独歩の独り世界・旅世界

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グアテマラへ 3)オベンティック(サパティスタ自治区)

 わたしはここカサカサに来る前からサパティスタについては知っていたし、むしろ心情シンパ、応援者というか支持者であった(何もしていなかったし、そのすべを知らなかったので支援者ではなかった)、が、その本部を訪問することができるとは思ってもいなかった、、ただ、このカサカサの創設者であった亡くなられた笠置さんという方が彼らと親しかったということは知らなかったが、彼らのことに詳しいらしいということは聞いていた、、なので、前にも言ったが今回はどうしてもカサカサによる必要があったのである、、

 EZLNについては1990年代のチアパス騒動(1994,1,1、NAFTA北米自由貿易協定に抗議した武装蜂起)で一躍世界にその名が知られるようになったが、活動はそれ以前からあった、、また、普通の報道、特に日本でのその当時の報道は確か反政府ゲリラ的な扱いしかしてなかったから、一般の人は知らないか、知っていてもその本当の姿までは知られていなかったのではないかと思われる、ほとんどの旅人も(特に若い人は)、前回記したようにその情報ノートに書かれていた方と同じくここではじめて知ったという方が多かったのではなかろうか?、わたしにしてもその成り立ちや目的については知っていたし理解を示していたが(1994のときは陰ながら応援していた)、その後どうなったか、現在どんな活動をしているか、といったことは当然日本にいてはわからないことであった、、だから実際にオベンティックに行けて中に入れてもらえて彼らと話ができるなんてことはここに来るまで知らなかったのであった、、

 では、なぜわたしが彼らのことについて少しばかり知っていたかということを話しておきます、それはもう30年以上前の話になるが、つまり若いころ、このEZLNの思想の根拠・背景となっている人物エミリアノ・サパタEmiliano Zapata(サパティスタの由来)について書かれた本を読んでいたのでEZLNについては詳しく知らなかったが、サパタという偉大な人物については知っていたということです、、彼について詳しく記す能力はないのですが、ごくごく簡単に言うと100年前この地に荒れたメキシコ革命の英雄だった人です(メキシコ革命のヒーローはもう一人いました)、農地解放・農奴解放?ともかく最後はメキシコ人民の英雄となりましたが最初は貧しい農民のため、インディヘナのために立ち上がった人です、、その活躍は目覚しくすさまじかった、まさにすばらしい人物だった、で、そのとき以来わたしの数少ない尊敬する人物になっていたのです(余談ですが、わたしが尊敬してやまない人物は二人しかいなくて、最初がマハトマガンジーさん、で、サパタが二人目となりました、12年前にメキシコに来たときは、彼の本を探したり、そのころから始めたPCのパスワードに使わせてもらったりした)、、だから当然その思想的流れを汲むEZLNの動きには関心があったし応援していたわけでした(EZLN及びエミリアノ・サパタについてはwikipedia等で参照してください)、、ま、そういう意味では憧れの地にいけると知ってわくわくしていました、ちょうどカサカサの長期滞在者のひとりTakeshiくんが、たまたま何日か前に行ったばかりということだったので、そのときの様子を聞いていました、まず、コレクティボでいけること、いったら門番のような人から来訪目的を聞かれること、なのでパスポートを持っていくこと、応対のためのスペイン語が少し話せなければ難儀する、といった情報をもらってました、それにそのときは情報ノートも読んでいたので結構楽しみだった、、ひそかに質問事項をスペイン語で調べていたりした、、

 さて、その日まずオベンティクに行くコレクティボを探すのに少し苦労した、そのコレクティボはオベンティク行きではなくボチルBochilまで行くコレクティボだったので、呼び込みはボチルボチルと叫んでいて、それがオベンティックに寄るのだと知るのに時間がかかってしまった、というか当節かようにオベンティックは外国人旅行者を受け入れるようになっていたので、そのドライバーか゜オベンティックへ行くのはこれだとその辺をうろうろしていたわたしに教えてくれたのであった、、が、この辺のコレクティボはほとんどがそうなのだが、ある程度客が集まらないと出発しない、このときもそのコレクティボに乗り込んでからも、かれこれ1時間も待つことになった、その間に何人か集まった客のうちたった一人だけ外国人旅行者がいた、案の定彼の目的地も同じであった、、

198_640x480オベンティックへ行くコレクティボ

 そのフランス人の若者がいてくれてよかったかどうかは微妙であった、、というのはたまたまそのときそこを訪れたのが同じ車で来たわれわれだけだったので、EZLNの担当者はわれわれを一組に扱った、、そのためスペイン語に堪能だった彼がわたしの代弁者にもなってくれ、入門の手続きをしてくれた、、しばらく待った後にその目出帽のおっさんはわれわれを中に入れ、そのコミューンのような場内を案内してくれた、とりあえず人物を撮らなければ写真撮影もかまわないとのことだった、、なだらかな山肌を下るように太い道の両側に建物が並びそこに描かれた絵画がすばらしかった、、その途中途中でその案内役のおっさんが説明しフランス人の彼は質問もしているのだけれどわたしにはほとんど理解できなかった、わたしのスペイン語のレベルではそういった話しまでできなかったし聞き取ることもできなかった、、が、もしそのフランス人がいなければわたしはひとりで知ってる限りのスペイン語を使って質問し彼らの言葉を必死で聞き取るつもりでいただけに、果たしてそのフランス人との出会いがよかったかどうか、その辺が残念にも思えた、それでも3,40分建物の中に入ることはなかったが、集会所や運動場、学校等を見て回った、、そこのEZLNのメンバーは男性はみな目出帽、女性は口元をスカーフで隠していた、子供達は見えなかった、情報ノートによるとここで宿泊・滞在したとかボランティアで滞在したような記事も読んでいたから、そんなのも交渉しだいかもしれなかった、、が、いずれにしろ今回はちょっとわたしの意気込みは空振りに終わってしまったような結果になった、ま、しかしここがそうやって開かれた場になっていたことを知っただけでも、来た価値があったというべきであろう、、ここを訪れた人が一様にその運動に感動して感想を述べているように、やはりこの運動を理解し支援してもらうために、先住民(&すべての不当に差別されている人たち)の抱えている現実、その実態を伝えていくのが訪れたものの使命だと改めて思い知らされた、、わたしはそのために何をすればよいのか?と、そのおっさんに聞いたけれどよく聞き取れなかった、彼らは自給自足と教育に力を入れているように思われたが、やはり資金援助がもっとも有効かと思われた、わたしは帰りにそこの販売所で売られているグッズを土産として求めるくらいしかできなかったけれど、もっと何かできないものかという思いはいまだに燻っている、、有事の際は武力も辞さないであろうが、今はインターネットを通じて世界中の支援者と連帯し言葉(対話)による革命(変革・改革といったほうが適切か?)を目指している、どうか一度彼らの声に耳を傾けていただけたらという願いも持ち続けている、、たぶんそれが笠置さんの想いでもあったろうと、笠置さんの偉業もしのぶのであった‥(EZLNのリーダー副司令官マルコスは、その美貌もさることながら、語り口の穏やかさやソフトな雰囲気、そして構成員の全幅の信頼に預かっていて、いまや一般の人々からも、現代のゲバラを髣髴させる人気がある)

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208_640x480学校
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 帰りもフランス人の彼とコレクティボを待った、、しかしいつまでたってもそれはやってこなかった、通りがかったタクシーを止めて(すでに人が乗っていたが)相乗りさせてもらってサンクリに戻る、、彼とはサンクリメルカドで別れ、昼飯を食べていなかったのでそこで安い定食を食べる、12年前ここの市場での飯が安くてうまかったのを覚えていた、それは今でも変っていなかった、、

205_640x480_2203_640x480_2入り口の前のお店と通り