独歩の独り世界・旅世界

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インドの旅 13)アルチAlchi 、リキル Likir

  次の朝もほとんど同じ時間にバススタンドについていた、、が、ほんとにここのバスはよくわからなかった、そのとき停まっていたバスの乗客はピャン Phyang行きだと教えてくれた、、そのとき初めてピャンへもバスで行けることを知ったのだがもう遅かった、、これからアルチへ行って明日戻るのではもうビャンへ行く時間はなかったのである、、そしてピャン行きのバスは7時半ころ出て行った、、

 わたしはまだ乗客がまばらなアルチ行きのバスに乗り込んで先頭の座席を確保し座っていた、、するとその朝は同じようなツーリストが何人もそれぞれの目的のバスを探してウロウロしていた、、声をかけてみるとその中の一人は日本人でリキルへ行きたいといっていた、、が、少し話したがどうも自分がどうしたいのか、どこへ行きたいのかはっきりせず、迷っているようでもあった、、で、このバスはアルチへ行きで途中リキルの近くは通るということを説明したが、アルチがどこでリキルへはどう行けばよいのかもわかっていないようだった、、別のヨーロッパ系の女性はティクセ方面に行くといっていた、、ピャン行きののバスを探している女性もいたが、もうでてしまったことを伝えた、、8時ころにはそのバスはもう立錐の余地がないほど込み合ってきて、何でもっと早くに決断しなかったのか不思議だったのだけれど、出発間際にもうこれ以上は無理という状態になったバスにその日本人女性も乗り込んできた、そしてそんな状態で2時間、よく耐えよく我慢した彼女はリキルへの分岐で降りていった、、

 レーをでたバスは昨日スピトクに行くとき通った道を行き、その道はスピトクへの分岐を過ぎたあとも30分くらい両側に軍関係の施設を擁していた、、つまりずっと**部隊、**部隊と書かれた駐屯地が続いていたのでる、、その後は無人の荒野を行くかたちとなった、、両側は樹木の生えてない丘陵で、荒地の間を一本の道路が続いている、、行き交う車は少ないが、軍のトラックが隊列をなして追い越していく、、それでも全て舗装されているので座席を確保していたわたしはけっこうそういった景色を楽しんでいたが、ギュウギュウ詰めの車内で立ちっぱなしの彼女にはつらい道だったに違いない、、<9:20>ニィエモNyemo村を過ぎ、バスゴBasgo村<9:30>には少し長く停まって、それこそお店一軒ない荒野のど真ん中、リキルへの分岐に到着したときはもう10時を回っていた<10:05>、、しかしそこではけっこうな人が降りた、、その中には何人かの欧米人ツーリストも混じっていたので、わたしはちょっと安心して彼女を見送った、、そこから少なくとも1時間は歩かなければならないリキルに、みんなと一緒に、あるいは後からついて行きさえすれば何とかたどり着けるだろうと思ったからであった、、そしてだいぶすいてきたバスは再び荒野の中を、それまでは比較的高くそして平坦なところを走っていたのだが、そこから一気に下り始めた、、下った先のインダス河河畔の村がサスポルSaspol<10:40>、そこを通過して川沿いの道をしばらくいって左に折れるかたちで本道から外れ、インダスに架かる橋を渡って対岸に、そこから少し登って15分か20分いってアルチ村に着いた<11:05>、、片道3時間80Rsだった、、

346_640x480荒野を軍のトラックが行く、下も 347_640x480
339_640x480ザンスカール河とインダス河の合流地点
341_640x480バスゴBasgo村
342_640x480バスゴ村とバスゴゴンパ、下2枚も
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 アルチの見所はアルチ・チョスコル・ゴンパ Alchi Choskhor Gompaで、ラダック地方に残されている仏教絵画・美術・建築において最も保存状態がよく、その宝庫(最重要ゴンパ)であることが持っていたガイドブックだけでなく、出発前に調べたいくつかの資料のすべてに紹介されていた、、つまりここを見ずしてラダックの仏教美術は語れないといったものであったから、わたしもここははずせなかったのである、、といってももちろんその方面の専門家でなく、ただの旅人・素人でしかないのだけれど‥、、なので、確かに壁画も曼荼羅も菩薩像も、それまで見てきたどこよりも繊細で色使いも鮮やか、見ごたえのあるものであったが、それ以上のことを述べる資格はないし、また残念ながらここは全て内部撮影禁止だったから写真でお見せすることもできない、、拝観料50Rsで小ぶりな建物(寺院?)が2,3、全部見ても30分くらいで見終わってしまうくらいの広さのゴンパであった、、ということは12時にはもうすることがなくなっていた、、バスは15時しかない、、そこでまた思案、というのも当初はそのアルチに泊まるか(宿はもちろんあり)サスポルあたりまでなら歩けないかと漠然と思っていたのだけれど、ここに泊まってももうすることもないし午後の時間はもてあましてしまう、かといってサスポルまでは歩けなくはないが、たぶん歩いて到着するころ15時発のバスに追い越されるだろうと想像できた、、そのあとの目的地はリキルであった、リキルゴンパに宿泊施設があるかどうかはガイドブック及び事前に調べていた資料からも明らかではなかった、、が、いずれにせよ、今日か明日にその地へいければ明日のうちにレーに帰れる、明日中にレーに戻ることだけが絶対条件だったから、そのとき次のように結論をだした、、15時発のバスで、今朝多くのツーリストが降りたリキルへの分岐まで行く、たぶんリキルまでは来るときの時間から逆算すれば1時間くらいであろう、、そこから1時間くらいの歩きなら17時ころにはリキルに着くはずだ、リキルゴンパは18時まで開いているはずだった、、で、そこに宿があればそこに泊まる、なければバス停近くにあるというリキル村(バス停からは少し離れていた)に行ってみる、19時ころまでにリキル村に着けばまだ明るいから宿を探せるだろう、と、、

348_640x480スムツェクSumtsek寺院が最も重要な寺でその隣にLotsa Temple、更にその隣にManjushree Templeあり、いずれも中の仏経画、千仏画、菩薩像は必見だが撮影禁止、なのでアルチは絵になる写真は撮れてない、、せめて民族衣装の女性2枚、右と下 353_640x480
354_640x480尚、正面からの撮影は遠慮した<アルチのバススタンド>

 15時までアルチ村の食堂で昼飯を食ったりして暇を潰していたが、ま、暇をもてあましていたといったほうが正しいか?そのバスには朝来たときに乗っていた欧米人ツーリストの同じ顔ぶれがあった、、予想通りバスは16時ころにリキルの分岐にさしかかり、わたしはそこで降りたが、そこで降りたツーリストはわたし一人であった、、馴染みになった朝と同じそのドライバーに20Rs払いながら、明日朝のバスはここを何時ころに通るのか聞いてみた、、アルチ発が7時半ころなので8時半ころではないかとの答えだった、、彼には直接礼をいって他の乗客には胸のうちで別れを告げ、その方向と思われる道を一人歩き出した、、それは舗装された道であったが、風に翻弄されている砂塵に覆われて、まったく車も人も通らない荒涼とした道であった、、

 途中2,3台のジープタクシーが後ろから疾駆してきて道を譲ったが、それ以外は道の真ん中を歩いていった、、左手にリキルの村が見えていてゲストハウスの看板もあった、、振り返ると遠くに雪山が連なり、目の前の荒涼とした大地とその対象が鮮やかで、なかなかほかでは見られないすばらしい景色があった、、30分くらい歩いた辺りで岩稜を少し回った、、と、遠くにゴンパらしい建物が見え出した、これがまた背後に雪山を控えなんとも絵になる風景であった、、しかしそこまでの道のりは遠く、1時間くらいで目の前あたりまで来ることはできたが、わたしのいる道とゴンパの間には深い谷があって、車道はずっと奥へまわりこむように続いていた、、こういう時歩きはつらい、が、よく見るとその先に谷に下る道があってだいぶ狭くなっていた流れに橋らしいものがかかっているのが見えた、、歩行者用の道に違いない、、そこを下って丸木橋のような簡単なつくりの橋を渡って対岸に、今度は道は上に続いていたが途中で分かれていた、、それをどっちにいったらよいかわからず、結果的に間違えてしまって、民家に入り込んだりして(人がいなかったので道を聞けず)、素直に戻ればいいところ、上へ行けば道にでるだろうと畑を突っ切ったり石垣を登たりして、ようやくのことでゴンパへ続く道に出ることができた、、つまりショートカットのはずがロングウェイになってしまったというわけで急がば回れの教訓ようなことをやってしまったのだった、、それでも17時半にリキルゴンパの弥勒さんに対面していた、、時間が30分あったので中に入り、一通り見せてもらったが、特に感銘を受けるようなものがあったわけではない(眺めはよかったが)、、ここはなんといってもその巨大な弥勒菩薩坐像が目玉であった、、持っていた資料の解説にみうらじゅんが気に入りそうな菩薩さま、と記されていたのが忘れられなくて勝手にみうらじゅん菩薩と命名してしまったが、確かに寺院に腰掛ける形で作られた巨大弥勒菩薩なんてほかでは聞いたことがなかった、、その菩薩さまにお祈りしたおかげかそのあと面白いことが起こった、、そこまでの道すがらゲストハウスを探していたが途中で道をはずしてしまったので見つけられないでいた、、が、ゴンパの前に何軒かのゲストハウスの看板を見つける、曰く、矢印のあとにここから100mとか200mとか300mとか書かれているのであった、、いずれにしろそれほど遠くはなさそうだったので、少し下る方向でかかれたゲストハウスを探しにいった、、細い道を下って、100m、200m、いや300mもいったか?それは見つからなかった、、それらしき建物もなかった、、諦めて元に戻るしかなかった、が、その道のりがきつかった、、そうやって登りかえしている時にひとつのことが閃いたのだ、、このような上か下かの選択があった場合、言い方をかえると辛そうなほうと楽なほうの選択があった場合、まずはきついほうを選べという当たり前のことがつくづく身にしみてわかったということであった、、つまりこのとき上のほうへ向かっているゲストハウスの看板と下へ向かうゲストハウスの看板の場合、どちらも未知でしかも等価値としたらまず上へ行ってみるのが正解ということになる、、そのほうが見つからなかった場合の対処が楽になるということであった、、そんな単純法則に改めて気づき少しうれしくなって、今度は上の方のゲストハウスを探しにまた歩き出した、、すぐに一軒のゲストハウスがあった、、が、どうも開いてる気配はない、、ということは看板はあったものの実質オープンしているゲストハウスはないということなのか?少し不安になったが、そのやってないゲストハウスのところにさらに上を指しているもう一軒の案内板があった、、ここまでくればいってみるしかなかった、、坂を登っていくと上から下っくる人がいた、この辺にゲストハウスはないかと聞いてみる、、通じたらしく、すぐ上に見えていた家を指した、、やったぁ ! !、助かった ! !、、大げさにいうとそんな気持ちであった、、リキルゴンパから5分くらい登ったところにそれはあった、、喘ぎながら登ってくるわたしに気がついたのかそこのおばさんがわたしを出迎えてくれた、、階段を登ってたどり着いたそこは、まさに天国のようなところであった、、もしかしたら弥勒さんが導いてくれたのでは?と思わずにいられなかった、、案内された部屋は、どんなところでもかまわなかったのだが、絨毯敷きのいわゆるチベッタンハウス、バスこそ外だったが、部屋から遠くに雪山が見渡せた、、いいも悪いもない、理想とするところ、これ以上のところは望めない、そんな風に見えた、、こんなところに泊まりたいと思っていた、まさにそんな部屋であった、、おまけに食事も作ってくれるという、予想もしなかったことだ、一切期待してなかったことだった、、そんな信じられないことがもうひとつ起こる、、朝食は何時と聞かれたので、いや、朝早くでるからいらないと答えると、何時にでるのか聞いてくる、で、リキルの分岐に8時半前に着きたいから7時前に出るつもりだというと、なんと彼女は(そこはどういうわけかそのとき男手がなくおばさんと娘さんとその子供の4人暮らしで、その娘さんと話していたのだが)バスはこの村からでているといったのだった ! !、、耳を疑った、、えっ、ほんと?、、それはわたしが知らなかっただけのことだったのかもしれなかったが、レー~リキルもミニバスが通じていたのであった、、バスは7時ころ、しかもこの宿の下を通るとのことであった、、来るときに歩いた1時間半の道を歩かなくていいということだった、、それなら朝食もお願い6時ころで、と頼んだ、、なんか夢を見ているような想いであった、、わたしの無意識が求めていたところにやってきたといった感じでもあった、、ここに来るべくして今まで歩いてきたようにも思えなくはなかった、、そう、導かれたように‥、、何より心安らぐ地であった、、

356_640x480左手奥の小さな祠あたりがバス停、右手奥の緑があるあたりがリキル村

357_640x480岩稜を回りこむとこの風景が飛び込んできた、下2枚も同じ構図なのだけれどわたしが今回撮影した中で最も気に入っている写真なので3枚とも掲載、いずれもリキルゴンパ 358_640x480
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360_640x4801時間くらい歩いたあたりだが、まだ河のこっち
364_640x480この弥勒さんの大きさについては上の写真参照
371_640x480宿泊したゲストハウス
370_640x480ゲストハウスの下にあった看板
368_640x480部屋の窓から山並みが‥
365_640x480ゲストハウスから見た遠景、下に弥勒菩薩が見える、、

 その夕食もうまかった、が独り占めにしたかったその場は、最初ロシア人かと見間違えたイタリア人のおっさんと一緒だった、、先客が一人いたのであった、、あまり英語が達者でなかったので簡単な自己紹介にとどまったが、なんでも商売(仕事?)かなんかでインドに滞在していて休暇でここにやってきたといっていた、しかもマイカーで、この宿の下に停まっていたジープは彼のものとのことであった、、それ以上のことはよくわからなかったが、一人で好き勝手な旅をしているようでうらやましくも思えた(わたしも一人で好き勝手にやっているが、自由度が違う)、、その夜は大きなベッドでヤクの毛を使った上掛けで寒さはなくよく眠れた、、もうレーに比べれば辺鄙なところだったが電気は通じていた、、何年前ころからと聞くと、15年くらい前からとの答えだったので、かってまわった後進国に比べてもそれは早いほうに思われた、、夜半に一度外のトイレにいったが電気は夜通しついていた、、あくる朝はそれでも半信半疑で7時ころからバスを待っていた、、下から上がってくるバスを見たときに一安心、もう旅も終わり近かったのでこの先不要と思われた小間物など、ここでも使えそうなものをできるだけおいてきた、、朝夕食付で250Rsしかとらなかった、、この時点でこの宿が今回の旅の中でわたしにとってのベスト1になった、、礼をいってできたらまた来たい旨を伝えてバスに乗り込んだ<7:10>、、バスはいったん更に村の上までいって、そこで折り返した<7:20>、、リキルゴンパのあたりではもう席はほとんど埋まっていた<7:30>、、いったんリキルの村により<7:45>国道に出た<7:50>、そのまま昨日通ってきた道を順調に戻り、思ったより早く9時半ころレーに着いた(昨日2時間かかったところが1時間40分だった)、そこで思い出したことがあった、、昨日の日本人の彼女が最後までアルチ行きのバスに乗ることを躊躇っていた理由がそのときわかったのであった、、たぶん彼女はリキルへ行くバスがあることを知っていたのだ、が、それを見つけられないでいたののではなかったか?、、レー発が何時なのかわからなかったが、7時ころリキルを出たのだからその逆便もあったであろうことはまず間違いのないことであった、、が、それがどこから何時に出ていたのかは未だ不明である、、そして彼女はどうやってレーに戻ったのかも知る由はなかった、、

374_640x480一階が牛小屋になっていて朝の乳搾り、その乳で作ったダヒーDahi<ヨーグルト>も美味だった 376_640x480下から登ってきたバス
377_640x480_2さらに登ったバスの折り返し地点あたりから、<下も>
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  レーに戻ったわたしはいったんホテルに戻り、部屋がなければそのときはそのときと伝えてあったが、同じ部屋を取っておいてくれた、というか、掃除もシーツを替えた跡もなくただそのまま放置されていただけのことであった、、ま、それでも安宿なので文句はいわなかった、、明日発つので洗濯は諦めシャワーを浴びて休息、、昼はいついってもいっぱいで夜いくと閉まっていたチベッタン食堂に行ってみる、いつも地元の人でにぎわっていたからきっと評判の店なのだろう、ほんとに小さな路地を入ったところにあったのでそれに相応しい店であった、モモ1/2と、あまりにも他人が食べているのがうまそうだったのでチョウミン(焼きそば)1/2、モモはうまかったがチョウミンは例によって麺がいまひとつで、見た目ほどのことはなかった、、1/2+1/2で70Rs、この店は午後の3時ころには店じまいしてしまうとのことであった、、

 もうインドの旅も終わりに近く、前日のリキルをもって最後を飾れたように思っていたので、行けなかったところはたくさんあったが満足していた、、午後はネットカフェでmailの確認をしたり少々のみやげもの探してぷらぶらしていた、、レーは小さな街でもうそのほとんどは歩き尽くしていたが、それでも少し歩くだけで疲れたのはやはり高度(レーの高度はだいたい3,500mだった)のせいかもしれなかった、が、高山病の影響はまったく消えていた、、で、今回の旅ではずっと喉は渇いていたが腹が減ったことはなかったので、やはり最後はビールで締めたかった、、夕刻に再び街に出たとき、夕食の代わりに以下のものを買って帰った、、トマトとたまねぎ5Rs、何日か前に食べたインド食堂のコロッケ30Rs、夕方になると街角に現れそのうちそのうちとずっと先延ばしにしていた屋台のシシカバブー(マトンの串焼き)25Rs、そして酒屋で缶ビール70Rs、トータル130ルピーくらいだったがわたしに相応しい(レー)最後の晩餐となった、、