独歩の独り世界・旅世界

他のサイトに書いていた'独歩の独り世界・旅世界'を移転しました

ハンガリーから書留が‥

 以前は外国の友人と何度も手紙のやりとりしていたが、近頃はmailという手段が使えるようになって手紙をもらうことも書くこともほとんどなくなっていた。そんな折突然に郵便配達の方が来て書留だ、とのこと、しかも外国からだがら2ヶ所にサインしてくれとのことだった。その書留はハンガリーからだった。

 ハンガリーには友人も知己もないから、思い当たることはひとつしかなかった。それは昨年訪れたときに置き引きにあって警察に届けていたから、それに関わること以外に考えられることはなかった。封書の表には差出人のスタンプが押されていたが読めたのはBudapestの文字だけ、ということはやはりそれに関わることと思われたが、いったいどうしたというんだろう、もしかしたら盗られたものがでてきたとでもいうのだろうか?と、いくばくかの期待をもって開封してみた。果たして中身は3枚のタイプされた印刷物(PCでうたれたもの)で、思った通りブタペスト警察(正確には検察署)からのものだった。で、ご丁寧に3枚のうちの2枚はハンガリー語の日本語訳だった。

 訳文付だったので内容はすぐに理解できた(それにしてもその訳文は機械翻訳のものではなく、きちんとしたに日本語だったので、いったいそんな業務をする日本人がいるということなのだろうか?)。もちろん盗品がでた、などということなどがあろうはずはなく、それでも少々驚いたのだが、要は、わたしの申し立てによる窃盗被害の捜査は、その事件の発生現場がハンガリー領内ではなくオーストリア領内であったために、打ち切られることになったという公文書だったのである。

 いや、その件はすでに半年も前のことであったし、被害額もたいしたことはなく、また、被害相当額の半分くらいは保険が降りていたので、わたしにとっては済んだこと、過去の出来事になっていた。いまさらそれはどうでもよかったのだが、そもそもそんな通知、いわゆる公式文書なるものをもらったのが初めてだったので、いささか面食らったというか、多少驚きつつも、いや、こんなものを送ってくるなんて、ちょっと他の国とは違うな、ハンガリーって面白い国だな、と思ってしまったのだった。これまでに何回か外国で置き引きやスリの被害にあったことがあって、ダメモトとは知りつつ、保険の手続きに必要かと思って被害届は出せる範囲で出してはいた。もちろん窃盗犯がつかまったこともなく、また、捜査の報告なんていうものが送られたこともなかったから、今回のような通知が送られることがあるなどということを思ってみたこともなかったし、普通そんなことまでやるところは先進国であっても、まずないのではと思われたからでもあった。思い出してみれば、そのとき届出した調書は、オーストリアとは違って定型のフォームがあったわけでもなく、与えられた白紙の紙に、言われるまま住所と氏名を記し、被害品と被害状況をでたらめの英語で書いただけに過ぎなかったし、担当の若いポリスもかなりいい加減な応対しかしてくれなかったから、まさかそのとき記した住所にこんな正式な文章が送られてこようなどとは夢想だにしなかったことだった。しかし、結果的にそれは、わたしにあらためてハンガリーという国を思い出させ、ハンガリーってちょっと変ってるなと思わせることになったのだった。

 ハンガリーについては、事前に少しは知っていることがあった。例えば、ハンガリー人即ちマジャール人はそのルーツがアジア系(東洋系)であること、といっても、それはウラル山脈ヴォルガ川カスピ海の辺り?ま、西洋と東洋の交差点辺りで、そこから、今の地に移って定住しだしたのが9世紀ころ、建国は1000年の1月1日?とか聞いていた。しかし、建国以来一千年以上が経過している現在、たぶんにアーリア系との混血もあっただろうから、その顔立ちからはヨーロッパ系のそれと見分けはつかず、そのルーツを示す特徴は少なくともわたしは判断つきかねた。が、ものの本によるとそれは言語系統からわかるそうで、明らかにハンガリー語ウラル・アルタイ語族系統とのことで、それは名前の表記が我々と同じ、姓→名の順に示されるところにも現われているとのことだった。それはともかく、たまたま彼らが定住したカルパチア盆地は、後に東北のロシア、南東のオスマントルコ、西のハプスブルグ・オーストリアに囲まれたはざ間(中央)に位置し、そのために強国に揺さぶられ翻弄される歴史を刻んでいくことになる。もちろん黄金のハンガリー時代も経験しているが、ハプスブルグの統治下にあった時代も長く、1848の独立戦争が失敗に終わりその後オーストリアハンガリー二重君主時代が続く。そうした辛苦の歴史が人々に一種独特の雰囲気を醸しださせているのか、ハンガリー人はどことなく温和で落ち着きがあって、質実、剛毅といった印象もあり、それでいて洗練された知性を感じさせ、それはスポーツの世界とか、科学や学問の分野で世界的に名をなした人が多く、人口比で世界で最も多くのノーベル賞受賞者を出しているのがハンガリー人とのことであった。

 しかし、実際のハンガリーについては、正直いってブタペストの街を少し知っただけであった。というか、どういうわけかわたしはブタペストという街は、意外と好きであった。だからなのか、わたしはそこを2度訪れていたし、その2度とも短期間だったからか、いつもまた来たい、戻って来たいと思わす何か物足りなさをもってそこを去っていた。では、その磁力とは何だったのだろうか?あらためて思い返すと、思い当たることがなくはなかった。それについては前にわたしの旅録にも記してるかもしれないが(以前の旅録を最後に載せておくので参照してください)、単純かつ表層的なことで、要するにプラハとブタぺストはどっちが美しいか?どっちが魅力的な街かという問題にその答えが隠されているように思われた。方や世界で最も美しい街のひとつといわれているチェコプラハ、一方ドナウの真珠と称されるハンガリーのブタぺスト。これははっきりいって、甲乙つけがたい難問であって、人の好みによるとしか答えようがないくらい、いい勝負のように思えたのだが(なんかAさんとBさんどっちが美人?どっちが魅力的?どちらが好み?という問題と同じか?)では、わたしの好み、視点、理由はなんで、どっちに軍配を上げたかを以下に列挙して、この記事を終わらせようと思う。

 過去に2度、この両都市を訪れたとき、いずれも最初にプラハによって、その後にブタペストを訪れていた。前述のようにいずりれも短期間であったので、深くを知るに至らなかったし、けっこうトラブルもあったりしていた(置き引きにあったのは、実際は電車の中でオーストリア領内であったから、それでハンガリーを恨んだら罰が当たる)が、妙に印象は悪くなかったのだった。その理由を思い返してみると1,は、たまたまだったが、プラハより天気がよかった。2,どちらも世界的な観光地で、観光客の多さに辟易させられたが、それでもブタベストのほうが幾分少なかったように思う。3,なんといっても食とワインはブタベストのほうに分がありそうだ。4,これがわたしには決定的だったが、今まで述べたことのないわたしの好みに色の問題があった。即ちわたしの好みの色はこの50年グリーンだったのだが、ブタペストで有名なレヒネル・エデンの建築群に接触したとき、その屋根に使われているグリーンの配色をみて、ブタペストの勝利は決定してしまった。もっとも、それらをゆっくりみて歩く時間が取れなかったことが、もう一度行ってみたいと思わせているのかもしれなかった。5,そして今回のことも含めて、ハンガリー人の独特の魅力みたいなもの?、例えば去年いったときのホテルシシーのフロントマンとか、バスのドライバー、接触した多くの人が印象的だったことがあげられそうだ。こうしていつの間にかハンガリーはわたしの好みの国のひとつになってしまったようだった。

 が、それはたまたま、わたしの場合であって、客観的には、この判定は本当に難しいと思う。チェコハンガリーはかつては隣国同士だった(今は間にオーストリアスロバキアが挟まれているが、一時チェコスロバキアを併合していたし、スロバキアは元ハンガリーの領土であったときもある。また、20世紀初頭までは、オーストリアハンガリー二重君主国であったのだから)。だから、その両都市プラハとブタペストは、ま、お隣の国の首都同士であって、その隔たりは特急列車で7時間の距離でしかない。この魅力的な両都市は中欧の旅にはどちらもはずせない街であるから、是非ご自分の目で確かめられて甲乙をつけていただきたいところである。

http://app.f.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=66089208&blog_id=1031374

http://app.f.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=66236128&blog_id=1031374                  

http://app.f.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=96037946&blog_id=1031374

http://app.f.cocolog-nifty.com/t/app/weblog/post?__mode=edit_entry&id=96078605&blog_id=1031374