独歩の独り世界・旅世界

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四国を歩く(区切りうち)第3弾 2, 66番雲辺寺、67番大興寺、、

 ともかく最初から、この女将さんは感じがよかった。疲れたお遍路をいたわってくれる優しさを自然に備えている慈悲深さは大師様信心の賜物か、と思わせるものがあった。それを知り慕うお遍路さんが、四国お遍路の行程の中でも特に行き着くのが難しいこの場所に何人もリピーターとして戻ってくるということが容易に肯けることであった。だから、恐らく8名が限度?かと思われる、そういう意味ではもっとも民宿らしい民宿といえるこの宿は、いつも満杯で四日前にtel入れたわたしはギリギリ間にあった、ということのようだった。そのときに、もう小さい部屋しか残ってませんといわれ、全然そんなの気にしてませんと伝え、お願いしておいた部屋は、もちろん一人なら十分な広さで、そこにかかっていた額の署名が菅直人さんのものだったから、どうやら彼もこの部屋の客人だったようだ。

Img_1681_480x640菅さんの額がかかっていた

 さて、その夜の夕食時に顔を揃えたメンバーが食事が進むにつれ錚錚たるものであることがわかってくる。食事も誠にすばらしく、わたしも酒がすすんでしまったが、それほど大きくない座敷はかなり密度の濃い空間になっていった。最初に口火を切ってくれたのがわたしの隣に席を占めていた三角寺で出会ったSKさんで、彼はわたしより二つ上70歳、古希の記念に3回目の歩き遍路をしているとのことだった。それを受けて今度は、わたしの前に座っていらした静岡の男性は(名前は聞き漏らしている)、明らかに70代半ばくらいで今回は5回目といっていた。それだけでなく、今まではすべて順打ちで廻っていたが、今回は逆で打っている、おまけにその日一緒に歩いたTさんに教わったばかりの別格もすべて巡っているとのことだった。すると今度はSKさんの隣にいた男性が、まだ70代のはじめか、といった感じだったが、この方は何と昭和13年といっていたから77歳?次の日の山登りもわたしより早いくらい達者で、やはり何回目かの歩き遍路をやっているとのこと、、この三者が最強のつわもの達で、いずれも民宿岡田のリピーターであったのだ。あとの者たちは彼らの話を聞くともう、ほとんど発言しなくなってしまったから、恐らくみんな初回の遍路のようであったが、それでも一番から歩きとおしている神奈川のご夫妻がいて、お年は60代半ば?、ご夫婦でずっと歩いてこられている姿はやはりただ者ではないことを物語っていた。大津の学者風の紳士も、見かけとは裏腹にやはり歩き遍路で、その強健さは次の日以降目の当たりにすることになった。あと一人だけ少々年下の男性がいて、何も喋らなかったが、恐らくそこに泊まっていたのだから、やはり歩いている方で、あるいはやはり初回で年下なので皆に遠慮していたのかもしれなかった。そうなるとどうやら、わたしが一番軟弱者であることが明らかになってきて、なので区切りで歩いているけど所々電車も利用しているなどということは恥ずかしくていえなくなってしまったのである。先達たちのアドバイス・情報・意見交換を謹んで、それでもワイワイガヤガヤのなかで楽しく聞かせてもらっていたのであった。誠に全員がひとつになった、こういう宿では珍しい(くはないか?)場が出現していた。これもある意味女将さんの計らいのひとつで、そうやってみんながひとつにまとまったところで今度は女将さんの出番となった。それまで給仕に専念していた彼女は、ころあいを見計らって、次の日の雲辺寺までの山登り、そして大興寺からの観音寺にいたる行程をこと細かく説明してくれ、なんとコピーした概略図まで用意してくれていたのである。なんという配慮(驚いたことに次の日の朝には全員のお弁当まで用意していてくれたのである) !!、これまでにこんな宿にわたしはめぐり合ったことがなかったから感激を通り越して、ちょっとした驚き(驚嘆)であった。これはリピートしたくなるのも当然ということであったし、恐らくその仄聞はとどろいていたであろうから、予約の取れない宿というのも納得のいくところであった。そうして先達たちの貴重な情報が、早速次の日に役に立つことになるのであった。

 女将さんの配慮は次の朝にも及んでおり、何とこの宿の朝食は朝の6時からということであった(普通は7時ころ)。実際は6時前に声がかかり、早い人は6時20分には出発していった。その全員に対して、一人ひとりにお弁当を渡してくれ見送ってくれる優しさ・心遣いは並の人にできることではなかった。こうしてわたしは最後から二番目くらい?、6:35に女将さんに見送られてその宿を発った。女将さんの説明にあったとおり、少し行くと登山口があってそこからの登りはかなりきついものであった。登山口まで5~10分、そこから上の尾根道の車道までは標高差400m近くあって、1時間のきつい登りだった。上の道に出て、小休止を兼ねて汗をかいたシャツを着替えている間に77歳の学者風紳士が追いついて、そのまま先にいった。そこからは比較的平坦な道だったが、5分遅れの差は縮まるどころか、かえって広がる一方で、彼の強靭さばかりが印象に残った。88ヶ所中最も高いところにあるという(標高910m)雲辺寺着は8:40で、民宿岡田から2時間かかったことになる。昨日の説明でも2~2時間半とのことだったから、ま、それほど遅くもなかったということだ。順番は不明だったが、神奈川のご夫妻、広島のSK氏らとほとんど時を同じくしての参拝となった。恐らく大津のK氏、77歳のS氏はすでに参拝を終えたのかその姿をみることはなかった。逆に見知らぬ顔が一人いてSK氏と親しく話していた。どうやらそれまでの行程で、ずっと以前から知りあっててくっついたりはなれたりの同行二人というところか?その彼をわたしにも紹介してくれた。その彼(C氏、SK氏と同じ70歳とのことだった)はやはり岡田が満杯で泊まれなかった口で、そこで岡田の女将さんから池田の白地荘を紹介され、今日は途中まで送ってもらって、そこから登ってきたとのことだった。なら堺のT氏にあってないかと聞くと、もちろん一緒だったとのことだった。どうやら奇妙な因縁で皆繋がっているようだった、、それにしてもC氏も昨日のT氏も、民宿岡田が満杯で泊まれなかったのだが、いずれもその際に池田の白地荘を紹介されたとのこと、つまりこれも岡田の女将さんの配慮に他ならなかったのだ。その連携・関係が築かれていることに他ならない、、ここまでしてくれる宿がほかにあろうか!?、改めて、そのすごさがわかるというものだった。

民宿岡田のある佐野の集落Img_1683_640x480

岡田から10分登山口入り口Img_1685_640x480

登山道はまっすぐの道でなく右に登る急な道
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雲辺寺手前の山道
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雲辺寺山門
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大師堂をお参りする神奈川のご夫妻Img_1694_640x480

雲辺寺本堂Img_1696_640x480


 ちょうど彼らに会う前に、そこでわたしは前日の情報のひとつ、静岡の先達さんが薦めてくれた観音寺の宿に電話を入れていた。その日泊まれたらお願いしたいと、、すぐにOKがでたので、その日の宿が決まったところだった。その話を彼らにすると、二人ともまだ未定だったようで自分たちもそこにしようということになって、彼らは改めて電話を入れ、その日の夜は三人の同宿となった。が、別にそれはそこまで一緒に行くということを意味してはいなかった。各自勝手に各自のペースで、ということで、ま、夜は一緒に飯を食おうというに過ぎなかった。それで各自参拝を終え、それぞれの都合で出発となったが、雲辺寺着いたあたりから降り出した雨が本降りになってきて、雨支度を整えて出発する段になったとき、たまたまSK氏と同時くらいになったので一緒に歩きだす。しばらくすると一気に下りだして、厳しい下山となった。SK氏はわたしとコンパスの長さを気にしてか、自分はマイペースでいくから、どうぞ先にいってくださいというので、では、いずれにせよ宿で、といって少し先を急いだ。しかし、この下りは半端でなく、もしこの道を登ってくることを考えると容易なことでないことが明白であった。おまけに雨である。それにわたしはどちらかというと下りが苦手だった。30分くらいは先行していたかもしれないが、写真を撮っているとすぐにSK氏に追いつかれてしまい、それ以降はわたしが彼のペースに従うこととなった。そのうちわたしのほうが彼についていくのがしんどくなってくる。わたしは必死についていった。それにしてもこの間雲辺寺大興寺はほとんど下りだったが、わたしにとってはかえって登りより辛く長い道のりだった。それもそのはずで、この間は9.4kmあって時間にして3時間強かかっていたのだから、、雲辺寺9:25大興寺12:35で、とてつもなく早い歩みのC氏はすでに先着していた。

雲辺寺からしばらく続く平坦な道に五百羅漢像が並ぶ、、Img_1698_640x480

下山途中でこんな写真を撮っているとSK氏が追いついてきた(2枚目)、、
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 雨の大興寺で、団体さんの巡拝が終わるまでしばらく休憩とし、その後われわれ各自それぞれに参詣し、そしてSK氏とわたしはお弁当の昼食、C氏は岡田泊でなかったから、また途中にお店の類は一切なかったから、恐らく簡単な携行食の昼食となったと思われる。大興寺発は一緒で13:15だったが、その夜知ることになるのだけれどC氏の歩速は尋常でなく、あっという間に見えなくなった。わたしとSK氏は同じような歩みだったので、今度は市街地の舗道を縦列で歩いていく。この間もけっこう長くてつらいものがあった。そう、この頃になってまた足の痛みが生じてきていたのだった。実は今回靴を替えていた。前回までのいわゆるウォーキングシューズから、くるぶしを覆う軽登山靴にしていた。この靴は長年はいていたもので足には慣れていたので、前日の山登りとその日の山登りには流石と思われるほど快適だった。ところが、やはりこの靴のほうが正解だったのかと思いながらの下りで、思わぬ欠陥が露呈してきた。今までもその経験があったのだが、この靴はつま先に欠陥があって、下りや平地歩行となると足指が圧迫されてくるのだった。だから、今回は前回のように足裏にマメができるということはなかったが、両足の小指、薬指あたりに異常に圧迫される痛みが生じてきたのだった。歩き続けているとそれが耐えられない痛さになってきた。それを我慢しながら漸くのことで宿に着いたのが15:30、大興寺から8kmをほとんど休みなく歩き続けたが、それでも2時間では着かなかったのである。

67番大興寺;3枚Img_1705_640x480Img_1704_640x480Img_1706_640x480

大興寺の山門からでてきたC氏
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 時間的には68番69番を十分に打てる時間だったから、わたしは前回打っているので必要なかったが、宿の女将さんから琴弾公園の‘寛永通宝銭形砂絵が全国的にも珍しいから見てらっしゃいという勧めもあって、荷物を置いてSK氏とでかける。68番神恵院69番観音寺は宿から10分、境内でC氏を見かけ、わけを話してSK氏と別れ一人で琴弾公園の展望台にいってみる。確かに砂絵は素晴らしいものがあるのかもしれなかったが、わたしには想像もしていなかった海原がその向こうにあったことに驚かされていた。写真だけとってそこからは琴弾八幡宮の長い階段を足の痛みをこらえながら下る。そして宿に向う橋の袂で68番69番を打ち終えた両氏とばったりであって三人でチェックイン。そこにわれわれの声の聞きつけて降りてきた先客がいた。大津のジェントルマンK氏だった。前日の岡田のメンバー8名のうち3人が引き続きの同宿となり、宿泊客はわれわれ4人だけで、またもや賑やかな夕食となった。この日は前日いなかった、なかなか面白い人間C氏が話題の中心となり、山ヤさんであり、歩きもやっているという70歳とは思えないC氏の強さの秘密を聞くことになった。彼は別格打ちはやっていないが、どうやら巡拝中に登れそうな山やウォーキングのコースなどを組み込んだ独自のルートを歩いているらしく、ここにもまたひとり超人がいたことを知るのであった。もうひとつここの宿の際だった点があった。それはこの宿を勧めてくれた昨日の超人が教えてくれたことだったが、この宿は二食付で何と5000円という安さだったのである。それでいて、他の宿ではでたことのない、この宿の親父さんが山でしとめてきたというイノシシの鍋と、この海でしか取れないという大量のマテ貝が料理にでて、それが絶品だったのである、、二日つづけて(いや三日?)今回は宿にハズレがなかった。この宿は勧めてもいいかと思うのでその名をだしておきたい、駅から10分の藤川旅館さんだった(実は11/12に民宿岡田に泊まった8名のうち、静岡の逆打ちの先達さんともう一人ほとんど喋らなかった若い方を除いた6名は、当然のことながらほとんど同じ行程を歩んでいた。で、そのうちの我々3名がこの藤川旅館泊だったが、あとの3名は藤川旅館前の若松屋別館に泊まっていたことを後で知るのだった)、、

観音寺本堂前の薬師堂への石段、これを登って右手裏から展望台へ行く道があった、、Img_1714_640x480

はっきりしない写真だが、琴弾公園の砂絵、わたしはその向こうに海があることを知らなかったので、そのほうが驚きだった、、Img_1715_640x480

その展望台の脇が琴弾八幡宮の本殿になっていて、そこから長い階段を伝って降りていくと財田川にかかる橋の袂にでた、、Img_1718_640x480