独歩の独り世界・旅世界

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四国八十八ヶ所 お遍路初体験 6,鴇田峠を越えて内子町大瀬まで、、

(予めお断りしておきますが、今回の内容は面白くないと思います。お寺巡りもなく写真も少なく、ただ移動で歩き疲れた話しかでてきません。あくまで記録ということであしからず、です‥) 

 に44番の大寶寺から次の43番明石寺までは67~68kmと書かれていたので、この間は3日の歩きを予定していた。一日20kmは最低歩く、歩けるだろうと見込んで、その日は内子町大瀬辺り、次の日大洲市までいって、三日目に43番明石寺のある卯之町まで行きつけば、最終日に43番42番41番と打って当初の計画は達成するだろうという皮算用だった。が、その朝はどうも気持ちがいまひとつ乗ってこなかった。理由はいくつかあって、まず第一は足裏の痛み、そして雨、もうひとつは山越え、さらに少し飲みすぎといったぐあいで試練のときを迎えていた。そう、試されていると‥、、そういう想いがあったので、奮起して6時半に朝食をとりに下に降りるとすでに皆さんお揃いで、やる気満々元気なのだ。このくらいの雨なんでもない‥、、その意気に刺激されて迷いを吹き飛ばし、しっかり朝食をとって、しっかり雨支度を整えた。7:30にほとんど一斉スタートとなった。が、行き先は全員バラバラ、三重のおっさんはまだバイクの整備中だったが、千葉組は年配の歩き遍路氏が我々が昨日下ってきた道を、H氏はバスで松山に出るとのことで近くのバス停へ、わたしは年配氏と同じ交差点を反対に折れて鴇田<ヒワタ>峠へと向かった。この峠も思ったほどきつくなかったが、はじめ車道を行き途中から山道のへんろ道に入り、また車道に出たりしたので、一ヶ所危うく来た道をまた戻ってしまいそうになった。これも順打ちなら間違いようのないところ、足の痛みがあったのでちょっとのミスが恐ろしく、そういう紛らわしいところに難儀した。50分で峠の手前の休憩所着。いい按配に雨が上がりかけていたので雨支度を解く。そこからまた少し車道を行って山道に入った。(休憩所から)15分くらいで峠の看板、そこに鴇田峠のいわれが書かれてあった。なんでもお大師様が歩かれていたとき、大洲からずっと雨に降られていたんだとか、ところがこの峠にさしかかったとき雨が上がっていい日和<ヒヨリ>になった‥、、その日和がヒワ田になったと、ちょっと無理なこじつけのような話だったのだが、そんなことより、なんだ、わたしの状況と一緒ではないかと奇妙な一致に微笑えんでしまった。それで正確ではないかもしれないが、メモもとらずに覚えていたのである(が、うろ覚えなので間違ってたらゴメンなさいです。しかし、もしかしたら、このときわたしはお大師様に出会ったのかもしれない、と今にして思うのです‥??)。ともあれ、そのときは完全に雨はあがっていた。そこからは幾分下り気味のなだらかな山道歩きとなったが、へんろ道表示は極端に減り、この道でいいのか気になって仕方がなかった。ま、それでも比較的歩きやすい道をしばらく下るとまた車道にでた。ほとんど車の通行はない細い道だったが、いまや地域住民のため山の中まで、ある意味完璧に舗装道路はいきわたっていた。地図に大師堂とでていたところが次の分岐点で、現地の標識は宮成となっていたところ、そこまで50分で10分休憩、足裏の痛みは相当ひどくなっていた。左が国道380号線への道、右が下坂場峠の分岐点で右の下坂場峠がへんろ道になっていてそこまで15分、峠からは車道を離れて山道が下っていた。しばらく山道の下りだったが、また車道にでて少し行くと、道がいくつかに分かれていて順打ちの標識しか見つけられず、いったいどの道をいけばいいかわからなくなった。こういうときは誰かに聞くのが一番だが、民家はあっても人通り、人の気配はまったくないところであった。仕方なく誰かが通るのを待つことにする。幸いにそんなに待つことなく住民が乗ってそうな軽トラが通りかかったので聞いてみると、その軽トラがきた方向が正しい道と教えてくれた。しばらく細い車道をいく。次の目印は三嶋神社だった。苦痛にあえぎながら単調な道を歩いていると、その日初めての遍路さんが向こうからやってきた。行き交う人のない田舎道でお遍路さんに会うのは少しの喜びと安堵がある。近づくと二人連れの女性だった。さらに近づくとその二人は日本人ではなかったのだ。こんなところで!?、うれしくなってもちろん下手は承知で英語で話しかける。聞き出せたことは、まずオーストラリア人だったこと、年は20代で、なんと一番から歩いているとのことだった。彼女らの手には英文のガイドブックがあって、その日はわたしの前夜の宿泊地まで行くとのこと、いまやお遍路が国際的になってることはある程度知ってはいたが、実際会ってみるとなんかうれしいというか、特別の感慨がわいてくるのであった。ちょっと見ではまったく外国人とわからないほどナリも覚悟も備わっていて、わたしなんかよりずっと遍路さんらしかったし、強く、たくましく、若さがあったので、たぶんすべて打ち終えるであろうと思われた。今ころはまだ歩いているのだろうか?、いや、たいしたもんだ ! !、それに引き換えわたしのこの不様は何たること ! といった按配で彼女らエールを送って別れると三嶋神社がすぐそこで、しばらくの休みを必要としたのだった。

久万高原町の中心部;着いた日に部屋から写すImg_1199_640x480

舗装道のへんろ道、路傍のコスモス?が疲れを癒してくれる‥、、そんな道がたくさんあった、、Img_1200_640x480

はっきりしなかったが、これが地図にあった大師堂か?足が痛くて確かめに上まで行かなかったImg_1205_640x480

これも地図にあった下坂場峠の車道(この道も交通量は皆無)、ここから左に山道のへんろ道があったImg_1206_640x480

三嶋神社;2枚、大変由緒ある神社だったが人の気なく、勝手に入って参拝してお堂の舞台で休ませてもらったImg_1208_640x480Img_1207_640x480


 どうやらこの三嶋神社はこのお遍路の歴史よりも古くからこの地にあって(1300年の歴史?)、相当由緒のある神社であることを、そこの案内板でみたか、何かで読んだかで感心していた。その境内にはベンチがなかったので本堂の舞台を借りて、ひと気のない神社でしばらく休ませてもらった。時間は11時、時間的には順調に来ているようだったが、この先どこまで歩けるかなんともわからない状態になっていた。はっきりしていたことは、負け惜しみではないが、足裏の水ぶくれの症状さえなければ、他は特に疲労を感じてなかったので当初の予定通り歩き続けられたであろうということで、前前回に記したように、むしろその対策を怠ってしまったことが悔やまれた。その本にも書かれていたが、なってしまってからでは遅すぎで処置なしだったのである。ま、だからもうそのときは、何が何でもでなく、歩けるところまで歩こうという考えに切り替えていた。10分の休憩で次の目標地点を国道379号とぶつかる辺りにあった休憩所と定め、のそりのそりと歩き始める。それでもその間約4kmを平地だったからか50分で、そして5分の休憩で次の田渡小学校前の上田渡休憩所まで行って昼食休憩にすることにし、また歩きだして、なんとか30分でそこに着いた。その休憩所の近くにはガソリンスタンドやトイレがあってお店もあったが、お店は開いてなかった。結局朝出てからそこまで、昼食のためのパンとかおにぎりを買えるところは一軒もなく、また食べ物屋もなかったことになる。ま、実はそれはあんまり心配してなかった。昼はそれほど入らないのはわかっていたし、いざとなれば非常食のカンパンがあったから、それは承知の上だった。わたしはほとんど水も飲まないほうだったから、昨日仕入れた飲み物が残っていて、それとカンパンで昼食は十分だった。わたしにはむしろ休息が必要だったようで、いつもなら昼食休憩は30分くらいだったが、そのときは45分もとってしまった。ただその間に、もうそんなに歩けそうもなかったから一番近そうな宿を探していた。何件か電話を入れる。というのは一軒目は応答なし、二軒目で繋がるもなんか感じがよろしくない、しかし持っていた案内書を見るかぎりもう他に近場に宿はなかった。その宿まではたぶんあと6kmくらい(?実際はもう少しあった)先だった。ま、そこまではいけるだろう、いくしかないと判断し、その日の宿をお願いした。そこに着いてからのことだが、その宿に先ほど出会ったオーストラリア人二人も泊まっていたこと知る。歩き遍路の間隔としてはそのあたりがちょうどよい宿泊地になるのだが、そこには一軒の宿しかなく選択の余地がなかったのだ。それにしては‥つまり、あとの話として、それまでの宿に比べるとちょっとハズレだったといいたい。

 13:20に歩きだす。二日目も三日目もだいたい3時には宿入りしていたから、もしかしたらそのくらいで着けるのではと思っていた。が、相変わらずの舗道歩きは、ますます速度を遅くさせた。30分くらい歩いたところで、日本人女性の遍路さんに会うが挨拶だけ。陽気に声をかけられる状況でなかったのでゴメンナサイした。さらにいくと今度は若い男性、彼は少し迫力があったので挨拶して少し話を聞いた。この人も一番から歩き続けてすでに一ヶ月が経過しているとのことで、その日も大洲から歩いているとのことだったから、すでに30kmくらい歩いていることになる。馬力<パワー>がありそうだった。今日はどこまで?と聞くとあと少しいったところといっていたから、広田というところなのだろうか?、あるいはテント・キャンプgoods持参のようだったから野宿か?、いずれにせよ彼の荷はわたしの2~3倍くらいはあったから、それだけでもすごいと感心させられた。若さの賜物である。そこから380号線の手前までさらに30分かかって小休止。380号線に出たあとも、すぐかと思ったら、さらに30分弱かかって結局宿に着いたのは15:15だった。着いてからは部屋をあてがわれたが、そこから立ち上がることができなかった。座ったまま荷の片付け‥、、ありがたいことに洗濯機を借りられ風呂にもいただいたが、そこまでいく数歩、数十歩が難儀だった。それでも他に客がいなかったのでけっこう勝手に振舞わせてもらった。日本の中世史・近世史にやたらに詳しいオヤジの講釈・注釈にはちょっと閉口させられたが‥、、それともうひとつ、こういってはなんだが、夕食がいただけなかった(この宿の名誉のために付け加えると朝食はまともだった)。もう少しましなメシを食べさせてもらったら、ちゃんとした評価を下し名前もだすところだが今回は控えることにした(それでもわかってしまうかもしれないが‥??)。気持ちはいいオヤジ(たぶん同い年くらい?)だったのだが‥??、、

 さて、その夜宇和島の友人に電話を入れ次のように説明した。今日でとうとう歩けなくなった、、なので明日からバス等を使って移動する、、ついては明日中に卯之町まで行って43番にいけたら行く、明日は卯之町に泊まって次の日になんらかの手段を使って42番41番に行く予定だから、到着が当初の予定より2日ほど早まりそうだ、、ついては貴君の仕事の支障のない範囲で(41番龍光寺に)迎えを頼みたい、できれば一泊お世話になりたい、と、、まったく突然の勝手な予定変更にもかかわらず彼は了解してくれた。そして宿のオヤジからはバス停が目の前にあってバスは朝の7:30にある。しかもそのバスは今日までは学校が休みだったから走ってなかったが、明日から学校始まるので明日は運行される、と教えてくれたのだった、、

次の日バス待ちの間に宿の近くを写す;3枚、2枚目は楽水大師堂(番外霊場のひとつ)Img_1209_640x480Img_1210_640x480Img_1212_640x480