独歩の独り世界・旅世界

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アウグスブルク~ローテンブルクRothenburg~フランクフルトFrankfurt 8,21

 その朝の諍いの原因はなんだったかまったく覚えてないのだけど、またまた我々は交信不能状態に陥っていた、、その日の予定は午前中はのんびりして - というのもアウグスブルクの見所はわりと固まっていたので、主なところだけならそれほど時間はかからないと思っていたからだが - 、そして簡単に昼食をとって12:20発のヨーロッパバスでローテンブルクまで行く予定だった、、で、ローテンブルクは、バスの到着が遅れることもありそうだったので一応3時間くらいを見込んでいて、そこからは19:06発 Steinach、Würzburg乗換えでフランクフルトに21時半着の列車のticketをこれも日本からonlineで取得してあった、、繰り返しになるがこれもいわゆる早割り(早期割引?)ticketだったから、Würzburg~Frankfurt間はICEの特急利用で二人で29€という、まことにお得なticketだった、、そしてフランクフルトは寝るだけのつもりで、やはり駅前の安宿に予約を入れてあった、、次の日はフランクフルトから飛ぶだけだったから、その日が、ま、旅の最終日のようなものだった、、

 ところが朝からなにやら不機嫌で、もしかしたらそのホステルは朝食がついてなかったから、朝食をどうするかでもめたのかもしれなかったが、ともかくすれ違いだすと簡単にはおさまらないのがわかっていたから、こういうときはお互い勝手にするしかなく、9時にインフォメーションの前にくるようにいって、わたしは一人ででかけた、、もう、そんなのがこの旅だけでも何回あったか?、いい加減うんざりしていたから、わたしのほうはむしろ一人で歩き廻れるので清々していた、、わたしは早速、前の日にいったところも含めて再び写真を撮りながら歩き廻ってみた、、Domから聖十字教会Heling Kreuz、市立劇場Stad-theater、市場Stadmarkt、そして市庁舎前広場までいったが、このときはまだ8時をまわった頃で、インフォメーションのオープンまでは1時間くらいあったから、歩けるかどうかわからなかったがフッガーライFuggereiというところまで足を延ばしてみることにした、、フッガーライというところはそのあとでもらった日本語のパンフレットによると、世界最古の社会福祉住宅で、その歴史は1521年に建てられたということだから600年?、もちろん建物はその後建てかえられてるようだが、そのシステムはまだ生きていて、現在も150人ほどが年間1€ほどの家賃でそこに生活しているとのことだった、、アウグスブルクの見所は15~16世紀の豪商フッガー一族によって建てられたものや、一族にちなむ屋敷・教会・墓所などがほとんどであったが、この最古の福祉住宅というのも1521年にヤコブ・フッガーという人が貧しい人を助けるために寄進したもので、その精神を受け継いでいる財団によって、今も運営され機能しているというのだから、まさに驚きであった、、しかし、わたしが訪れたときはすでにオープンしていて中の見物ができたのだけれど(ここは8:00オープン、大人;4€、シニア;3€だった)、その日本語のパンフレットがあることを知ったのは帰り際で、そのときはもう9時に近かったから、せっかくの詳しい場内の案内は後で知ることになり、そのほとんどは見逃がしてしまっていた、、で、急いでインフォメーションに行くと、少し9時を過ぎていたがツレはそこで待っていた、、実はそこで同じことが起こった、、そのインフォメーションセンターにはアウグスブルクの日本語の案内(パンフレット)も置いてあった、、しかしそれはやはり昨日手にしておくべきだったのだ、、すでに余す時間は2時間ほどになっていて、昨日から通算すれば時間はけっこうあったのだけれど結局詳しいアウグスブルク情報が後回しになってしまって見所の半分くらいは見逃してしまうことになった、ということだった、、

前日にも行ったDom<大聖堂>とその後ろ側にあった公園に面して建っていた付属施設?学校のようでもあった、、496_640x427498_640x427

Heiling Kreuz教会501_640x427

Fuggerei;3枚(現在もこの社会福祉住宅には入居者がいた)
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 ま、それでもここは予備知識として市庁舎の黄金の間とその隣のペルラッハの塔に登れれば、それでOKのつもりでいたから、その時間は残されていた、、その市庁舎の黄金の間もペルラッハの塔もオープンは10時からであった、、それまで30分以上あったので、その間市庁舎前のマクシミリアン通りをフッガー家の屋敷フッガーハウスFuggerhausや今はドイツ・バロック美術館となっているシェッツラー宮殿Schaezlerpalais、聖ウルリヒ&アフラ教会St.Ulrich und Afraのある方向に歩いてみた、、で、いずれも通りに面していて最初は右手にフッガーハウスがあったがどこが入り口かわからず、次のシェッツラー宮殿はやはり入場は10時からとのことで、ま、開いてても入らなかったと思うがいずれも素通りとなった、、前日に行きそびれたDomの隣の司教区博物館もモーツァルトハウスも、後から知ったことだが、いずれも開館が10:00~17:00だった、、この街の主だったところの開場時間はだいたい10時~だったようで、ということは開いていても入らなかったであろうことを思えば、開いてなかったのだから仕方ないとむしろ割り切れるものがあった、、ということで、このときもその先の聖ウルリヒ・アフラ教会の辺りまでいっただけで引き返すことになった、、ただこの通りは歴史を感じさせる大きくて立派な建物が建ち並んでいて、道路の真ん中には彫刻のブロンズ像を擁した噴水が3ヶ所もあった(一ヶ所は市庁舎前広場)、、それらは1600年代につくられたとのことで市庁舎前広場の噴水から順に1,アウグストゥスの噴水、2,マーキュリーの噴水、3,ヘラクレスの噴水と名称がつけられていた、、そしてこの立派な大通りは、皇帝大路(たぶん1550年頃にハプスブルク家の皇帝一家がこの道を凱旋してから?)と呼ばれているらしいことも、あとでみた日本語のパンフレットで知ることになった、、

マクシミリアン通りとその突き当たりにあったSt.Ulrich und Afra教会506_640x427

前日撮った写真だが、市庁舎前広場にアウグストゥスの噴水が写っていた484_640x427

 

 10時少し過ぎに市庁舎に戻ってticketを買う、一人2.5€だった、、その部屋は4階にあった、、階段でそこまで登らなければならなかったが、その苦労は十分報われるものがそこにあった、、その素晴らしさは一見の価値ありで、写真でも大方見当はつくかと思う、、この市庁舎の建物自体が17世紀ドイツルネッサンスの最高傑作といわれる代物だし、黄金の間とその天井画を含む装飾等の豪華さは贅を尽くしたものといえた、、それは15~16世紀の豪商フッガー家とヴェルザー家(この家からハプスブルク大公妃がでている、この両家ともハプスブル家との繋がりが深い)の繁栄がそのままアウグスブルクを世界に羽ばたく街にしていた、、その栄華がこの街に、この建物この部屋に結晶していたということだったのかもしれない、、‥さて、それまで朝から口をきいてなかったツレに、まさか隣の塔へ登りたいなどとはいわないであろうから一人でいってくる、30分後にインフォメーションの前で待っているように、といって、わたしは先に市庁舎の階段を降った、、ペルラッハの塔は1.5€だった、、高さは倍くらいあって登り甲斐のあるきついこちらの建物(聖ペーター教会付属のペルラッハの塔)にはツーリストは少なかった、、塔の上からはアウグスブルクの街が隈なく見渡せ、ここもわたしにとっては十分価値ありだった、、

黄金の間;3枚とペルラッハの塔からの眺め;3枚507_640x427508_640x427514_640x427515_640x427516_640x427518_640x427

 インフォメーションで落ち合って前日に通ったショッピング街、聖アンナSt.Anna教会前のアンナ通りAnna Str.をぶらついて、途中で朝昼兼ねた軽い食事をし、そのあと市場によって、おいしそうなパン屋で例のブレッツェルとアップルパイの買いものをしてホテルに戻った、、そのホテルのチェックアウトタイムは12:00だったが11時半頃そこをでて、再び市庁舎前までいってバス停近くのベンチでバスを待つことにした、、が、我々がそこに着くのと同じ頃にバスはやってきた、、ロマンティック街道を行くヨーロッパバスRomantic Road Coachはフランクフルト8:00発→フュッセン20:20着、フュッセン8:00発→フランクフルト20:00着がそれぞれ一日一便づつあって、それぞれの場所で停車時間が異なっていた、、もちろん我々の乗るバスはフュッセン→フランクフルト方向のバスだったが、このバスはアウグスブルク11:35着で12:20発だったから、どうやらここがランチタイムの場所のようであった、、降りてきたバスのドライバーは、これから食事にいくからもうしばらく待っててくれと我々に告げて、どこかいってしまった、、乗客にとってはその時間に市庁舎の黄金の間を見て食事はきつかったかもしれないが、このバス停が市庁舎のticket売り場のまん前だったから、ま、できないこともなさそうだった、、そのバスはそれほど混んでないと聞いていたが、それにしてもその数が東洋人5人だけだったとは、思ってもみない少なさだった‥、、

飲食店、生鮮食料品店、パン屋、花屋、雑貨屋、みやげ物屋他なんでも揃う市場がAnna Str.アンナ通りの脇にあった、、522_640x427

 12:15ころ、我々はローテンブルグまでの二人分51,3€を支払ってバスに乗車した、、内訳は大人27€、シニアが一割引で24.3€だった、、我々が乗車してやっと乗客が7人になったが、その内訳は韓国の女性が2+1と中国人のカップルで2、そして我々日本人が2と、なんとも驚きの構成であった、、いや、その驚きというのは、あまりにも少なすぎる乗客と東洋人だけという偏りをいってるのだが‥??、、というのもその日は8月の22日だったからまだハイシーズンのはずだった、、そのあとのバス停からは欧米人のカップルも乗車してきたが、わりと早く下車してしまったし、韓国の女性たちも同じくディンケルスビュールで降りたようだったから、そこからは乗客は4人になり、我々が次のローテンブルグで降りたあとは中国人の若いカップル二人を残すだけとなった、、もしそこで新たな乗客が乗ってこなければ、そのバスはローテンブルクからはたった二人の客だけのためのバスになったはずだ、、これってどういうことなんだ?というのがそのバスに乗っている間わたしが考えていたことだった、、そんなことも含めてのアウスブルク~ローテンブルク間3時間半のバス旅報告になるかと思う、、

 今手元にフュッセンのインフォメーションセンターでもらった日本語のロマンティック街道案内と、バスに乗るときにドライバーからもらったディンケルスビュールDinkelsbühl、ロテンブルクRothenburgの、これも日本語の案内(パンフレット)がある、、ドライバーは国を聞かずに我々には日本語のものを渡してくれたから、このドライバーは見た目でちゃんと日本人・韓国人・中国人の区別ができたものと思われる、、とりもなおさず、いまやそれだけ東洋系が多いのは確かであろう、、しかしそれだけではヨーロッパ系が少ない説明にはならない、、何かありそうだった、、バスは12時半にアウグスブルクをでたが、それ以上乗客は増えなかった、、その日本語のロマンティク街道のパンフレットを頼りに、そこからのルートを追ってみると、そのバスはいったんアウグスブルク中央駅に寄ったが客はおらず素通りして、それから郊外にでて高速に乗る、、そのルートマップでは次の街は30分くらいでDonauwörthというところが記されていたが、そこはon request、つまりに降車希望がなければ通過になっていたので寄らなかった、、が、その近くでドライバーから、これから渡る川がドナウ川だという説明はあった、、それからしばらく行くと左手にお城が見えてきて、たぶんHarburgというところかと思われたが、そのときはテープによる説明が流れた、、その説明が最初にドイツ語、そして英語、最後が日本語だったこともちょっとした驚きだった、、よほど日本人がこのルートに貢献していることが、このことから窺われた、、で、そのお城へいってくれるのかと思ったが、お城の丘をくぐるトンネルを抜けてしばらく走って、ガソリンスタンド兼コンビニのある大きなパーキングに停車した、、そこでの乗降車も可能のようだったが、もちろんここでもプラスマイナスはゼロ、、ただそこはトイレ休憩も兼ねていたから10分くらいの停車だった、、その次がネルトリンゲンNördlingen?、、そこに着く前に流れたテープの説明ではネルトリンゲンのあるリース盆地は1500万年前に落下した隕石によってできたクレーターの跡であるという解説、地味が豊かで農産物がよく取れるところらしいという話、円形の城壁都市が中世のままの形で残されているといった説明をたいへん興味深く聞いたが、その中世の街を一望することができるというSt.Georgkirche聖ゲオルク教会の塔、通称ダニエルには、どうやっても15分の停車時間で登って降りてくるのはできそうもなかった、、そこに登りにいったやつがいて、1時間もバスは待たされたという話をドライバーが、その前かあとにしていたが、そんなバカを生むこのバスのスケジュールも、もう少し何とかならないものかと(こういった特徴のある街はせめて停車時間を30分にするとか)そのとき思ったものである、、その15分の停車時間に、わたしはトイレを探し、ダニエルの写真を下から一枚撮るのがやっとだったのである、、そういった意味では趣のあるいい街という印象があったが、停車時間が短かすぎるので、あるいはここを宿泊地にして、下車する人も多いかもしれないと思われた、、しかし城壁内見学だけなら1時間もあれば足りそうだったので、少し考え方を変えることによって(たとえばバスの運行を全線でなく細切れにして一日二便にするとか)もう少し乗客を増やすことはできるのではないかとも思った、、今のヨーロッパバスのスケジュールからすれば、ネルトリンゲンをゆっくり見学するにはここで下車してしまうか、あるいはこのバス以外の手段でくるしかなかったのである、、だからわたしはこの街は初めから諦めていたというか、バスのタイムテーブルからロマンティック街道はアウグスブルクディンケルスビュール、ローテンブルグに絞らざるを得なかったのであった、、このバスはロマンティック街道というつくられた観光ルートをすべて通るのだが、すべて通るということはすべてを見られるということを意味していなかった、、面白そうなところを一つ一つ見て廻るにはまったく不向きなバスで、それがわかればを他の手段を選ぶのではないか、というのが初めの問いのひとつの答えとなったが、それはここで得られたものだった、、こうして不足・不満を少々残したままバスは次に向かった、、そこからすぐのWallersteinというところは、その街中を通っていったと思われるがほとんど記憶になかった、、ただネルトリンゲンからはずっと一般道をいった覚えはあった、、そして14:30頃、ここも城壁に囲まれて中世の街並みを残すディンケルスビュールの車の通る四つの門のひとつヴォルニッツWörnitz Torの門をくぐった、、この街はネルトリンゲンの物足りなさを少しだけ満たしてくれた、、というのもここの停車時間は45分ほどあったことと、ネルトリンゲンでゆっくり見られなかった中世の街並みがここにも残っていたからであった、、バスは市庁舎の裏側に着いて、そこから街の中心にあるネルトリンゲンと同じ名称の聖ゲオルク教会までが5分くらい、で、そこまでの道がこの街のメインストリートと思われたが、そのSegringer Str.という通りが東西に走っていて、ちょうどこの街を南北に分けていた、、そのうちの半分、つまり北側だけは、少なくともその停車時間に歩き廻れたのであった、、恐らくネルトリンゲンの街もそうであったと思われるが、ここもドイツの中世の建物、木組みの大きな家が街中に残っていて、確かに街は中世そのものといった感じであった、、そのあとにいったローテンブルクと比べても街が大きすぎない分、わたしの好みにあっていた、、が、故にというか、ここは鉄道の手段もなかったようなので、それでこの街までバスで来てここに宿泊する人も多かったようだ、、そこまで一緒だった韓国の女の子たちがここで下車したことはすでに述べているが、ここから乗客は4人になってしまったのであった、、ま、ローテンブルクに次ぐロマンティック街道上で人気のある街というのは肯けたのであった、、そういえばこの街に入ったときに、たまたま逆行きのバスとすれ違った、、どういうわけかそちらは欧米人を含む多くの乗客が乗っていたのを目にしていた、、むしろそれが普通で、どういうわけかという‘?’は我々のバスのほうだったのかもしれないが、ともかくたった4人になってしまったバスは15:15に次のFeuchtwangenというところに向かった、、このフォイヒトヴァンゲンFeuchtwangenという街は、テープの説明によると、なんでも演劇の街?、よく覚えていないが回廊舞台というのがあって毎年夏にフォイヒトヴァンゲン回廊演劇という催しがあり、他にも年間通じていくつかのお祭りや催し物がある、また博物館もいくつかあるというような説明だったが、それはちょっと興味を惹かれるものがあった、、街の雰囲気はいたってのんびりした田舎街といった感じで、むしろこんなところに長期滞在してみても面白いかもしれないと思ったりしたが、乗降客はおらずこの街も素通りとなった、、次の街Schillingsfürstというところはまったく記憶になく、ただ、ここも素通りしたはずだった、、だからディンケルスビュールの次に停まるところがローテンブルグだったわけで、我々はローテンブルグの駅で降りるつもりでいたら、そこも素通りされそうになる、、我々はそのあと列車でフランクフルトに向かう予定だったから、まず駅のロッカーに荷を預けてと思っていたが、それをドライバーに伝えておらず、ドライバーは我々がこの街で宿泊すると思っていたらしかった、、慌てて停めてもらってそこで降ろしてもらった、、ネルトリンゲンでバカをやるやつはいなかったから、アウグスブルクの出発時に遅れた10分がそのままで、予定時間より10分の遅れでローテンブルク駅16時の到着だった、、

最初の停車地点から遠くに見えたHarburgの城527_640x427

St.Georgkirche聖ゲオルグ教会;2枚

最初がネルトリンゲンの教会とダニエルの塔(ネルトリンゲンはこれ一枚)、次がディンケルスビュールの教会528_427x640533_427x640

ディンケルスビュールの市庁舎前あたりからSegringer Torセグリンガー門を望む531_640x427

上と同じあたりから反対方向聖ゲオルグ教会方面(塔が見えているのが教会)を望む532_640x427

聖ゲオルグ教会付近(街の中心、いずれもディンケルスビュール)535_640x427

上記写真のあとバッテリー切れでツレのカメラを取り上げる(ほとんど上と同じ場所)Img_0235_480x640

ディンケルスビュールの入り口、最初にくぐったヴォルニツ門Wörnitz Tor(外から)
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奥に見えている塔がもうひとつの門Rothenburger Torローテンブルク門
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14世紀の穀物倉庫?現在ユースホステルとか?Img_0241_640x480

上の写真の建物を少しいったところにある塔Grüner Turm緑の塔
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 もっと大きな駅かと思っていたが、支線の行き止まり駅で駅員は切符販売の女性が一人?、このときはそれでもまだその一人の駅員(たぶん)がいたが、6時半頃戻ったときには、まだ列車の発着はあったにもかかわらず、すでに駅舎の扉は閉まっていて誰もいないという状態だった、、それでもロッカーはその外側、プラットホーム上にあったから、そこに荷を入れて、2時間半の余裕をみてローテンブルク旧市街・城壁内に向かった、、駅から近い入り口はレーダー門Rödertorだったが、そこまで10分、、しかしこのときも歩行困難者を伴っていたから、もう少しかかったかもしれない、、その入り口から中に入ると城壁内はすべて石畳だったから更に時間がかかることになった、、しかしこの街も城壁の門をくぐると街の様相が一変して、まさに中世に戻ったというか、時空を飛び越えた感じで、まるでお伽の国に舞い込んだかのよう ! ! 、十分に雰囲気のある街、ロマンティック街道で最も人気のある街はそれまでにない観光客で賑わっていた、、中心部のマルクト広場までいって、そこからはまた別行動とした、、このときも1時間、5時半に市庁舎前辺りにいてくれといってわたしは例によってオノボリサン、市庁舎の塔に登りにいった、、2時間半あればほとんどは廻れたと思うのだが、気ばかり焦ってて、もっていたバスでもらった日本語のパンフレット(地図)もちゃんと読んでなかったので、ここも重要なところをずいぶん見逃すことになった、、塔(鐘楼?)は狭い階段を一人ずつ登るか、または降るしかできず、たいへんな混みようだった、、その天辺も10人ほどでいっぱいとなり、ゆっくり展望を楽しんでいる暇はなかった、、しかも、たまたまその10人くらいの人たちの半分ほどが日本人の団体さんで、そのおしゃべりを聞かされながらの昇り降りであったから、たまったものではなかった、、急いで下に降りるとすでに30分は経っていて、それから駆け足で主だったところだけざっと見て回るのがやっと、それでも少し早めに市庁舎前のマルクト広場に戻った、、ツレは、多くは見てないが市庁舎の周りはだいたいみたらしく、あとはみやげ物屋めぐりをしていたようだった、、で、そのときにローテンブルク名物のお菓子を見つけたらしく、それはどうかと聞いてきた、、元々わたしはみやげ物には関心がなかったから、どうのこうのはなかった、、で、近くだというから一緒に行く、、シュネーバル(スノーボール、雪玉?)というその菓子は、とりあえず今食べる分として2つもらって試食したが悪くなかったので、どのくらいもつか聞くと、何日といったか?ともかく全然問題なさそうな答え、しかもいかに日本人が多いということか、その若い女性の店員さんは片言の日本語で答えてくれたのであった、、ま、このあと土産を買う適当な場所も時間もなさそうだったから、ツレはそれを大量に買い込んでいた、、彼女にとってはこのローテンブルクも、ざっと触れただけで、そして買い物ができたので、もう十分のようであった、、それに石畳歩きは辛そうであったから、わたしの希望でまだいってなかった南の方の、よく写真で見ていたプレーンラインPlönleinという辺りまでいって、そこから城壁に上ってその回廊をレーダー門まで歩いて駅に戻ることにした、、その道もゆっくり歩くとレーダー門まで30分くらい?、その近くにトルコ人のやっている軽食堂があったので、駅にいっても何もなかったような記憶があって、そこでハンバーガーをテイクアウトして 駅に戻ると、もう6時半ちかくになっていた、、先に記したように駅舎はもう閉まっていたのだが、何と駅の脇には先のトルコ人の軽食堂と似たような簡易食堂が実はあったのだった、、そのオーナーもトルコ人だったか?ともかくそこにはオープンテラスがあったから、ビールだけもらってそのテーブルをちゃっかり拝借し、ビールと先ほどのバーガーで仮の夕食とした、、バーガーはひとつだけだったが我々にとってはそれは二人分としても十分な量であった、、

ローテンブルク旧市街入り口Rödertor レーダー門Img_0243_640x480

入ってすぐRödergasseマルクト広場に通じる道とマルクス塔Marksturm;2枚Img_0260_640x480Img_0244_640x480

マルクト広場の左に市庁舎、その隣に歴史展示室と塔、全て中で繋がっているImg_0246_640x480

塔の上からの眺め;3枚、順にマルクと広場、次が北側聖ヤコブ教会、3枚目が南側、プレーンライン、ジュピター門方面
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西側、城塞公園Burggartenから旧市街の遠望
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よく写真で見ていたローテンブルクの象徴的な場所、プレーンラインPlönleinを縦と横で、、
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城壁の回廊Img_0257_640x480


 Rothenburg ob der Tauber駅とSteinach駅間のローカル列車は一時間に一回、その一駅間を往復していたようで、それを待つ客は思いのほか多かった、、やはりここでも東洋系の顔が目立っていたように思う、、19:06の列車は19:20にSteinchシュタイナッハ駅について乗り換えのWürzburgヴュルツブルク行きの列車を待っているときに、ツレは目元ぱっちりの東洋系の若くてかわいい女の子から声をかけられていた、、わたしが写真を撮りにその場を離れたときで、戻るとツレはわたしに振ってきた、、この(我々が待っている)列車はニュルンベルクへ行くか?と‥、、日本人離れした目鼻立ちの美少女(といった感じの子だったが、あとで聞くと二十歳そこそこ、大学を卒業したばかりといっていたか?、だから正確には美少女といったら失礼かもしれないが以下それで通す)は何と日本人だった、、焦ってしまった、、それに答えられなかったからではない、、先にローテンブルクの駅で待っていたときに、これほどの美少女だったから、その存在に気づいていないわけではなかったが、まさか日本人とは思っていなかったからであった、、しかし、ま、日本語で話せるのだから、どうしたのか?とあらためて聞いてみた、、このあとの話は、そこからWürzburgまでの汽車の中で聞いたことであるが、彼女の旅の経過はおおよそ次のようであった、、正確に覚えているわけではないが、何でも意図的に就職浪人したようで一年かけて世界一周?、今年の5月に日本をでて、アジア、インド、アフリカを経由して今ヨーロッパとのことだった、、もちろんバックパッカーであった、、わたしは世界各地で日本人の女の子一人旅、それも世界一周旅に何人も出会っているから、その旅自体は今や珍しくなかったし驚くには値しないことであった(ま、それでも立派、頼もしく感じていた)、、ただ、この美少女というのが、この先大丈夫か、と少し気になったのであった、、なのでそんな話もした、、わたしは中南米の例と今回のヨーロッパの件を話し、むしろヨーロッパのほうが危険かもしれないこと、また世界中どこでも危ない場所・時間はあって、その意味では安全なところなんてない、条件はどこでも同じでないかということ、いずれにしろ気をつけるに越したことはないのだけど、でも若いのだから果敢に挑戦もしてほしい、といったようなことを話したのではないかと記憶しているが、条件としては、彼女の場合は美少女という旅には余計なものがくっついている分が心配だったのだ、、ま、しかし、だからといってどうしろ、どうしたほうがいい、などといえるものでもなかった‥、、で、彼女はそのときニュルンベルクへ行こうとしていた、、もちろん世界一周組は、たいていの場合それぞれの地のガイドブックなんかもって歩いていない、、それでも今はその地その地の情報をスマホから取れると聞いてはいた、、ただそれにも限界があったからか、彼女はそのSteinchの駅で、そこに行く列車はどっちなのかがわからなかったようだった、、実はわたしもそのときとっさに判断できなかったのだけれどニュルンベルクへ行くにはWürzburgとは反対の方向の列車に乗らなければならなかったのだ(その列車はTreuchtlingen行きで、ニュルンベルクへはAnsbachというところで乗り換える必要があった)、、で、彼女が聞いてきたとき、ちょうどその列車が出たばかりだった、、これは聞いたわけでなく後からの想像だけれど、もしかしたら、我々が待っているときにその列車が来たのだけれど、そこで待っていたローテンブルクからの乗り換え客はほとんどそれに乗り込まなかった、、それで彼女はわからなくなって、その列車に乗らず、それがでたあとにわれわれに尋ねてきた可能性があった、、わたしはそのとき時刻表で詳しく調べてあげればよかったのだけれど、我々も何日か前にWürzburgからNürnbergにいっていたから、WürzburgからNürnbergへ行く列車はけっこうあるよと答え、我々と同じ列車で大丈夫だ、といってしまったのであった、、そして、そのあとにやってきたWürzburg行きの列車に一緒に乗り込み、同じところに席を占め、あれやこれやの旅談義になったのだけれど、そのときになってはじめて時刻表で調べてみると、その列車でWürzburgまで行って乗り換えてNürnbergまで行くと、到着時間はかなり遅くなることがわかった(正確にいうと、もしその夜どうしてもニュルンベルグに行かなければならなかったとするとSteinach駅で1時間待って次の列車でアンスバッハAnsbachまで行って乗り換えたほうが、Würzburgで乗り換えてNürnbergにいくより30分ほど早かった)、、そこでわたしは改めてその日の夜にどうしてもニュルンベルクに着かなければならないのか、つまり我々のようにスケジュールの決まっている旅なのか?自由度が高い旅なのか?と聞くと、別にニュルンベルクまで行かなくてはない理由はないとのことだった、、それを聞いて一安心して、今度は、それならば今夜はこの列車の到着駅ヴュルツブルクWürzburgに泊まりなさいと説得にかかったのであった、、彼女はそのヴュルツブルクの情報を何も持っていなかった、というかまるで知らなかったようだったので、その辺から説明していった、、まず世界遺産の街であってロマンティック街道の起点の街であること、我々もここに一泊したかったが今回その時間がなかったこと、もしかしてたらニュルンベルクより見ごたえがあるかもしれないこと、ヴュルツブルクの到着は20:18だが、ニュルンベルクまで行くと22時頃になってしまうこと、ここも大きな街だから駅の近くに宿はあるだろう、というようなことをあげて説得に努めた、、いくら旅慣れていたとはいえ、女の子の一人旅で22時からの宿探しは遅すぎると思われたからだった、、Steinach~Würzburg 間の45分はあっという間だった、、幸いまだ明るさが残っていた、、そこで我々はフランクフルト行きに乗り換えなければならなかったので(それがなければ宿探しくらい手伝えたのだが)、そこで別れなければならなかったが、その日が無事であったこと、そしてその後の旅が無事であることを今でも祈っている‥、、

 ICEの特急はWürzburg~Frankfurt間を1時間10分で結んでいた、、停車駅もその間はHanau一ヶ所だけ、その列車ICE22は座席のポケットに入っていた時刻表によるとウィーン14:52発のドルトムント行きで、ドルトムント着は1:21の国際列車だった、、我々はこうして最初と最後はICEに乗車できたのだけれど、(冒頭で書いたこととダブルが)それも早割りticketだったので二人で29€、、これはなんとも素晴らしいDBのシステムに思えた、、こういった割引ticketが当たり前になっているドイツ人、あるいは欧米人にとって、またバスはもっと安いものと思っている彼らにとって、果たしてRomantic Road Coachの料金はいかがなものだったろうか?というのが、そのバスに乗るときに抱いた問いのもうひとつの答えだった、、そのわりに使いかってが悪いのではないか?‥と(その点も中ほどで書いているが)、、ともあれ最後の宿はフランクフルトの駅前だったが、簡単にはそこにたどりつけなかった、、それがいつものことだったのか、たまたまその夜だけのことだったのか?駅前の大通りを渡ると、そこからまっすぐ延びる道が歩行者天国になっているのはいつものことだったが、その辺りからほとんど酔っ払っている若者で溢れかえっていて、横の道もすべて若い群衆で埋め尽くされ、あちこちで生ライブが催されていた、、さながら路上無料コンサート集会といった按配で、まともに歩くこともできない有様だった、、そして今回予約を入れてあったホテルは、そこもホステルだったが、ロックバンドの喧騒と群集と化している観客がたむろしているど真ん中にあったのだった、、ようやくたどり着いたそこは、若者や旅行者のたまり場みたいなところで、1Fの受付はバーのカウンターをかねていた、というよりバーのカウンターが受付だったのである、、それでも遅くなったが予約は通っていて与えられた部屋はまともなものだった、、いや、むしろトイレ・バスは共同のはずだったが、トイレ・バスつきの部屋になっていた、、ただ、そこは2階だったので外からの騒音は防ぎようがなかったのだけれど‥、、寝る前に一度下の受付のバーに降りてビールを頼むと、なぜか最初の1本はフリーとのことで、都合2本を無料で提供してくれた、、そんなんで、いろいろ問題はあったがすべてを許してしまった、、その狂騒は深夜まで続いたが、0時を過ぎるとおさまっていった、、我々の旅もそこで終わったのだった、、