独歩の独り世界・旅世界

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インドの旅 9)キーロン ~ レー Leh

 目が覚めたのは4時57分であった、、アーやっちまった、とそのとき諦めかけたが、もしかしたらと思って、その辺にあったものを全てバッグに突っ込み、5時5分にはホテルを出たと思う、バススタンドまでも5分、たぶん5時10分ころになっていたと思うが、それらしきバスはまだいてくれた、、その場にいたものにレーかと聞いたら、そいつは欧米系の若者だったが、そうだけどこのバスは予約制だからticketを持っていないやつは乗れないと抜かしやがった、、そんなやつを相手にしている暇はなかった、、すぐに指定席に荷物を置いてトイレに行き顔を洗って戻るとまもなくバスは出発した、、この15分がどのくらいありがたかったか、奇跡に近かった‥、、

 大失態であった、、今までにも朝の3時、4時におきて早朝のバスや飛行機に乗ることはたびたびあったがいつも余裕であった、、目覚ましを一応かけていても、目覚ましに起こされるということはなかった、、が、今回いつも念のため用に使っていた目覚ましが、実はほとんど日本でも使用しないケータイを、それも海外対応にしていなかったから、だだ目覚ましや時計代わりにもっていっていたのだけれど、こんどばかりはその充電器が途中で壊れてしまい、そのケータイ自体が充電できなくて使えなくなっていた、、また受付もいないようなホテルでモーニングコールなんてはじめから期待できない話であった、、そこへきて前夜寝付けなかったのにいつしか寝入ってしまったらしく、それでも5時に目覚めたのが不思議なくらいであった、、逆にいえば1時間とか2時間の寝坊であったら、すんなり諦められたというものであった、、しかし間に合ったからいいようなものの、5分遅れで乗り遅れたとしたら悔やんでも悔やみきれなかったと思う、、ただ、その辺が運命の不思議さで、時には間に合わなかったがゆえに事態(成り行き)が好転するということもないことはないのだけれど‥、たとえばバス代500Rs近く犠牲にして、このキーロンという村にもう一日滞在することになったとしても、それはそれで面白いことになった可能性も否定はできないのだ、、先行きどうなるかわからないところが旅の(飛躍すれば人生の?)妙味に他ならない、、とはいいつつ、そんなことを思いながらも正直胸をなでおろしていたのであった、、この先このルートがどんなにきついものになるかも知らず‥、、

 キーロンを出て一時間くらいBhaga川沿いを行き、橋の手前がチェックポイントになっていて、そこで外国人が全員降ろされた、、昨日まで乗ったローカルバスにはほとんど欧米系ツーリストはいなかったのだけれど、どういうわけかこのバスの乗客50人くらいのうち20人くらいは外国人ツーリストであった、ほとんどは欧米系の若者たちであった、たぶんてんでにキーロンまで来たが、キーロンからのバスは日に一本しかなかったから、このバスに集約してしまったといった感じであった、、それぞれが個人旅行だったと思うがもうほとんどグループ化していた、、残りの乗客は半数がインド人旅行者で、後の半数がチベッタンの地元民といった構成だった、、われわれ外国人はそこで全員パスポートチェックを受けた、その間の2,30分が、ま、ティタイム・トイレ休憩といった感じであった、、バスは再び動き出しすぐに川を渡り、ダルチャDarchaへの分岐を過ぎ、今度は登りにかかった、、しかしその辺から早くも記憶があいまいになってくる、、今日のルートはほとんど樹木のない荒涼とした荒地というか荒野というか、そんなちょっと形容しがたい高地を登ったり下ったりしながらいく道で、川沿いでも3500mくらいの標高があり、それより下がることはなかったのだから平均すると4000mくらいをずっと走り続けるということになる、、最初の峠がBaralacha La というところで4890m、そこを8時半ころ通過し、明らかに空気の薄さが感じられ寒かったのは覚えているのだけれど(その峠付近で一回休憩が入った、そこでバックからダウンをだす)、その後はずっと同じようなところを下って、少し平坦なところもしくは川沿いを走って、そしてまた峠を越えての繰り返しだったから、どこをどう通ったかその記憶があまり鮮明でないのだ、、それは少しずつ高山病の影響がでてきていたということかもしれなかった、、そんなあいまいな記憶の中でも早くに起こったことだったが、突然急病人が出た、、ちょうどわたしの後ろの席にいたインド人のジイさん(見た目わたしより年寄りに見えたがあるいはもっと若かったかもしれない)の震えが止まらなくなって、バスは停車し有志で看病に当たった、、医者は乗っておらず処置に困って付き添いの家族(娘と孫が一緒だった)と相談、旅の続行は無理だろうということで次の宿場・テント場で降ろし、一日休んでもらって様子を見るということになった、、それが10時ころの出来事であった、、その後も何回かtea break・トイレタイムやチェックポイントがあり、Lachulung Laという5060mの峠も越えているが、もうことの前後が定かでない、、そしてたぶんその峠を越えて下って川を渡ったあたりで昼食休憩になったと思う、、そこはPangというところで14時になっていた、、そこでまた脱落組みが出た、、明らかに高山病の症状がでて、これ以上バスに乗り続けることは無理と判断、一日ここでのんびりしていくことにしたと少し陽気にいっていたが、日本の若い女の子であった、、欧米人のグループに東洋系の女の子がいることはわかっていたが話していなかったので日本人かどうかはわからなかった、、それにどこの国の男の子かわからなかったが、同行者がいたので、それほど心配はしなかった、こんなところまでよく来たと、褒めてあげたが、そのときはわたしのほうはまだ異常がでていなかったので少し余裕をみせたのだけれど、わたしはそのあと大失敗をしてしまうことになる‥、、そこまで順調だったので何の気なしに昼飯を食べてしまったのだ、結果的にはこれが次にわたしの番となる原因となったと思われた、、そこはレーから180km地点であったから、すくなくともあと6時間はかかることが予想された、、つまりまだ半分を少し超えたくらいしか来ていなかったのである、、その後はずっと高地を行く、、4500mくらいのところを走っていたのではないか、、だんだん気分がすぐれなくなってきた、、もう外の景色を楽しむ余裕は失せていた、、それでも何とか最後の峠までは持ちこたえた、、最後の峠はTakang La で5300m、そこの通過が17時ころだった、、あとは下るだけだ、、何とか持ちこたえたい、という儚い望みは、下るにしたがって容易ならざる事態となって、我慢しきれず車の窓から嘔吐するにいたった、、昼に食べたものをすべて吐き出すことになったのであった、、高山病のためか車酔いなのか、生涯車酔いの経験がないわたしはいずれにしろ消化能力の衰えにその原因ありと分析はできるのだけれど(日本にいたときから消化力の衰えによる二日酔いにはしょっちゅう悩まされていた)、間接的にはやはり高山病の影響がでたといえるのではないかと思っている、、そのために隣にいたインド人の若者には窓側の席を替わってもらったが、バスを止めるような事態にならなかったのはせめてもの救いであった、、つまり他人に迷惑をかけることはなかったと思うし、高山病に負けた、あるいはこの過酷なルートに負けたと思われることもなかったと思う、、それにしても結果的にこのルートは老人にはきつすぎたということか?、インドのジイさんが降りてからは確かにわたしが一番の年長者となったかもしれなかった、が、負け惜しみを言わせてもらえば、もしあそこで昼飯さえ食わなかったら、どうってことなかったと言えたかもしれなかったのが、悔い&悔しさとして残った、、

213_640x480最初のチェックポイント、橋の手前212_640x480対岸がDarcha
 216_640x480羊飼いと羊の群れ
218_640x480行く手を阻んでいるのでバスは立ち往生
220_640x480最初の峠、4900m付近(下2枚も)
  222_640x480
221_640x480ラダックは軍事的にものすごく重要な拠点で、それこそレーはその面積の大半を軍事施設が占めていた、、レーへの道は軍用トラックがしきりに行き来していて、その数はだいたい20~25台で隊列を組んでおり、何度も行きかった、、前方からその隊列がやってきたところ、こういう場合だいたいバスが止まってやり過ごしていた、そもそもレーへの道は最初軍用道路として作られたものであった、、

223_640x480宿場・テント場、tea break・トイレ休憩の場であるとともに食堂と宿も兼ねている、中は下の写真のようになっている、、
224_640x480チャイ(茶)はどこも10Rsであった、、宿泊は150Rsとのことであった、、
225_640x480急病人が出て臨時停車
229_640x480どこだったかよく覚えていない
231_640x480インドの典型的なトラック
232_640x480トイレ休憩か?よく覚えていないが、これも臨時停車
233_640x480ドライバーが突然降りて何か叫びだした、、
234_640x480その方角にいたのがこの動物(名前は聞き漏らした)で、目撃するのが非常に珍しいとのことであった、、
235_640x480風のもたらす芸術?こんな造形を楽しめているうちはまだよかったのだが‥??
236_640x480こんな風景のところをずっと行く、、
239_640x480昼食休憩の場となったPang、食堂兼宿のテントがいくつか並ぶ、、
243_640x480最後の峠、5300m付近、、
254_640x480下りついたUpshiの街(分岐のあたり)

 しかしレーへの道、インダス川沿いの街Upshiに降り下ったとき、18時半くらいになっており、そこで再度のパスポートチェックと最後の休憩となったのだが、その時点ではもう体がいうことがきかないほど疲れきっていた、、はっきり敗北を認めていた、、いや、このルートは65歳の老人には厳しすぎたかもしれなかった、、もちろん高山病の影響は人によってまちまちだ、年齢はあまり関係ないかもしれなかった、、それでも若者たちはみんな元気そうにみえた、、また、24時間以上バスに乗り続けたことも過去にはあった、、しかし平均4000mを13時間も14時間も走り続けるバス旅は初めてであった、、だからこそ挑戦してみたのだけれど、そんなに甘くなかったというのが正直なところだった、、それでもようやく下の平地にたどり着いた(そこでも3500mあったが)、そこからは平坦な道となり、日も暮れた夜道をレーに向かう、、レー到着は20時半であった、、実に15時間半の長旅であった、、その間を一人で運転しきったドライバーが凄いと思った、、毎日の仕事とはいえ、尋常な体力精神力技術力の持ち主ではない、、なぜならわたしもドライバー上がりだったからわかるのである、、降り際に誰もそんなことをするやつはいないし、わたしもまずやらないことだけど、彼に声をかけ礼と少しバスの車体を汚してしまったことを詫び、いくばくかのチップを渡した、、そんなことに慣れていない彼はきょとんとしていたが笑みを返してくれた、、精悍ないい顔をしたドライバーであった、、いや、ここの連中の先に述べた並外れた体力精神力技術力はその前に2度乗ったいずれのバスのドライバーも備えていたと思う、、マクロードガンジ~マナリも14時間くらいかかっていたし、マナリ~キーロンもこの道が厳しさの面では一番危険を伴う道だったが10時間の重労働をこなしていた、、彼らにはその意を表せなかったが、その過酷な道を無事レーまで運んでくれた彼に感謝というか称賛を示したかったのだった、、

 疲れきってバスを降りたわたしは、しかしすんなりとホテルまではたどり着けなかったのである、、それを含めたレーの話は次回ということで‥、、