独歩の独り世界・旅世界

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グアテマラ国内の旅 2)ネバフNebaj/キチェ県イシルの地

 わたしがチキンバスでサンタクルスデルキチェに向かったのは1月30日だった、、といっても、それまで何度も経験していたことだが、アンティグアというところはそういう意味では不便なところで、たとえばグアテマラの西方向、パナ(Panajachel)とかシェラ(Quetzaltenango)チチ(Chichicastenango)方面にチキンバスで行くにはいったんチマル(Chimaltenango)に出て、そこでそれぞれのバスに乗り換えなければならなかったし、北(ティカルのあるペテン)や東(隣国エルサルバドルホンデュラス方面)方向へ行くにはいったんグァテ市に出る必要があった、それらの地に行く直行のシャトルバスがアンティグアから数多く出ていたのは逆にいうと直通のチキンバスがなかったから、ということもできたのである、、

 だからその日も、例によってもう走り出しているチマル行きのバスに追いついて飛び乗ったのだけれど、間の悪いことに集金に来た車掌に10Qとられたのは失敗・軽率であった、、一瞬疑ったのだけれど、その前にもうひとり外国人が乗っていて値段を聞いていた、その車掌はちょっと腹黒かったようで10Qを要求し、彼は初めてのことだったのか素直に10Q払う、で、その車掌はわたしにも10Qを請求した、まさか1年で倍(去年は5Qだった)になるわけがないと思ったが、そのときわたしは文句を言わずに払ってしまったのだ、、これは明らかにぼられたことが次に乗ったときにわかったのであった、、ま、そういうこともある、、

 で、チマルのいつもの交差点で乗り換えのバスを待っていたとき、ほんとはサンタクルスデルキチェ(Santa Cruz del Quiche、El Quiche県の県都、以下略してキチェと記す)行きを待っていたのだがシェラ行きが来た、シェラ行きに乗ってロスエンクエントロスで乗り換えても行けることを知っていたから、車掌にロスエンクエントロスまでいくらか聞いてみた、15Qとの返事、ま、相場である、で、ダメもとで10Qなら乗ってもいいと言ってみた、するとあっさりOKしてくれたので乗らないわけには行かなくなってしまった、、で、それで5Q儲けたのかというと実はそうでもなかったのだ、ロスクエントロスでは乗り合いのワゴン車とか前回書いたサンタルシアコツァマルグァパ発のキチェ行きのバスが結構あったから乗り換えはスムースだったけど、そこからからキチェまでは10Qとられてしまった、もしチマルでキチェ行きのバスを待てば恐らく20Qで行けたと思うから結局は変わらなかったことになる、しかしひとつだけよかった点はあった、、それはここで乗り換えたため、その乗り換え時にトイレに行けたことであった、、もしチマルからキチェ行きの直行パスに乗ったらトイレの時間が取れなかった、そのときは去年そのためにバス代を犠牲にしてしまったように、次のバスを待つことになり(その辺の事情は去年書いたが、バスはそのために待っててくれるのだけれど‥)、それこそ倍のバス代を払うことになってしまったかもしれないからである、、グアテマラのバス事情はそういう意味では知らないと損したり、時には得することもあり、その辺が乗れば乗るほど面白くなる、、??

 さて、わたしがそのとき行こうとしたキチェ県の中でも山奥にあるネバフというところについて少し説明しておこうと思う、、どうしてそんなところに行こうと思ったのか、そこに何があるのか?発端は20年近く前に遡る、覚えておられる方もいらっしゃると思うが、そのころグアテマラ先住民の女性がノーベル平和賞を受賞した、1992年のことであった、、その人の名はリゴベルタ・メンチュウといって、その受賞理由はたぶん彼女の生い立ちを語った本、その題名も‘私の名はリゴベルタ・メンチュウ’いう本とその後の彼女の先住民のための権利回復運動が評価されたものだったと思われた、わたしは当時その本を読んでいてインディオ先住民のおかれている立場・現状に深くうたれ共感し同情を禁じえなかった(インディオ先住民問題に対する関心はさらにその先20年も前に遡るが‥つまりわたしが学生のころに目覚めさせられていた)、、で、その本に書かれていたことかどうかは忘れたが、インディオ先住民の中でも特に当時(軍政による弾圧が激しなった1975~1990年ころ)の支配者・白人の大農場所有者・ラディーノ等に最も強く抵抗していたのが、それはスペイン人の侵略当時から最後まで頑強に抵抗した歴史をもつ、ここイシルのキチェの人々だったのである、ということは当時の軍事政権が最も厳しい弾圧を加えた地でもあったのだ、それはネバフの悲劇、チャフルの悲劇としてその悲惨な虐殺の歴史を今に伝えている、、当然ここの人たちの多くは当時のゲリラ(反政府運動)のシンパかもしくはゲリラとして活動することになる、そのイシルトライアングル、ネバフNebaj・チャフルChajul・コツァルSan Juan Cotzalという三つの村がインディヘナの伝統を今も強く残しインディヘナとしての誇りを最も高く持ち続けながら生きている辺境の地としてわたしの記憶に残った、ぜひ一度訪れてみたいと思っていたのだった、そしてリゴベルタ・メンチュウの生まれ育ったところがそのイシルの隣の地ウスパンタンだったことも、その地へ向かわせる理由となった、、去年ウエウエテナンゴの帰りにたまたま寄ったここキチェで、ネバフに行くミニバスが出ていることを知った、なのでまずキチェまでくる必要があったというわけであった、、

003_640x480Santa Cruz del Quicheのバスターミナルで

 ネバフへ行くバスはほとんど待ち時間がなかった、ここまででどういうわけか、チマルでもロスエンクエントロスでも乗換えが順調で、ほとんど待つことなしに次のバスが来たのだけれど、ここキチェでは逆に待っていてもらった形でネバフ行きのバスが出た、これまでの時間経過はアンティグア発が8時15分ころ、チマル着9時05分発9時15分、ロスエンクエントロス着10時25分発10時35分、そしてキチェ着が11時半ころだった、わたしはそこで昼飯でも食いながらバスを待つつもりで、とりあえずそのバス(ミニバス・ワゴン車)を見つけておこうとターミナルをうろついていたら、なんとネバフと書かれている普通のチキンバスを見つけてしまった、呼び込みのおっさんに確かめるとネバフへ行くという、しかもすぐの発車だといっている、たぶんこれを逃すと1時間はないであろうからトイレへ行く時間だけもらってそのバスに飛び乗る、たぶんそのバスは11時半発だったのだと思う、わたしの為に5分待ってくれた、、そして以前通ったことのある山道を北に向かう、道は片側一車線の完全舗装路だったしワゴン車の詰め込みではなかったから、ま、快適といえば快適、途中左へ行くとウエウエ(Huehuetenango)へ向かう分岐を過ぎ、そこからははじめて通る道となった、キチェから次の大きな街サカプラスSacapulasまでは1時間半、13時ころサカプラスの街に入った、、ちょうどこのバスは午前の授業が終わる時間帯だったので途中からは通学バスのような感じになったが生徒も先生も大半はそこで降りた、サカプラスを出るとすぐに大きな河を渡る、地図にはRio Chixoy o(または) Negroと書かれていたが、そのどちらの名で呼んでいるかは聞きそびれてしまった、、が、この大河がまさに、いわゆる国境<クニザカイ>であった、、そこにはりっばな橋が架かっていたが、おそらくここの上流も下流も何十キロに渡って橋はない、、そしてこの河から北の山間がイシルの地になるのであろう、河を渡ってすぐにバスは登りにかかった、勾配のきつい山道を20分くらい登ったか?1000mくらい高度を上げて分岐点に出た、次の日そこの地名がエントロンケということを知ったが、お店が一軒あるだけ、何もないけど景色のすばらしいところであった、、直進はウスパンタンを通ってコバンCobanへ抜ける道、そこを左に曲がってさらに登り続ける、そこから先はずっと山の中、ひと山かふた山越えてバスは下りにかかりサカプラスから1時間、山深い街ネバフに着いた、、パルケセントラルあたりから続く市場の端にあったかなり狭いバスターミナルで降ろされ、さてどうしたもんか、まずその市場を抜けパルケセントラル、イグレシアの前に立つ、、そこが1979年以来ゲリラ対策のため増員された軍隊によって疑いをかけられ、むごい拷問のあと殺された遺体が晒され放置された場所だった、、なんと当時この街の人口の2割から3割ものインディヘナがその犠牲になったという記述も読んだことがあった、、今やその面影はまったくないのどかな平和がその辺りには漂っていた、と見えたのだが、そんな思い込みが強かったせいか、他の地に比べて軍隊(ジープに乗ったミリタリー)の数が多かったようにも感じられた、、もしかしたらいまだ真の平和は訪れていないのかもしれない、、

005_640x480パルケセントラルとNebajの教会(Iglesia)006_640x480

 一方女性の衣装は赤のコルテを身にまとった民族衣装で、その服装を通して伝統・文化を生きる姿勢が感じられた、が、去年行ったトドスサントスほど外来者に対する態度の厳しさはなかった、もっとも同じく3000mの山並みを越えた山奥であっても一方は秘境・桃源郷とうたわれ観光地化してきて、それを快く思わないかたくななマム系インディヘナと、まだまだ観光地としては知られてないが、その昔侵略者に対して頑強に抵抗した歴史を持つここの人々とは今やチチカステナンゴがそうであるように多くの観光客を誘致し商売上手として知られるようになったキチェ系人種との気質の違いもあるかと思われた(しかし面白いことにここはキチェ系の人々だがイシルの言語は隣のマム系に属するそうだ??)、、

 ホテルを探す、地図も情報もまったく持っていなかったから、ほんの少し高い位置にあったパルケセントラルから街を眺め回してホテルらしき建物にあたりをつけ、そっちのほうに歩き出す、、パルケセントラルから5分、たぶんそれが一番高い建物だったと思うが4階建てのホテルは見るからに立派で高級そうであった、ほかに安宿らしきものは見つけられなかったし、とりあえず情報もほしかったのでその建物に入ってみたが誰もいない、それまでにも観光客らしき旅人には出会っておらず、キチェからの同じバスに乗っていた、たぶんアメリカ人と思われる青年がわたしが出会った唯一の外国人であった、、それほど観光客はおらずホテルも商売っ気がないというか客を期待していない様子、しばらく待ってようやく現れた男にホテルの情報を聞く、とやはりそこは街一番のホテルで一泊150Qくらいといっていた、いくらなんでも分不相応に見えたので、他に安いホテルはないのかと聞くと、先ほどは目に入らなかったが通りの角を曲がったところに一軒あると教えてくれた、早速行ってそこで交渉、そこもガラガラで3階のバス・トイレ・テレビつきの部屋が65QとのことでOKしてしまった、、もちろんテレビなんかなくてかまわないからもっと安い部屋はないかと聞いたが、そもそもホテルがほかになさそうだったし、それより安い部屋もなさそうだった、街の中心に位置するところだったから、安いといえば安かったかもしれない、、その後の3週間近い旅の中でも上等のほうであった、寒さを心配して毛布もたくさんもらっておいたから夜も寒い思いはしないですんだ、、

030_640x480街一番のホテル 008_640x480わたしが泊まったホテル

 そのホテルは最初に行った高級ホテルから1分のところだったが、そのときその街一番のホテルの脇にバスが一台停まっているのに気がついた、コツァル行きのそのバスはなんとわたしが乗ってきたバスだった、、市場脇のバスターミナルで客を降ろした後、ま、いわば街の中心部でしばらく停車して客を待ちコツァルに向かうらしかった、同時にコツァルやチャフルへ向かうワゴン車もそこから出ることがわかった、、また、ホテルの敷地内というか道路に面した一角が食べ物屋になっていたので(そのホテルの経営ではなかったが)遅い昼飯をそこでとって再び街に繰り出す、市場をうろついていると中年のおばさんから声がかかる、自分が作った伝統工芸品を見てくれ、というのだ、ついていくと表通りには見当たらなかった土産物屋がプラザ風の建物の中に何件か店開きしていた、、そう、そこでも逆に言うと半分以上の店は戸を閉ざしていた、いかに観光客が少ないかを物語っているようだった、だからそのおばさんも結構必死だった、、相手の根気にまけるような形で安い買い物をした、これが去年だったらもっとたくさん買っていただろうと思う、今回は極力土産には手を出さなかったのだから、、その分といったら変だが、酒屋を探していた、、せっかくテレビがあるのだから夜は酒でも飲みながらテレビを見るのはこれまで経験してない贅沢に思われた、、どこでもそうしていたようにまず市場で殻つきのピーナツを手に入れ、普通の店で清涼飲料を、ビールは置いてなかったので買えるところを聞く、そこは昼まっから酔っ払いがたむろしているところだった(cantina 酒場)が、中へ入らなくても表から酒類が買えるようになっていた、、そこでビールとロン(サトウキビからとった蒸留酒)の小瓶を仕入れホテルに戻り軽くいっぱい、日が暮れてから今度は夕食場所を探しにまた街に出る、そうやって街をぶらついててわかったことはその街にはほかに2軒ホテルがあったこと、食べ物屋で適当なところがなかったこと、で、昼間は露店で埋まっている市場の細い道にここでも屋台の食べ物屋が店開きしていた、メニュウはどこでも同じだが、わたしの選択もどこでも同じ牛肉しかなく、しかしそこのステーキはあのうまいセボイヤ(焼きねぎ)とパパ(ポテト)、フリホレス(豆)、生野菜のキャベツ、そしてトルティヤ、コーヒーがついて10Q(100円くらい)と信じられない安さ、そしてうまい、ホテルに帰ってサッカーを見ながら酒浸たるのももちろん悪くなかった、、

007_640x480土産を買うからといって一枚撮らせてもらう