独歩の独り世界・旅世界

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2015 last in Guatemala 11,サンタ・クルス・デル・キチェSanta Cruz del Quiche

  今回サンペドロ<San Pedro la Laguna>に行く前にサンタ・クルス・デル・キチェ<Santa Cruz del Quiche>に寄ろうと思ったのはアンティグアについてからだったが、それはやはりもしかしたら最後になるかもしれないという想いがあったからであった。サンタクルスデルキチェは、これまでに二度ほど訪れたことがあったが、二度とも今回行こうとしたところへは寄ってはいなかった。その手前、車で30分のところにチチカステナンゴChichicastenangoという、そこは木曜市と日曜の市で、そしてサント・トマスSanto Tomas教会というマヤの聖典‘ポポル・ウフ’の発見された場所として非常に有名なツーリストエリアがあって、特に木曜と日曜はパナハチェルとあわせたツアーで来る観光客の多い人気スポットであったが、ペテンPetenに次ぐグアテマラ第2の広さを持つQuiche県の県都で、かつグアテマラ最大のインディヘナ人口を誇るキチェの人々の首都であったサンタ・クルス・デル・キチェはほとんど観光客を見かけないところであった。すでにチチカステナンゴも魅力的には見えなくなっていたわたしは、アンティグア→サンペドロの途中、いったい何しにそこに寄ったのであったか‥??

 まず、簡単に地理的説明をすると(地図を見ればすぐわかるのだけれど)アンティグアAntigua~チマルテナンゴ Chimaltenango ~ロス・エンクエントロス Los Encuentrosまでは、サンペドロと同じ道を行く(アンティグアからは1時間半~2時間)。ロス・エンクエントロスというところはジャンクションになっていて、右の道を行くとそこから30分チチカステナンゴ、さらに30分でサンタクルスデルキチェだった。また直進すると148(という地名)経由で1時間半~2時間でサンペドロにつく。だからアンティグア~サンペドロ間は寄り道せずに行けば普通3時間半、ま、かかっても4時間というところであった(シャトルだと3時間~3.5時間)。ということは、もしサンタクルスデルキチェ(またはチチカステナンゴ)に寄り道したとしても、その内容(現地滞在時間)にもよるがプラス3~4時間、つまりそのルートはチチカステナンゴまたはサンタクルスデルキチェに宿泊しなくとも、その日のうちにサンペドロにつくことが十分可能なのであった(もし両方の街に寄るなら、どちらかに一泊のほうがいいかもしれない)。で、P.Tashiroに3日ほど世話になり、3月の9日月曜の朝6時半ころ、セニョーラにいつになるかわからないがまた来ます、とお礼と別れの挨拶をしてTashiroをあとにしたのだった。

 このルートのことは前にも書いているかもしれないが、重複のお許しを乞うて再記すると、サンタクルスデルキチェまでは以下のような行程となる(アンティグアでの三日間は、特にトピックになりそうなことはなかったので省きます)。まず、アンティグアというところはグアテ市とメキシコへの国境までを繋ぐ国道一号線CA1(いわゆるCentral American Highways)から少しずれたところにあって、そのCA1を行くグアテ市~サンタクルスデルキチェ間を結ぶバスに乗るためにはチマルテナンゴ(チマルテナンゴ県の県都チマルテナンゴ)まで出て、そこでそのバスに乗り換えねばならない(ロスエンクエントロスで乗り換えて行くことも可能)。チマルテナンゴへ行くバスは15~20分おきにあって、ふつう30分くらいで料金は5Q。なので7時半にはチマルテナンゴについていた。そのアンティグアから来る道とCA1の交差点あたりが乗り換え場(バス停)になっていて、いつものようにそこでバスを待つ。CA1上は数多のバスが走ってて、それぞれシェラ行き、パナ行き、サンマルコス行き、ウエウエ行き(他、行き先多数)等々のバスがひっきりなしに到着し、バスによるがすぐ出て行くものもあれば、しばらく客待ちして出て行くバスもあった。このときは15分待ちでキチェ(サンタクルスデルキチェは長いので、以下単にキチェと記します)行きが来た。それほど混んでおらず座れる。キチェまではそこから早くて2時間、かかっても2時間半とみていた。その予測はわりと大事で、というのは途中乗車だとバス代がわからないので(グアテマラのバス代は途中乗車だと決まっておらず、車掌の一存で決まることが多い)、車掌にぼられないためにわたしは自分の目安を作ってあったのだが、それは約1時間乗車で10Qくらいというものだった。だからこのときの目安(予測)は20Q~25Qということだった。しかし、乗車後まもなく回ってきたその若い車掌(正確には車掌という語とはちょっとニュアンスが違うのだが適語が見つからない。またその役割と活躍振りについて、以前に書いているので参照されたい)はなんと30Qといってきた。今回はちょっと微妙だった、文句をいうにもこちらの根拠も乏しかったからだ。実はグアテ人がそういう場合にクレームをつけているのをみたことがなかった。黙って払っている。ま、ほとんどお互いに相場を知っていてのことだから口論にはならなかったのであろう。わたしは何回か文句をつけたことがあった。時には5Qくらい下がったこともあった。しかし、このときは、高いと思いながらも払ってしまった。その失敗はわかっていた。そのとき50Q札しかもっていなかったことだった。もし20Q札を持っていれば、車掌が回ってきたとき、いくら?と聞く前に黙ってそれを渡せば済んだ話だったかもしれなかったからだ。それで、もし少ないといってきたら、そのとき異議を唱える(というか運賃を質す)ことができたはずだった。そのときは、違うんじゃないと口からに出そうになったが、留めてしまったのだった。

 キチェには9:45着、予想通りチマルからちょうど2時間で着いた。やはり30Qは高かったと思ったがもう遅かった。さて、わたしはキチェの街の近くにあるウタトラン遺跡(キチェ語でクマルカフQ'uma'rkajというらしい)にいこうとしていた。そこはまさに昔のキチェの人々の都跡といったところであった。もちろん以前からそこは知っていて興味があったのだが、アクセスのしかたわからず、これまでキチェには寄ってはいたがパスしてしまっていた。で、今回その方法を知ったから来てみたというわけでもなかった。前二回とそのときと決定的に違っていたことがひとつあった。それはわたしのスペイン語が少しマシになっていたということだった。要は、行ってみれば何とかなるだろうという自信がついていたということだった(それと最後かもしれないという想い)。それでキチェのターミナルにつくなりトイレに行ったのだが、最近どこもそうなっているが、そこは有料だった。そのとき大きな荷物を(トイレ番?の)その少年の前に置いて、みててくれと頼んで1Q払う。で、でてきたときに閃く。そうだ、ここでかまわない!!わたしはその少年にあと2Q渡して、この荷物(大きいバッグ;10kg越え)をあと2時間ほどみててくれ、と頼んだ。彼はそこにじっと座ってトイレ代を徴収しているだけだから、なんら大変なことではないと思ったわけだが、もちろん彼はOKしてくれたのだった。ほとんど空身になったわたしは、そこは二度も来ている街だから、パルケセントラルの場所はわかっていて、そこまで歩く(10分くらい)。パルケセントラル前のカテドラルあたりにいたツーリストポリスにツーリストインフォメーションはあるかと聞くと、その場所を教えてくれたが、そこは見つけられなかった(いってることを正しく聞き取れてなかったのかもしれなかった)。と、その近辺で客待ちをしているコレクティボを見つける。早速その呼び込み(ま、この場合は車掌というより助手に近い)にこの車はクマアルカフに行くか?と聞くと、これは行かないが、カテドラル前に停まっているコレクティボが行く、と教えてくれたのだった。何のことはない先ほどツーリストポリスに観光案内所の場所を聞いたところが、そのコレクティボの乗り場だったのである。そこには2台のコレクティボが並んで客待ちをしていて、たしかにそのうちの一台がそこへ行くとのこと、その料金は1Qとのことだった。昔みたガイドブックに、そこへはタクシーで100Qかかると書かれていたのを思い出し、なんだ往復2Qでいけるではないか、これが話せることの強みかと思ったのだった(話せるといってしまったが、実際はトラベル会話に過ぎなくて、その域にあらず、正確にいえば少し自信がついたということに過ぎない)。

Santa Cruz del Quicheのカテドラルとパルケセントラル、向こうの建物が政庁舎Img_0646_640x480

同じパルケセントラルの写真だが、左に頭だけ写っているワゴン車がクマルカフ行きコレクティボImg_0679_640x480


 その車は一通り客が埋まると発車し、街なかを通って郊外にでたが、ものの15分ほどで着いた。ちょうどそこが折り返し点になっていて、街に戻る場合もそこで待っていればよいとのことだった。ウタトラン<Q'uma'rkaj>遺跡の看板があって、やはり少し登りになっていた。事務所のようなところもあったが人がおらず、そのまま中へ入れた。丘の上の林の中を行く。この遺跡もツーリストはわたし一人だった。が、やはりキチェの聖地だったからか、その公園となっている遺跡内には複数の宗教関係者のような人たちがいた。この説明は少し難しいというか、わたしもよく知らないところなのだが、恐らくその宗教は昔からの伝統的なものではなさそうだった。というのも、純粋のキチェの人の伝統的な信仰は、それはそれで儀式的かつ秘儀的な振る舞い(特に必ず火を焚くといった)でもって厳かさがあったが(現にそんな人もそこにはいた;写真参照)、その人たちとはちょっと違った儀式を森の中で執り行っている集団で、わたしは何度か目撃したことがあった。ただ、その人たちの特徴はいずれもインディヘナたちで、いわゆるマヤの聖地となっているところで、しかもかなりの人数が集まって執り行われていたのだ。そんな集団(を宗教関係者といったのだが)がここにもいて、大声で泣き叫んだり、喚いたり、歌ったりしていた。まるでトランス状態になるのを目的としているような宗教的儀式だった。少なくともわたしはそんな集団をLago Atitlan界隈で二度遭遇していたが、ここにいたのもほとんど同じ宗教と思われ、なにやら新興宗教くささが感じられたのであった。それは耳ざわりではあったが、お互いみて見ぬ振り(向こうからは、もう視界には何も映ってないと思うが)で、なるほどさすがにキチェの聖地だけのことはあると感心しながら、遺跡はほとんど崩壊してしまっていて、見るべきものはあまりなかったが、そりなりの雰囲気を感じとっていた。しかし何かが見つからない。ここには何かがあったような記憶があった。遺跡として残っているあたりは15分もあれば見終えてしまうくらいの広さであったが、もちろん遺跡の案内図があったわけでないから、それがなんだったか探し回っていた。そんな時、宗教儀式とはなんら関係のない地元の人と思われるグループに出会う。4人組の男性で、挨拶を交わして少し情報交換をする。もちろんわたしのことも話したが、彼らは正確には地元でなくキチェから1時間くらいのところのわりと有名な街、わたしもいったことのあるトトニカパンTotonicapan(トトニカパンは隣の県になる)から来たといっていたが何しにそこにきたのかはよくわからなかった。彼らは会社の仲間といっいいたが、そのリーダーらしきオッサン(もしかしたら彼が社長さんで若い子達は社員かもしれなかった)に、クマルカフはここだけだったっけ?と問いかけると、ついて来いといってわたしをそこに案内してくれたのだった。その遺跡はやはり丘の高いところにあったのだが、そこから急な崖を降りたところに洞窟(cueva、英語だとcave)はあった。もちろんそのときはそれを思い出していた。しかし、それがそれほど大きな横穴だったとは!?、また、更に下がったところにもうひとつあろうとは!?いずれも知らないことだった。なので、わたしはライトをもっていなかった。彼らがいたおかげで彼らのもっていたスマホ(?ケータイだったかもしれない)の簡易ライトを頼りに中へ入れたが、到底そんなものでは奥まで入れはしなかった。いや、それは相当深そうだった、というか、都市伝説ではないが、とんでもないところに繋がっているという噂があるくらい、恐らく全盛時のキチェ王国が作った地下都市(地下壕・地下通路)が存在してもおかしくない、といった興味をそそるほどのものであった。もしかしたら、それは調べてみる価値がありそうにも思えた。ならば一度昔の仲間を連れて出直してみたいという想いがよぎる。そう、我々はかつて洞窟の専門家でもあったのだから‥、、表にで急な崖を上って林の中の遺跡に戻った。そこで礼をいって彼らと別れ、入り口近くのごく簡単なmuseo<博物館>によってコレクティボを降りたところへ下っていった。が、その途中の入り口のところに今度は職員がいるではないか!?、まさか知らぬ振りして通り過ぎるわけにはいかなかった。さっきいなかったじゃないか、というとトイレに行っていたとかなんとかいって、入場料払ってくださいといわれてしまった。ま、いい大人が30Qで逃げてもしようがないと思って、渋々だが払ってきた。ま、行き帰りで2Qだったことを思えばそれほど気にはならなかったが‥。

遺跡に向かう坂がQ'uma'rkajの入り口?そこで車を降ろされた。Img_0678_640x480

少し登ったところが受け付け?このとき誰もいなかった。Img_0648_640x480

遺跡の中央広場?Img_0652_640x480

遺跡との関わりは不明だが、マヤ伝統宗教(またはキチェの伝統宗教?)にとって火を焚くところは祭壇となっている。Img_0653_640x480

この2枚(同じ建造物だが?)も祭壇?Img_0657_640x480
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宗教儀式を行う集団;2枚Img_0661_640x480Img_0664_640x480

この遺跡を有名にしている洞窟の前では、キチェの伝統に則った儀式が行われていた(前方の二人)Img_0665_640x480

洞窟に入ってみる;2枚Img_0666_640x480
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更に下方にあった二つ目の洞窟の前で、知り合った4人の写真を撮る
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二つ目の洞窟は中に入らなかった。Img_0674_640x480

公園入り口近くにあったmuseoの復元想像図
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 バスターミナルには12時半ころに戻った。少年に声をかけ、悪いけど食事をしてくるからもう少し待ってくれと頼む。そしてターミナル内の簡易食堂へ。例によって定食を頼む、この日は牛のカルド(スープのある煮込み料理、ペピアンに似てる)にした。それにライスとフリホーレス、そして別のスープとフレスコ(飲み物)とデザートもついて18Qという安さだった。しかしわたしは、まさか、と思わず叫びたくなった。その牛のカルドが絶品だったのである。まるでビーフシチュウ、今まで鶏があまり好きでなかったので、牛(carne de resという)があるところではだいたい牛を注文していた。が、これほどやわらかく煮込まれ、筋もない牛はお目にかかったことがなかった。味付けも抜群だった。だんだんうれしくなってきた。それはそうだろう、こんなところで、この値段でこんなうまいものが食えるなんて!!、その後も含めて、そのときの食事が今回の一番の食事であったことはいうまでもない。そう、気持ちよくキチェを去れたのは、ウタトランの遺跡も悪くはなかったけれど、もちろんその食堂のおかげだった。そうして1時ころのバスでロスエンクエントロスまででて、30分待ちくらいでサンペドロ行きに乗れる。そこからは早ければ1時間半だが、山の中の道が途中崖崩れで片側通行になっており2時間かかってサンペドロ着。そういえば、このときの車掌は正直者だった。ロスエンクエントロス~サンペドロ1時間半の予測だったから15Qくらいだろうと思っていたら、それが当たったのでそう思ったまでだが‥。しかし予期せぬことも起こるもので、バスを降りて、歩いてここ数年使っていた定宿に行ってみると、まったく見たこともないオヤジがでてきて代替わりしてしまったことを知ったのであった。なんか嫌な予感を感じながらも、仕方なくCasa Andrea(ここはもうひとつの常宿)に落ち着いたのだった。

今回もっともうまかった食事は、キチェ・バスターミナルでの昼の定食だった。Img_0680_640x480

 そのあとの話は、ほとんど現地レポート(‘最後のグアテマラ?、最後のサンペドロ?’と‘グアテマラで、ひきこもる’)に書いていて、もう他に面白い話もそれほどないから飛ばすことにした。で、次回からは、その3週間後、アンティグアからの帰路の模様を書いていくつもりである。ところで、昨晩(今日は2015/05/02)上の記事を書いていたら、家のものにテレビでグアテマラやってると呼ばれた。見てみると何とそれはSan Pedro la Lagunaを写しており、最後にKabaさんが登場した。彼とは数年前に知り合っていたが、今回はお会いしてなかった。というのも今回のわたしの記事の中でサンペドロに焼き鳥屋ができていたことを書いた(最後のSan Pedro)が、そのとき毎日その前を通っていたが、ずっと休業中で誰がやっているのかわからないでいた。そのテレビでその店がKabaさんが始めたところだったと知ったのだった(下の写真)。

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