独歩の独り世界・旅世界

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フィリピン語学留学、その8 ; relax time (息抜き)

  英語しか使ってはいけないといった規則はなかったし、門限や部屋での飲酒禁止といった規則も厳しすぎるというものではなかったから、時に先生方やKoreanとのコミュニケーションが必然的に英語となるので、多少のストレスを感じることもなくはなかったが、わたしのように日本では365日休肝日なしが普通だった酒飲みでなければ、特に夜に寂しさを覚えることもなかっであろうと思われる、、が、強いてそれは覚悟できていたとはいえ、やはり慣れない勤勉(tight & hard)な生活には、やはり潤いとなるものがどうしてもほしくなるということを、ま、学校側も多少理解していたようだった、、即ち、門限に間に合うなら外で飲んでくるのはかまわないと‥、、ところが、イスラムの世界ならいざ知らず、酒飲みはどこにもいて、どんなところでも酒を飲ますところはあると思っていたのだが、もちろん少し歩くなり、タクシーを使うなりすればそういったところはあったのだろうけれど、ゲートのそばにあった商店街(山を下って5分?)に、少なくとも最初の晩に適当な店を見つけることはできなかった、、

 それでも、わたしが到着した日の最初の夜、早速そんな店を探してうろついて(まだ誰とも知り合ってなくて、そのとき面倒見てくれたGMのYukariさんにそんなことも聞けず)、はっきりそれとはわからなかったが、日本の焼き鳥屋のように香ばしい煙を上げているところは見つけていた、、ただ、そこが飲み屋かどうかの確証はつかめなかった、、というのもそこの客に子供たちの姿を認めたからで、だからその夜はアルコールを抜かざるを得なかったのであった、、が、早くも二日目の夜、それはオリエンテーションの第一日目だったが、午後からGeneral Manager Yukariさんから多くのレクチャーを受け、そして街まで案内してもらって、必要物質の調達のためのスーパーや両替の場所、街への出方を教わったあと、そのときは日本人だけだったから、初顔合わせしたAlisaとFrankとわたしは、タクシーで戻ったあとに早速そこに出向いてみたのだった、、で、そこでは確かに日本の焼き鳥のような串に刺さったものをその場で焼いていたのだけれど、そこにはお酒はおいてなかったのだった、、しかしそこで飲んでる人もいた、、話は簡単だった、、数件先にあった雑貨屋(ミニスーパー)で自分でビールを調達してくればよかったのだ、、そのときは初対面の飲み会で、しかもみんな飲兵衛だということがわかって、しかも初日の緊張感のあとということもあって、しかも懐かしき焼き鳥というつまみがあって、1リットルビンのビールRed Horseは瞬く間に空となったのであった、、で、なくなるとすぐに調達に行き、とうとう2時間くらいの間に1リットルビンは4本空になったのである、、そして焼き鳥代も入れて一人200ペソ(500円くらい?)で済んだことを知って、その店は我々の行きつけの店になった、、というより、それなりに飲めるところがそこしかなかったので、金・土に限らず、いついってもわれわれの学校の生徒が誰か必ずいるところだったことをあとから知ることとなるのだが、われわれも何度そこに繰り出したことか?、ま、相棒となったFrankとは週に2~3回は行ってたのではないかと記憶している、、

学校のあるGreen Valleyというところはgateがあって、その内側にはほとんど商店はなく、ゲートの外に商店街があった079_640x427

 今まで、それを告げずにきたが、その学校のあった街をBaguioといった、、Baguioという街については次回詳しく述べるとして、その街はフィリピンのサマーキャピタルシティ(Summer Capital City)といわれる街だけあって、かなり大きな街で、山間に位置するなかなか風光明媚なところであった、、が、その街の中心に出るには、タクシーかジプニー(これについても次回)で3~40分かかった、、それでも最大の息抜きとしてはその街まで出て、買い物したり食事したり、あるいは飲み歩くことのほうに重点があって、毎週門限のない金曜の夜、土曜の夜は、どのメンバーとどこへ飲みに行くかがいつも最大の関心ごとのように思われていた、、ま、特に若い日韓の美男美女が多く集っていたのだから、その交流の場として、その機会は大変貴重なものだったように思う、、かく言うわたしも、普通なら誰も相手にされない年になっていたが、そこは心優しいbatch mateたちがいつも気遣ってくれて、たいていの週末の夜は街で飲む機会に恵まれたといってよかった、、まず最初の金曜の夜はKoreanのbatch mateの案内で、Buguioという街に多くあったKorean Restauranteで第一回目のbatch mateの飲み会が開かれ、次の週は逆に日本人が日本料理屋のChayaに皆を連れてって第2回目のbatch mateの飲み会(このときはプラス6人の参加があって、14人のパーティ)、次の週は別のメンバーとやはり街で飲んで、最終週は木曜にbatch mateによるfarewell party、金曜はbatch mateも含む総勢20人近くが集まる、ま、お別れ会のような飲み会があって、ほとんど毎週、週末はどこかで誰かと飲んでいことになるのだが、(流石にそこまでは付き合わなかったが)たいていそれは2次会、3次会と発展していったようだった、、ま、それも若い人たちの集まりとしては自然の成り行きで、むしろそういう場と機会があって、より彼らの親密度は増していったように思う、、そういった効果については学校側も理解していたからこそ、金・土の門限をなくしていたと思われるが、そういう意味では街から少し距離があったことも、あるいは間接的な(毎日出るには少し遠いといった)効果のひとつだったのかもしれなかった‥??、、

Summer Capital City ; Baguio045_640x427

batch mateのKorean Nald<写真左>が開いてくれたFarewell PatyImg_0320_640x480