独歩の独り世界・旅世界

他のサイトに書いていた'独歩の独り世界・旅世界'を移転しました

2015 last in Guatemala 9, ワシャクトン その 2

 錯誤とは以下のようなことだった。5年前の最初のグアテマラ訪問の頃はわたしもガイドブックなるものを持参していた。で、ワシャクトンについてもそれで知ることになったのだが、その遺跡には6つのピラミッドがあるように記憶してしまって(実際は違って - またその記述もそうは書いてなかったのだが - 詳細は後に述べることになると思う)、それらは一ヶ所に固まっているのだろうとずっと思っていたのだ。そして、もしそうなら、今までの経験からして、1時間くらいで一通りは見て回れるのではないかと思い込んでしまった。さらに、それならフローレス発14時、ワシャクトン発朝の6時半の一日一本しかないバスでも、うまくすれば14時のバスは17時ころに着いて、1時間くらいでワシャクトンの遺跡見物をして、次の日の朝のバスで帰れるのでは?と、つまり一泊で戻れるのではないかと勝手に決めていたのだった。これはワレながら呆れる錯誤であったのだ。

 実際はどうであったか。ワシャクトンの村に着いた時点で、はっきりそれがわかったわけではないが、要は見える範囲では何処にも遺跡の影はなかったのであった。だから、あれっ?いったいどうなっているんだ、とは思った。なんか違うな、それに、ワシャクトンの村に着いてからは、あちこちの家の前に停まって大量の物資をおろしながら進んだので、わたしはどこで降りたらいいのかもわからずにいた(それも錯誤のひとつで、たぶんバスは村の中央広場かなんかがあって、そこまで行って終点になると思っていたのだが、どうも様子が違った)。それに気づいたときは、もう18時を回っていて、その時間だと遺跡巡りどころではなくなっていたのだ。早い話、わたしはこれからどうすればよいのか?この村に宿はあるのか、が焦眉の問題になった。そのときになって初めてドライバー(車掌だったか)に、このバスはいったいどこまで行くのか?この村に宿はあるのか?できたら、どこかの宿の近くで降りたいのだが‥、とお願いする始末であった。あとで知ったことだが、この村には3軒の宿があったが、それぞれはとんでもなく離れたところに位置していた。しかし幸運だったのは、ちょうどそのお願いをしたとき、そのうちの一軒の近くを通りかかったのだった(あとの2軒はすでに通り過ぎていたようだった)。ここで降りれば、その先に宿がある、と教えてくれ、見ると確かに看板みたいなものがあった。改めて気づいたことだが、ここは(この村全体が)観光スポットなんかでは全くなかった、ということだった。宿といっても客なんかそれこそ、年間に何人来るかわからない程度で、全く期待していないし、商売で宿をやっているといった感じではなかったのだ。そうやって、わたしの錯誤はひとつひとつ解明されていったのであった。

バスを降りた先に看板があった。下は敷地内からわたしが泊まった小屋を写す。Img_0574_640x480Img_0623_640x480


 だから、萱ぶきのロッジ風?の建物が数棟並んでいる敷地に入っても、しばらくは誰もわたしのことなんか気づいてくれなかった。しばらくボケっとしていると母屋らしきところからおばさんがでてきて、いくらなんでもわたしを見れば宿を探していることくらいわかっただろうが(ま、その程度はわたしのスペイン語でも通じたが)、その小屋のひとつを見せてくれて、こんなんだがいいか、と聞いてくる。宿代は30Q、申し分なかった。たぶんその村は電線では繋がっていないようだったが、自家発電しているようで灯りも点いた。問題は食事であった。わたしはこれまでにグアテマラだけでなく数カ国でジャングルの村にいたことがあったから、観光村でないのなら食堂もお店も期待できないことはわかっていた。しかし、それは着いてわかったことで、当初はそうは思っていなかったから食料は持参していなかった。それでもそのとき、その日フローレスで販促のカップラーメンを無料で配っていたのをもらっていたのと昼食のパンとポテトの残りがあった。珍しくバナナとオレンジも持っていた。なので、おばさんにカップヌードルのお湯だけお願いできないかと頼むと、もちろん快くOKしてくれたので、あとは次の日の遺跡めぐりをどうするかであった(この時点では2泊しなければ無理ということは納得していた)。ギアguía<ガイド>はいるかと聞かれた。そういう意味ではガイドブックも何ももっておらず、それこそどうやらここの遺跡は一ヶ所に固まっているのではなさそうだ、ということはわかっきていたが、では、それがどのくらいの広さで、どこにあってどういったらいいのかは全く白紙だったので、できれば必要だった。が、まず、その前にいくらで雇えるのか聞いてみると、一日100Qくらいとのこと、ま、それは妥当な額に思われたが、わたしにとっては高すぎた。なんか簡単な地図でもないの?とさらに尋ねると、おばさんはちょっと思案したあと、地図があるけど25Qだ、といってきた。それを見せてくれるようお願いして、カップヌードルを渡したとき、すでに周囲はジャングルの闇が迫っていた。

 いろいろ聞いてビールを買える店が一軒あることを知ったが、もう闇が深くて、そこまで行けそうになく、その夜は諦めた。それでもカップラーメンとパンと残りのポテトとフルーツの夕食で十分腹は満たされていた。ヤレヤレたいへんなところにきてしまった。しかしある意味何もないところだが、素朴なジャングルは懐かしくもあったし、人々の純朴さにも癒される何かがあった。持ってきてもらった地図は、いわゆるパンフレットのような立派なもの(グアテマラの公的機関が発行しているもの)で、地図もついていて25Q以上の価値は十分あった。それがあれば一人で回るのに全く問題はなさそうだったからギアは断わったのだけれど、そのとき初めて、ワシャクトンという遺跡は6つのピラミッドではなく、6ヶ所のピラミッド神殿遺跡群からなっているということを知ったのであった。ということは、1時間程度では到底回りきれるものでなく、少なくとも半日を要するくらいの広いエリアにまたがっていることを知り、わたしの思い込みのいい加減さを知ったのであった。それにしても、そんな遺跡群をまたしても独り占めできるなんて、なんかついてるというか凄いことのようにも思えたのであった。

 さて、その地図&パンフレットにはワシャクトン遺跡についての詳しい解説が英語で書かれていたが、そこにはその村の歴史も簡単に紹介されていた。それでいくつかのことがわかった。まず、ここの住民はマヤの末裔ではなく(マヤ時代の人々がスペイン人の侵略をまぬがれて細々と生きつづけたのはメキシコ/チアパスのラカンドンくらいしかないが)、ここは20世紀初頭にチクレ(ガムの原料?)の採集のために開かれた開拓村ということであった。ワシャクトンとはマヤの言葉で8つの石を意味するとアメリカの考古学者Sylvanus Morleyという人によって1916年に提案された、という記述が見られるから、詳しくは書かれていないが、少なくともその遺跡の発見はそれ以前?19世紀後半から20世紀初頭ということなのだろうか?(もしかしたら、それとほとんど同時期なのか?)。いずれにしろ村の開村はそれ以降のようである(一説では1938とか?)。もちろん当時は陸路の道はなく、したがって交通手段は飛行機のみのようであった。その名残りが突然開けた野原だったようで、飛行場跡だったのだ。で、約100年続く開拓村は今でもOMYC<Sociedad Civil Organizacion,Manejo y Conservacion/Civil Society Organzation,Management and Conseevation >という共同体によって運営され、チクレの採集(他にXateというシダ類の採集や木工加工)を主業としているようだった。だから今やグァテマラの屈指の観光地になっているティカルTikalの北25kmにある遺跡ということで、ついついその延長で考えてしまったが、ここはちょっと世俗から隔離された(わたしの好きな言葉を使わせてもらうと)桃源郷のようなところだったのだ。が、それもあくまでツーリストから見た眼で、現実の彼らの生活は相当厳しそうに見えた。そのひとつに水の問題がありそうだった。次の朝、いつものように早く眼が覚めてしまって、早速宿の周りの散策に出かけた。すると各戸から老若男女が各々容器を携えて一方向に向かっていくのでついていくと、そこは地図上にwater reserveとあった貯水池だった。しかし、そこは貯水池には程遠い、ちょっとした水溜りといった感じで濁水がわずかに残っているといった惨状だった。それでももちろん飲料水用ではないだろうが、そこからの汲水が日常の日課のようで、小さな子供には重労働にみえた。ちょうど乾期の終わりが近かったが、雨期までの数ヶ月、あの水量では持たないのではないかと心配になった。ことほど左様にジャングルでの生存は、恐らくマヤの時代も同じだったと思われるが水の確保が生命線であることは間違いない。今では、それこそ毎日一便、都会と結ばれたバス便があるが、それでもここは隔絶された世界であることに変わりはなかったのだ。そんな中、学校もあり、その子供たちが元気なこと、小学校前の児童ののびのびと戯れている姿には救われるものがあった。

この村のセンターの役割を担うOMYCのオフィスImg_0595_640x480

water reservoirImg_0618_640x480

水汲みの女の子に写真を撮るよ、といったらポーズをとった。しかし毎日の水汲みはさぞたいへんだろう??Img_0571_480x640Img_0572_640x480

村の学校;2枚
Img_0569_640x480Img_0570_640x480

子供の写真は一枚しか撮れなかったが、元気な姿は村中にあった。Img_0566_640x480

牧歌的な雰囲気の村。Img_0564_640x480

これも朝の日課のひとつ、毎朝どの家庭からも、とうもろこしの粒をかかえて、粉ひきの機械のあるところへ通う。Img_0622_640x480


 前夜宿のおばさんに、朝食は要らないがコーヒーだけいただけないかと、お願いしてあった。7時ころ部屋に戻ってコーヒーと持っていた菓子で簡単な朝食とし、早速遺跡めぐりに出かけた。地図にはその遺跡群はABDEFHと記されていて、その宿からはBが一番近かった。そこまでは10分くらい、宿を出て数軒の民家の前を通ると、もうジャングルになって人影は絶えた。まさにワレ一人の遺跡となったが、Bのサイトはほとんど復元図にあった面影は残しておらず目ぼしいものは競技場あとくらいだったか?それでも隣りのAサイトに続く堤道は、しっかりつくられていた感じでその面影が残っていた。そのサイトAはパンフレットにもあったが、このワシャクトンの中で最も重要な地位を占める場所だったことが、その残っている建造物群からもうかがわれた。いくつかのピラミッドや高官の住居あと(palacio)などの説明案内板が設置してあった。素人の悲しさでその程度の理解しかえられないのだが(もっともガイドをつけたとしても、半分くらいしか理解できないのだから、つけてもつけなくとも同じだったと思う)、そのパンフレットにあった復元図(現場にも同じような説明板あり)はたいへん参考になった。そのAとBは繋がっていて、そこだけで3~40分、そこからはいったん飛行場あとの広場にでて、そこを突っ切るようにして、サイトD,Eに向かう。マヤの遺跡群を見ててどこでも共通なことは、どのピラミッド群もその地形の最も高い位置に造られていることで、BもAもほんのわずかだが他の場所より高く、だからいったん飛行場あと下るのだが、そこからDはまた少しの登りになった。

サイトBの競技場あとImg_0576_640x480

以下はサイトA;5枚、それ以上の説明は無理・無駄?Img_0581_640x480Img_0584_640x480Img_0586_640x480Img_0588_640x480Img_0592_640x480

 Dはほとんど何もなく、その広場になっているところのまわりには小山があるだけだった。が、実はその小山が、まだ発掘されていないだけで埋もれている遺跡群であることは明らかだった。そこにはいったい何が隠されているのか?まだ未解明の部分がたくさん残っているということであった。その先少しいったところがサイトEになっていた。恐らくここは考古学上たいへん重要な場所であることがわかっていたからか、サイトEは逆にほとんど掘りつくされていた。そのパンフレットの説明によるとそこは天文観測の場所で、現に発掘されてある遺跡群のいくつかが春・秋分の日に太陽が上る位置を示す装置になっていた。(訪れた日は現地時間3月4日で春分の日が近いと思って、次の朝それを確かめに朝出かけたが、あいにく曇りで日の出はなかった)。そんなんで、このワシャクトンの6つの遺跡群の中ではそのEとAが特に重要なエリアだったようで、そのほとんどのピラミッド郡は発掘された状態で残っていた。そこから少しはなれた森の中にサイトF,Hがあったが、そこもほとんど手をつけられてはいなかった。全部を見て廻るのに3~4時間といったところか?、広大な遺跡群はAD378年まではTikalの盟友として強大な都市国家を誇っていたことを物語るものだったし、Tikalとの距離からして(Tikalはその年ティオティワカンの属国になる大事件が起こっている)その後衰退していく運命をともにしていったことも十分にありうることに思われた。その規模からも、また解明されている歴史からも(Tikalとの関係からも)きわめて重要な遺跡であったことは十分に想像できたし、その復元図からも偲ぶことができた。

サイトDの小山は、その下に遺跡が埋もれていることを示していた。
Img_0600_640x480

サイトEの遺跡群;5枚Img_0606_640x480

次の2枚が春秋分冬至夏至を計る装置?最初の写真前方にある遺跡から手前の遺跡(東方向、次の3基並んでいる写真)から登る日の出の位置を観測して計測?Img_0608_640x480Img_0603_640x480

Img_0613_640x480Img_0615_640x480

 遺跡見物は午前中には終わってしまって、その後やることがなくなった。昼飯の心配をしなくてはならなくなり地図にあったcomedor<食堂>を訪ねてみたが、営業しているようには見えなかった(遺跡めぐりのときに寄った一軒は、やっていたが、そこは宿からとんでもなく離れていて、そのときそこまで行く気にはならなかった)。村の中をぶらぶらしていると学校があり(たぶん小・中学校?)、その近くにパン屋を見つけ(そこで作っていたかどうかは不明)、昼飯になりそうだったから、甘くないやつ(グアテマラの場合パンは甘みのあるドゥルセ<dulce>と甘みのないフランセ<フランスパンからとったのか>に大別されている)を買う。そのあと今度は学校の前で、たぶん生徒目当てにちょっとしたおやつ代わりになるものを販売している露店を見つける。それはあまり食事向きでなかったので、他に何かないのと聞くと鍋の中にチョウミン(焼きそば)があるではないか!、それもテイクアウト。最後に昨日聞いていたビールを売っているtienda<雑貨店、商店一般をティエンダと言う>にいって、Bravha<ビールの銘柄、グアテマラのすごいところのひとつにビールの値段がどんな僻地にいってもほとんど変らないということがある。このビール一缶はここでは6Q、都会では5Qだったから抵抗なく買えたが、ここではそれほど消費されることはないかもしれなかった>2本仕入れると、それで十分な昼食となった。ビールのおかげか、午後はほとんど昼寝になってしまったが‥。そして、夕食はおばさんに何でもいいから適当なものを作ってくれと頼んだら、卵とフリホレス(豆料理)くらいしかできないといわれたが、それで十分とお願いした。観光地ではなかったので、余った時間の過ごし方に少し苦労したが、なんとも牧歌的で、のんびりしたいいところだったように思う。ちなみに村の人口は約180家族800人弱とのことだった。

 次の朝、6時半でなく朝7時にバスがあった。しかし前の晩に宿のおばさんから、うちに停まっているワゴン車が7:15に出るから、フローレスに戻るならそれに乗っていけばいいといわれた。その車がなんだかよくわからなかったが、たしかにその夜広い敷地にワゴン車が一台停まっていて、そのドライバー達はその宿に宿泊していたようであった。わからなかったのはそれが偶々だったのか定期便だったのかで、その車はいわゆるコレクティボのようでもあったからだ(最初の晩もあったのかもしれないが気づいてなかった)。自分の泊まっているところから出る車なら、それで帰るに越したことはない。おばさんに全ての支払いを済ませ(宿2泊と食事一回、地図<25Q>、お湯・コーヒーはサービスとのことで全部で110Qだった)その車の最初の客になった。7:15発、その前にバスが出ていたにもかかわらず、その車(どうも定期便のようだった)は村を一回りした時点ですでに満員となり(乗客15人くらい、それ以上に屋根に乗せた荷が半端でなかった)最後の客は乗れないからと断っていた。村中を回って人と荷を積むのに30分かかったが、そのあとはむしろバスより早くてティカルには45分で8:30着。フローレスには9:40に着いた。それでも往路に使ったバス40Qよりも安く35Qだった。そのコレクティボはそのあと旧ターミナルまでいったと思うが、わたしは新ターミナルで降りた。その晩のグアテ市行きバスのticketを買うためだった。まさかと思ったのだが、前々日にINGUATのオヤジに聞いていたグアテ市行き夜行バスで、他と比べると50Qも安いRapido de Sur 社の窓口にいって、今夜の夜行のticketを買いたいというと、その時まだ朝の10時頃だったのに、なんと夜の10時発はすでに売り切れてて、次の11時発も最後の一枚とのことだった。そんな!?、でもラッキー!!、最後のticketを手に入れることができたのだった。面白いと思ったのは、その最後一枚の席番が13番だったこと、ここがキリスト教国だったからなのか‥??。

 やはり少し疲れていたので、フローレス島のINGUATまでは、またトゥクトゥクを使ってしまった。ま、それでもタクシーとは違って市内なら大体どこへでも5Q(80円?)だったので、そこまでケチることはないと思ってのことだった。INGUATには件のオヤジさんがいて、なかなか興味深いところであったと礼を述べる。で、もし知っていたらワシャクトン村(遺跡の発見も含めて)の歴史を教えてほしいと聞いてみたが、もちろんそこまでは知るよしもなく、しかし、調べられたらmailで教えてくれるといってくれた。荷を預かってくれた礼もしなければならなかったが、ま、そこは公的機関ということで好意に甘えてしまった。ということで、フローレスのINGUATはとても好意的で、かつ情報量も豊かで親切だったことをこの場でお伝えし、少しでもその厚意に報いられればと思っている。で、再び重い荷を肩に夜のバスまでどうするかを考えなくてはならなかった。INGUATは16時closeとのことで、それまでは預かってくれるといっていたが、そこまで甘えるのはあまりにも厚かましく思えたので、ちょっとした閃きを試してみようかと思っていた‥。