さて、これでディオゲネスに関する引用・抜粋を、ちょっと長くなりすぎたのでいったん終わりとさせていただく。が、まとめができてないので、もう一回だけ山川偉也著‘世界市民の原像 哲学者ディオゲネス’を参考にしながら、わたしのまとめをしてみたい。最終回が3回になってしまって、情けないというか恥ずかしいというか、素人ゆえお許し願う次第である、、