独歩の独り世界・旅世界

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ブダペスト Budapest/Hungary 2014,8,15~8,16

 座席が進行方向逆向きだったため、車窓の趣が少し違ったことで悔やんだのではなかった、、もし進行方向向きのシートであったら、たぶんその事件(事故?)は起こらなかったのではないかと思われた、ということだった、、何があったかというと、その車中でわたしのバックが盗難(置き引き?)にあったのである、、それを事故・事件といっていいのかわからないが、ともかくその列車でわたしはとんだ災難に出くわしたということだった、、ことの発覚はこうだった、、ドイツでもオーストリアでも特急車両には、車両の出口付近と真ん中辺に荷物置き場があった、、誰もが大き目のトランク・ザック類はそこに置き、窓の上に棚もあったが、そこには小さめのものを置いていた、、我々の座席は真ん中の荷物置き場の真後ろだったが、その向きがちょうど荷物置き場を背にする格好だった、、そう、荷物置き場は死角になっていた、、もちろんわたしの大き目のバッグ(それでもそこに置いてあった他のザック・トランクからすれば半分ほどの大きさ)とツレのトランク(小さめのガラガラ?)はその荷物置き場に置いていた、、そして出発して間もなく、列車の快適な振動のためか、前日の夜行バスでの寝不足のためか、一日中ウィーンを歩き回った疲れのためか、二人ともこっくりをはじめてしまった、、ま、それでも30分くらいの転寝ではなかったか?目覚めて先ほど買った水をとバッグの脇に入れてあったそれを取りに立ったら、わたしのバッグだけが見当たらなかったのである、、ま、ツレにはすぐに報告したが日本語だから回りは何も気づかなかったと思う、、わたしはそのあたりを隈なくチェックしただけでなく、そのあと列車の一番前の車両から一番後ろまで一通り確認してから車掌を探した、、明らかに誰かに持っていかれたようだったからだ、、恐らくもっていったやつは、ま、常習者?プロ?つまりその車両はすべてが座席指定だったわけでないから誰でも乗り込め、どこかで狙っていたとすれば(つまり最初から見ていれば)、その荷物置き場に背を向けて眠ってしまった我々はいいカモになった、ということのようだった、、それにわたしのバッグは、そこに置いてあったトランク・バッグの中では一番小さく軽そうだったからではないかと、あとで推測した、、不幸中の幸いだったのは、わたしのツレのトランクとわたしの手元にあったパスポート、E-ticket類、キャッシュカード・クレジットカード、現金等の貴重品が入った別の小さめのバッグは無事だったことであった、、しかしともかくショックを受け車掌を探したが、なかなか見つけられなかった、、再び列車の最後尾に行ったとき、ようやく乗車券検札を始めたハンガリー側の車掌を見つけることができた、、つまり列車は少し前にハンガリー領に入ったようで、オーストリア側の車掌はわたしが最初に一巡したときはすでにどこかオーストリア領内で降りてしまっていたようだった、、同時に盗っ人氏も恐らくオーストリア領内で降りてしまっていることが予測された、、たぶんだから最早もこの列車内に犯人がいるとは考えられなかったが、ともかくそのハンガリー人車掌に事情を聞いてもらうべく声のかけたのだが、わたしの英語は通じないようだった、、それでもわたしはしつこく英語で、バッグを盗られた、盗難にあった、といい続けたが、きょとんとしている、、乗客が少し間に入ってくれたが、それでも通ぜず、何がほしい?何を要求しているのだ?と逆に聞かれたので、ポリス!ポリス!といったらようやくわかってもらえたようだった、、それでもおざなりの会話で、検札をもう一人に任せて、その一人とわたしは食堂車まで行ってそこのスペースで渡された書類に住所・氏名、状況等を書かされ、その書類にサインしてくれ、これをもってブタペストKeleti駅で降りたら、そこのポリスステーションに行くようにといわれただけだった、、それからKeleti駅に着くまで1時間半くらいは、ほとんど茫然自失状態で、外の風景がどうだったかなどということはまったく覚えがなく、荷物はどのようにおいてあったのかとか、誰がどうやって持っていったのだろうかといった話をツレと交わしながら、いったいそのバッグに何が入っていて盗られたものが何で、その後の影響はどうか?といったことで頭がいっぱいであった、、ブダペストにはほとんど時間どおり19時ころ着いたようだった、、

Budapest Keleti(東)駅;これは翌日に写したもの225_640x427_2

 Budapest Keleti(東)駅も以前利用したことがあったので、だいたいわかっていたがポリスステーションがどこにあるかまではしらなかった、、で、インフォメーションで聞いてみると、それでも構内にあってその場所を教えてくれた、、ツレをそのインフォメーションの辺りで待ってるようにいって、いってみると若い警察官が何人かいた、、が、やはり英語はあまり通じなかった、、で、列車で車掌に書いてもらった書類をみせて、少し英語のわかる担当者に事情を説明した、、が、その若い男はそんなことより日本人が珍しいのか、日本の車やスポーツ、特にホンダ・カガワといったサッカー選手に話題をもっていって同僚たちとわいわい言って、まるで親身になってくれてなかった、、そして形式的に白紙の紙を持ってきて、それにまた住所・氏名、国籍、生年月日、パスポート番号、盗難状況と被害品目を自分で書くようにいってきた、、こんなんで大丈夫かと訝かりながらも一通り書き終えるとそれをコピーし、その一枚にハンガリー警察のスタンプを押して、その担当者がサインして、これが証明書だといって、それをわたしに渡してくれた、、オイ、オイ、オイ、これで終わりかよ?と思ったが、それ以上わたしに為すすべはなかったのである、、諦めるしかなかったのだ、、ま、せめて貴重品は無事だったので旅は続けられそうだった、、で、気を取り直してまずハンガリーフォリント(Hungary Forint、以下hufと表記)をATMで10,000huf(10,000hufは4745円だった、、ということは100huf約48円?)ほど引き出してから、記憶をたどって地下鉄の乗り場を探した、、ところが驚いたことにBudapest Keletiの地下はすっかり新しくなっていて、どうやら地下鉄も新しい路線ができているようだった、、そしてツーリストインフォメーションだったか交通局のインフォメーションだったか、それも新しく立派なものが地下にあって、そこで情報をもらう、、そのときHotel SisiのあるCorvin Negyed駅へは新しくできた路線でいったほうが早いことを教えてもらい、ついでに地図をもらって、そこでブダペストの一日券(1650huf:800円くらい?)を買うことができたのだった、、

 確かに、その新しくできたKeleti始発の地下鉄line 4で二つ目のKárvin térで乗り換えると一つ目がCorvin Nagyedだったので、Keleti駅で3~40分モタモタしてしまったが、8時過ぎにはHotel Sisiを見つけることができCheck inすることができた、、もちろんバウチャーはもっていなかったが予約は通っており、思っていたよりいいホテル、思っていたよりいい部屋だったので、この選択に満足していた、、早速荷を置いて、といってもわたしの荷は半分になっていたが、フロントでどこかいいレストランがないか聞いてみると、この通りの角にレストランがあるといって、ビールいっぱい無料券がついたその店のカードをくれた、、そのあたりは何軒かのレストランがかたまっていて地元客で賑わっていたが、実は紹介された店には客がほとんどいなかった、、で、しばらく夜の街をぶらついてから、さてどこにしようか迷ったが、せっかくの紹介だし無料のビール付(ま、それがおとりのエサとわかったが)ということでその店に入る、、そこで地元料理というのを何が出てくるかわからないまま頼んだが、それはやはりあまりいただけなかった、、もう一品頼んだグヤーシュはやはり安くてうまかったが‥、、ともかくその日は疲れきっていた、、ホテルに戻るとすぐにシャワーを浴びて寝付いたのだが、そのとき着替えの下着がなかったのであった‥、、

Hotel Sisi;これも翌日撮影したもの222_427x640_2

その日の夕食;右がグヤーシュのスープ、左はよくわからなかった郷土料理?188_640x427_2



 失ったものは以下だった、、バッグに入っていたほとんどは洗濯物を含む衣類で、あとは小物、、しかし最も高額の損失品は小物のほうのケータイ電話であった、、わたしは普段からケータイはあまり使わないので(かける人・かかってくる人がいない)、むしろ時計・辞書・電卓といった機能が海外では重宝していた、、もちろん海外での通話はできないようになっていたから、盗っ人氏はそれをどうしたのか?たぶんそれはなんら価値の生まないものだったに違いない‥??、、それでもわたしにとっては、新たに購入すると数万円もするので、そういえば今日はちょうどその日から1ヶ月がたったことになるが、未だに新しいものを購入していない‥、、次に高価だったものはバックそれ自体である、、これはわたしにしては珍しくブランド品(?少し知られたメーカーのもの)だったのと、非常に使いやすかったので愛着があった、、これももし保険がおりたら新たに調達しようと思っている、、価格はつかないが(保険の対象にならないというか、それは計算不能)痛恨だったのは、使い古した旅ノート、、それには過去の旅の記録やその時々のデータがたくさん詰まっていた、、これは金額に換算できないが、むしろ最もわたしにとって価値あるもので痛かった、、そこには今回のウィーンの資料も挟まっていたし(シシー博物館の入場券も)、またドイツのガイドブックもそのバッグに入っていたのだった、、あとは今まで一度しか使ってなかったが雨具(しかしこれも後にその影響がでる)と衣類で、ズボン・シャツ・下着類のほとんどがそのバッグに入っていたので、その後数日間は着たきりすずめ状態となった、、しかしそれでも幸運だったのは、実はその直前まで主にカメラやパソコン、パスポート・現金を含む貴重品をそのバッグに入れて持ち歩いていたことだった、、それが偶々ウィーン西駅でロッカーから荷を出したときにそれらを、もうひとつの手持ちバッグに入っていた、そのほとんどが洗濯物だった衣類と入れ替えたばかりだったのである、、ここで少し自慢げに余計なことを記させてもらえれば、わたしの荷はすこぶる軽装だった、、夏場のヨーロッパ、しかもたった2週間である、、どうやったって荷は多くならない、、で、バッグは40Lでいわゆるデイバッグに毛の生えたようなものでカメラ・パソコンなどの重いものを入れてもせいぜい5kg?だからもちろん機内持ち込み手荷物だった、、もうひとつの手もちバッグは、少々大きめのもので、通常はそちらに衣類やその他の旅行グッズ(充電器等の小間物・洗面具・薬他)を入れていた、、それもせいぜい2~3kgくらいで、もちろん機内持ち込みできた、、その嵩だけでいえばどちらもそれほど容量は変らなかったので、その場その場で荷の入れ替えは可能だった、、だからホテルで荷物整理したとき、あるいはロッカーに預けるとき、出したときなどにはしょっちゅう入れ替え作業をやっていて、このときは何故か(理由はよく覚えていない)デイバッグの方にほとんどの衣類を入れ替えていた、、二つのバッグの嵩と重さは以上のようだったが、価値については雲泥の差だった、、盗られたほうのバッグは、そのバッグ代も含めて今回保険適用の申請をしたときの見積もり総額はおおよそ5~6万円だった(これは規則に従って盗難品の購入時の価格をまず申請するということで、もし審査に通ればそこから償却された分が引かれ、保険金はおりる、、保険についてはいずれ‥)、、一方無事だったほうのバッグの総額はざっと見積もって、その10倍以上(パソコン・カメラ・現金等だけではそれほどいかないが、キャッシュカード・クレジットカードを使われることを想定したら、100万越え?)、、ま、まだ旅の女神には見捨てられてなかったようだった ! !、、

 しかし現実的には、それからの数日間、下着屋を探さなくてはならなくなたりで - これがまたなかなか見つけられなくて苦労する - けっこう困ったことになっていた、、次の日の朝は6時には起きていて、7時からの、ま、大筋は変らないがなかなか豪華な朝食をこれまでで一番素敵なダイニングルームで美味しくいただき、8時にはチェックアウトした、、ここでも午後に取りに戻るということで、ツレのバッグ(小ぶりのガラガラ?)とパソコンなどが入ったわたしの手持ちバッグを預かってもらった、、わたしは更に小さな肩掛けのバッグ(これはほとんど荷は入らない、折りたたむと手の平にのってしまうようなショルダー)に貴重品とカメラをいれただけという格好で、まず向かった先はバスターミナルだった、、このバスターミナルも前回の4年前に何度も乗り降りしたところだったのでよく覚えていて、そこは地下鉄のline 3 Corvin Negyed から三つ目の駅Népligetにあった、、だから8時半にはそこについて、ここは以前とまったく変っていなかったから、そのままEurolineの窓口に直行した、、もちろんそれはその日のウィーン行きのバスのticketを取得するためだった、、何故これほどまでにバスにこだわったかというと、前日のウィーン~ブダペスト間のバスに乗れなかったからでもあるが、何といっても - 前に何回もいってることだが - バスのほうが全然安かったからである、、実はこれも前回いってることだが、この区間もバス代・汽車賃ともA;ブタペスト→ウィーンはB;ウイーン→ブダペストより安かったのだ(購入する国によって同区間でも価格が違うということ)、、更にどちらも汽車はバスよりAは2.4倍、Bの場合は2倍だったのである、、具体的にいうとユーロ払いやフォリントで支払っているから、すべて日本円換算(1€:140円で)にして一人分の運賃を表すと以下になる、、汽車のA;4500円、B;5800円、バスの場合A;1900円、B;3000円だった、、だからまったく同じ区間なのだが(時間はどちらも3時間で変わらない)、これをみるとブタペスト→ウイーンのバスは、ウィーン→ブダペストの汽車の1/3になるということがわかる、、以上がそのときわたしがバスにこだわった理由であったし、また前日のBのバスが一日、いやほとんど丸二日満席だった理由でもあったのだ、、なので、われわれはその一番高い方法でここブタペストに来ざるを得なくなった(そして災難にもあった)のだが、それはそもそもクラコウで、あまりにも差がありすぎて汽車からバスにしたことが結局チャラになったことでもあった、、ということは、それなら初めからクラコウ→ブタベストを汽車にすればよかったことになって、その時の判断・選択が誤りだったことを認めることになる‥??、、ま、そういうのをこだわりというのであろうが、自己満足的な納得を求める旅には、そんなことがよくあるのだ、、だから一緒に旅する人は、どうでもいいじゃないそんなこと、、いい加減にしろ‥!、といいたくもなるのであろう‥??、、

テラスのあるダイニングと朝食、このときは涼しかったので室内で朝食をとるImg_0144_640x480Img_0143_640x480


 ところがここでは女神は微笑んでくれなかった、、そんなこともあろうかとそこへ急いだわけだったが、そのとき窓口の若い男性が(4年前は若い女性でここでも揉めたことがあった)こちらの希望時間を聞いてすぐに端末をたたいてくれていった言葉は、なんと非情に聞こえたことか!?、一席空いてます‥、というのであった、、‥??、、で、いくつか質問した、、1,キャンセルのでる可能性は?、2,他にバス会社はないのか?、、1,については難しいであろうとのこと、、2,については意外な情報を聞くことができた、、そこのバスターミナルは主に国内向け路線の発着所であったからバス会社も何社か入っていたが、その中でウィーンまでいく路線をもっているバス会社はないとのこと、、しかしそのターミナルに沿っている大通りの向こうにスタジアム(陸上競技場)があって、そこからウィーン他に行くバスがあるらしいことを(詳しくはしらないがと断って)教えてくれたのだった、、藁をもつかみたい心境でそこまで行ってみることにした、、ツレはずっとターミナルのベンチに待たせていたが、もう30分待っててくれといって、一人で地下鉄入り口に繋がる通路から向こう側に出た、、しばらく探してみると陸上競技場の入場券売り場があって、そのときはもちろん閉まっていたが、その同じ建物の隣あたりに別のオフィスらしいものがあった、、いってみるとハンガリー語のほかに英語の表記もあって確かにバス会社のようだった、、が、そこに営業時間が書いてあって確か10:00~?つまりそのオフィスも閉まっていて誰もいなかったのである、、そのときはまだ9時頃で、またまた迷うことになった、、情報はまったくなかったので、その会社がウィーンへ行くバスを運行しているのか?運行していたとしてその時間は?また空席があるかないか?といったことが、まったくわからない状態で1時間待つかどうかだった、、しかし、このとき決断は早かった、、その1時間が惜しかったからである、、いったんバスターミナルに戻って、まだ30分もたっていなかったが、キャンセルがなかったかもう一度確かめて、なければ鉄道にするしかないと諦めることにしたのであった、、

スタジアムのticket売り場の隣にそのバス会社はあったが、いずれも閉まっていたが、、191_640x427_2

 空席一はそれ以上減りも増えもしてなかった、、なのですぐに地下鉄に乗って今度はKeleti(東駅)に戻ったのである、、そこは相変わらずどの窓口も混雑していたが、このときもインターナショナルticketは意外に早く順番が廻ってきて、その日の17:10発のRJ42の座席指定はいとも簡単に取れたのであった、、その金額は前述のごとくであったが、それでもウィーン→ブタペストの3/4だったのだから少しは喜んでいた、、そしてそのとき時刻は10時に近かったが、そこからブタペスト観光が始まったのであった、、前日のウィーンと同じようなパターンとなり、その時間は6時間?しかしここでも乗り物一日券が効を奏することになった(たぶんウィーン、プラハ、プタへストの中では最も有効利用できたかもしれなかった、、そのときまですでに3回使っていたから都合10回くらいは使った??)、、

 まず、今度は地下鉄line 2一本でKossuth ter<国会議事堂前>駅までいった、、この駅は地下から地上に出ると、目の前に突然あの素晴らしい建造物がバァーンと現れるので、ツレも珍しく感激していた、、そしてそこからのドナウ越しのマーチャーシュ教会と王宮のあるはブタ側の眺めも、この街の一二の場所といってもよかった、、そういう意味ではブタペスト観光の第一歩としては、この場は正解だったかと思われたが、時間と懐具合の都合で、見ごたえ十分といわれている国会記事堂内のツアーはパスせざるを得なかった、、そしてそこからはトラムに乗って、ドナウにかかるこれも有名な橋、くさり橋まで、、ペスト側にはまだ見るべきところもあったが、ちょうどその辺りから王宮の丘に行くバスがあったので、早くもくさり橋を渡って対岸の王宮の丘まで行く、、ディース広場でバスを降りると前回も感じたことだったが、ここもプラハに負けず劣らずの観光客の多さで、その人気振りが窺えた、、ここからはドナウ・へスト側を背にすると左が王宮で、右はマーチャーズ教会と漁夫の砦方面だったが、前回王宮にそれほど感動はしなかったので、右のほうに歩きだす、、マーチャーズ教会と漁夫の砦の辺りは人で溢れていた、、で、気づいたのはそのうちの半分くらいが、どうやらticketを買う列だったのである、、‥ticket??、、以前来たときにはticket売り場などなかったから近くにいってみるとそこはマーチャーズ教会と漁夫の砦の入場券売り場であった、、いつからこんなものが?教会はともかく、漁夫の砦からのペスト側の眺めは、もしかしたらブラハ城からプラハ旧市街の眺めより勝っていたから、そこは連れて行こうと思っていた、、しかし、そのためには入場券が必要のようであった、、で、仕方なく列に並んだが、その前に持ち金のhufでは足りそうもなかったので、その隣の両替所でhufの補充もしなければならなかった、、そのticketはマーチャーズ教会と漁夫の砦、あるいはそれぞれ個別に購入できたが、もちろん一緒のほうが割引になっていたので、せっかくだからと思ってそれを購入するつもりでいた、、ところが偶々そのとき、しばらく教会は閉鎖になるということで砦のほうしか買えなかった、、それは大人700hufシニア350hufで、二人で500円くらいだったので、それほど高くはなかったが、両方のticketを購入するつもりで両替したため、最後にhufハンガリーフォリントが残ってしまい、それの処理で悩むことになる、、ま、予期せぬことは往々にして起こる、、ということで見学は漁夫の砦、というかそこからの眺め、つまり展望代であった、、ま、それでもそこは抑えなければならないところだったと思う、、そこからの写真を収めたので、今回是非行ってみようと思っていた(前回行ってない)ブタ側のもうひとつの展望台ゲッレールトの丘のツィタデラは今回も見送ることにした、、そこへの足とそのための時間が確保できそうもなかったからであった、、ま、それはしかし、正解だったようだ、、というのも、その日の観光客の多さも半端ではなかったが、そのためかどうか?ペスト側に戻るバスは軒並み渋滞にはまって動けなくなっていたのだ(我々はそんなバスのひとつに乗り合わせていた)、、ドナウを渡るのに王宮の丘から1時間以上の時間がかかっていたが、その原因のひとつはツアーバス、観光バスの多さで、特に乗り降り自由の観光バスは、そのために渋滞の一因を作っていたからだ、、で、我々のバスはその観光バスの後ろだったので、くさり橋のブタ側の袂まで来たときにそこで降り、持ってた地図を見ながら大回りして別の道でペスト側に戻った、、それはそのルートも見たかったからでもあったが、そのくさり橋のブタ側の袂クラーク・アダム広場というところから、まず86番のバスでマルギット橋の袂までいって、そこで今度はトラム6番で西駅まで、そこで72のトロリーで聖イシュトバーン大聖堂の近くまでいって、そこから少し歩いて聖イシュトバーン教会を見ながら、ペスト側のいわゆる中心エルジェベト広場(Erzsébet térはいうまでもなくエリザベート;シィシィのことである)まで出る、というものだった、、そのルートは渋滞もなく、わたしも初めて通る道で乗り継ぎも問題なかったが、トロリーを降りてからの歩く距離がツレには長すぎたようで(普通に歩いて10分)、それがまたツレを不機嫌にさせてしまったようだった、、

国会議事堂;2枚192_640x427_2198_640x427_2

同じ敷地からドナウ対岸のブタ側を見る;2枚
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くさり橋のライオン像と王宮の丘を背景にしたくさり橋
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マーチャーシュ教会(2枚)と三位一体像、このマーチャーシュ教会はフランツ・ヨーゼフの戴冠式が行われたところであり、エリザベートとの挙式もここではなかったか??203_427x640_2208_640x427_2

漁夫の砦からペスト側の展望;2枚
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Nygati pu.ブタペスト西駅
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ペスト側の中心エルジェベト広場付近、ここから中央市場へトラム47(または49)でいく217_640x427_2


 足の痛みでもう、市内見物もどうでもいいという、いつものオーラを発していたので、わたしもそれを感じとって、もう最後にしてホテル近くにあった中央市場に寄って、そこで食事をしてホテルに戻ることにした、、しかしどうも忍耐はそこまで続かなかったようだった、、市場までのトラムは何とか持ったが、市場のカフェテリア式のレストランで、並んでいる料理のどれにするかで意見がわかれ、またまた‘わたしはいらない、食べない’とキレてしまったのだ、、ま、いつものことでそういう時はもう放りだすしかなく、わたしはその場から追いだした、、それから1時間くらい、どこでどうしていたかは知らない、、わたしは一人でビールを飲みながらの食事を終えて、市場の一階は生鮮食品を含めた食料関係で、二階がレストランやお土産の店が多くいことを以前に来たときに知っていたから飛ばして、地下に行ってみた、、そこはいわゆるスーパーマーケットがあったからであった、、そこでわたしは下着類を調達するためであった、、が、そこはやはりハンガリーのスーパーであった、、扱い品目はほとんど食料とお酒を含めた飲料で、雑貨や服飾品はほとんどなかったのである、、それでもそれらしいものもわずかにあったが、その価格とセンスは、いくらhufがあまっていたといえ、手をだしたくなるようなものではなかったのだ、、結局それは諦めたが、そうすると国外に出たらほとんど価値がなくなってしまうhufがあまることになった、、そこでなにか目ぼしいものはないかと探してみる、、が、これはというものは見つけられなかった、、結局ちょっと高いワインを途中で飲めなければ日本まで持って帰ろうと思って一本仕入れた、、ご存知の方も多いと思うが、ハンガリーはトカイワインで知られたワイン王国である、、もちろんそんな高級ワインはわたしの手には届かないし、そこで買ったのもたかが知れている安ワインだった、、しかし結局そのワインが、わたしの今回の旅の唯一の土産となったのであった(それは未だ封を開けずに手元にある)‥、、

市場(左側の建物)と市場近くの自由橋から撮ったドナウ川とブタペストの街221_640x427_2220_640x427_2

 さて、それでも若干小銭が残ったが、そこでブタペストは終了することにした、、時間はまだ3時頃だったが、いったんへそを曲げてしまったバカ者を相手に観光も何もあったもんではない、、思ったとおり市場の入り口辺りにいたので、お互い無言のまま、わたしのあとをついてこざるを得ないのはわかっていたから、わたしはトラム乗り場に向けて先に歩き出した、、そのときから次の日までほとんど会話を交わすことはなかった、、それでも我々は市場近くの自由橋(Szabadság hid)から2番のトラムで次の橋Petöfi hid(ペトゥーフィ橋?)までいって、そこからホテルまで歩いた、、そして荷物を取ってまた地下鉄でKeleti(東駅)に向かったのだった、、ホテル近くの地下鉄駅はCorvin Negyedといったが、わたしがホテルシィシィを決めたのはその名前からだけではなかった、、そのCorvin Negyed駅から1分のところに工芸美術館(Iparmüveszéti Múzeum)というのがあって、その近くのホテルを探していたからでもあった、、で、結局アールヌーボーの建築家レヒネル・エデンの作品他を見に行く時間はなくなっていたが、それでも地下鉄に乗る前に、その入り口までいって建物の外観だけでも写真に収められたのは、せめてもHotel Sisiにしたおかげだったように思う、、我々は4時前にKeletiに着いていたから、ま、30分くらいなら入館できたかもしれなかったが、それも狂人と一緒でなかったならば、の話だった、、入線を待つ一時間くらいあいだ残ったhufをなにかに使えないかとキオスクやパン屋を覗いたが、結局レートは悪かったが3ドルのキャッシュに替えてしまった、、4時40分に入線したレイルジェットRJ42は定刻17:10にブタペストを離れ20:15にウィーン西駅に着いた、、わたしは前日に下見をしていたので迷わずにホテルに直行し、ツレは無言のままついてきて8時半にはチェックインを終えた、、相変わらず何もいらない、夕食は食べないといっているので、そのままホテルに残して、買い物にいってくるといってわたしはひとりでホテルをで、今来たばかりの西駅に戻ったのであった、、そこにもポリスステーションがあるはずだ、と思ったからであった、、

Corvin Negyed駅の出口(写真を撮っているところ)から1分の工芸美術館とその入り口190_640x427_2223_640x427_2

 ウィーン西駅のかなり上の階の隅にそれはあって、時間も時間だったからわたしの訪問に、応対にでた美人婦警さんは、はじめ怪訝そうにわたしを見ていたが、それでもわたしの英語が通じて、わたしをオフィス内に入れてくれた、、そこで事情を話すと、しっかりとした調書をとってくれ、オーストリア警察の所定の用紙にドイツ語だがと断って、すべてを彼女が書き込んでくれた、、それは2枚になったがコピーをとって彼女のサインを入れたものを証明書としてわたしに渡してくれた、、ハンガリー警察のものよりどれほどしっかりしたものだったか!?、結局それを保険請求の証明書として提出し、そのおかげで保険はおりたのであった(それは数日前に連絡があったのだが、その件はいずれ‥)、、その帰りに、その道沿いには安そうなレストランやアジアンフードの店が何軒もあったので、一軒でワインの小さいのを、もう一軒でフライドポテトだけをテイクアウトし、その日のわたしの夕食とした、、

 そんなんで、ブタペスト往復はいろいろあり過ぎたのだった、、あとから思えばあーすれば、こーすれば、といった思いや反省がないわけではなかったが、それでもわたしにとってブタベスト(ハンガリー)は - そういえば前のときもそうだったが - 印象は悪くないのである、、理由はいろいろ考えられる、、よくいわれるように中欧にあっては民族が異質であるから(マジャールは東洋の血が濃い)、そのために文化も人々の気質も一味違うといった見方が一般的なのであろう、、もちろんそれも否定はしないが、しかしすでに千年以上もこの地に住みついているのである、、やはり歴史にもまれて独特の民族文化が培われ花開いた結果である、といった見方のほうが理解しやすいのではないか?、、とするならば同じように歴史に運命を弄ばれたシィシィがこの地を愛したのも - その要因もいろいろあったのだけれど - わからないではない気がするのである‥、、