独歩の独り世界・旅世界

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フィリピン語学留学、その6 ; daily life & rules (日常生活と規則)

 今までの話から、オマエは何しにいったんだ?と咎められそうだが、しかしそこは学校側のそれなりの配慮があって、かなりシビアな規則のもと、いやおうなく英語漬けにならざるを得ない環境にあったのも事実だった、、まずbaseとしての時間割は次のようになっていた、、一コマ50分の授業が一限8:00~、二限9:00~、三限10:00~、四限11:00~、五限13:00~、六限14:00~、七限15:00~、八限16:00~、そして夜間クラスが17:00~、18:00~、19:00~20:00~と4クラスもあって、わたしでさえ、いわゆるレギュラーコースだったのだけれど、午前と午後で6コマ、プラス夜間一コマの取得は、予習と復習、それに宿題をこなすとなったら、はっきりいって英語漬けにならざるを得ない状況だったのだ、、それはハードな毎日だったといっていい、、だから若い人たちでインテンスィブ(intensive;集中強化)課程やTOEIC、IELTSなどを目指す人たちは、一日最低7コマ~11コマまで取得可能だったから、そういったよりハードな目標に挑んでる人たちのなかには、それこそ寝る間を惜しんで取り組んでいる人もいたのだ、、例えばそんな例の一人として、わたしと同じ年配組ながら自らインテンスィブコースを受講していたlounge mateのMieさんは、わたしも朝が早くてだいたい毎日6時起床で、6時半には部屋をでるか、すでにloungeにいていたのだけれど(わたしの部屋からloungeまで、毎朝10分の山登りだった)、そのときすでにMieさんだけは必ず席にいて、恐らく毎朝一番乗りで、帰るのは夜間の授業にでて、毎夜20時過ぎ(わたしは19時頃だった)とのことだったので、その姿勢は見習わないわけにいかなかった、、そういう意味では我々は朝派といってもよかったかもしれないが、夜派の若者たちは24時間使用可能なloungeで、夜中の2~3時まで勉強している人もいたし、Arisaなんかは何回か徹夜したといっていたから、やる人はやっていたし、その光景はとても刺激的なものであった、、

朝6時半ころのlounge、この時間学生はまだ一人も見当たらないが、一番奥に人影があり、それがMieさん、、093_640x427

 さて、もうひとつ大事な時間割があって、それはその建物の2階がlounge、教室、事務室になっていたのだが、その地下にあたるところにあったダイニングルーム<食堂>の時間帯であった、、なにせ3食付をうたっていたから、授業のない土・日も含めて食事は提供されていた、、その時間帯が朝食が6:40~7:30(土・日は7:40~8:30)、昼食11:40~12:30、夕食17:40~18:30だったので、日常生活はそれと授業の時間帯の組み合わせで各自の日課は決まったといっていい、、そしてもうひとつ大事なポイントとして、たまたまその学校は丘の上(山の上?)にあって、ゲートを通ってそのエリアに入るようになっていたから、その敷地内には、いわゆる一般の飲食店や商店というものがなく、ちょっと隔離された場所といった感じで、また、が故に生徒管理ができたのだと思うが、門限(日~木、夜の10時にチェックあり)や風紀上の規則(学内、室内での飲酒の禁止とか男女の同室禁止とか、発覚した場合の罰則とか)がやたらにあって、これはいい意味に解釈できるのだが、要するに‘何しに?何のために来ている?’という間接的な問いを自問できるようになっていたといってもいいかもしれなかった、、よって、かなりいい加減な動機できていたわたしでも通常日(月~金)の日課は以下のようなものとなった、、

 先にも述べたが起床は6時、6:30~19:00が学校内にいて、朝食は7時前後、9時までは自習または自由時間、9:00~マンツーマンが3コマ(順にspeaking,writing,listening)、昼食12時ころ、午後はマンツーマン×1(speaking)、グループクラス×2(listenigとwriting)、17:00~の夜間クラス×1(pattern)にでて、18時ころ夕食をとってloungeでPCチェック(部屋ではWiFiが繋がらなかったので)して19時ころ部屋に戻る、といったあたりが一番多いパターンだったように思う、、そして部屋ではテレビもなく(テレビのある部屋もあったが、わたしはあったとしても見なかったと思う)PCも繋がらなかったから、いや、ほとんどは宿題が出ていたので、予習・復習・宿題にだいたい22時か23時ころまでかかっていた、、もちろん例外の日々も多くあって、それを次回以降のテーマにする予定だが、わたしの場合はその甲斐があったとまではいえないにしても、そこで学ぶほとんどの人たちには、まさに(プラスの意味で)英語漬けにならざるを得ない環境だったといっていいと思う、、