独歩の独り世界・旅世界

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Guatemala 報告 最終回 / 帰国

 朝3時50分頃から待機しててください、とのことだったので、もちろん誰とも別れの挨拶はできなかった(世話になった方々には前日に別れを告げていた)、迎えはちゃんと3時50分に来た、内鍵がかかるので鍵を置いて電気を消して、、まだ他の乗客はおらずそれから市内5ヶ所くらい回って7~8人を集客してからシャトルバスは空港に向かった、アンティグア市内も飛行場への道も闇に包まれていたがすべてどこを通っているかはわかった、、夜間だったので40分くらいで着いてしまった、グアテマラの飛行場はここに降りたったのでわかっていたが、それほど大きくもなくまた混雑もしておらずチェックインはいたって簡単、ただすべて流れに任せてしまったので、ほんとは荷物を成田まで受け取らずに澄むようお願いしたかったのだけれど(聞かなかったのでそれが可能だったかどうかは不明、たぶんできたのではないかと思うのだが??)どうやらサンフランシスコ、いや正確にいうとヒューストンで一度ピックアップしなければならないようであった、さらに予期せぬことが起こった、いや、これも正しくいうと起こらなかった、、??つまりあれよあれよ、というまに出国手続きは終了したのだけれど用意していた25Qの出国税を請求されなかったのだ、えっ ! ?どうなってるの ? これは流石にわざわざそのために用意していたものだったから聞いてみた、なんとticketに含まれているとのこと ! !普通はそういわれれば少しは儲けた気分になるのだろうが、このときばかりは違った、えっ ! ? 何故もっと早く言ってくれないの? いやいや、そんなことではない、何故それに気づかなかったかの問題だった、食い物の恨みは恐ろしいのだ、一回り大きなサイズのケーキが買えたということではないか、悔しい ! ! &皆さんゴメンナサイ ! !というのが正直なそのときの気持ちであった、、、あまった25Q+α約30Qでは空港では何も買えない、買う気にもならなかった、が、そんな小銭も両替してくれ4ドルになった、、

 いずれにしろ朝早くて、いやほとんど眠れてなかったから、どうも朦朧としていて何がなんだかわからないままあわただしく出国してしまった、という感じであった、ヒューストンまでは3時間のフライト、この便はそれほど混んではなかった、残念だったのは窓側の席だったにもかかわらず、来るときはあれほど鮮明に下界が眺められたのに今回はそれがかなわなかった、それは飛行高度の問題だったのか、機長のサービス精神いかん、という問題だったのかは不明、意外だったのはメキシコ湾から米国本土に入ってからほとんど荒地か砂漠かと思っていた地帯がほとんど緑に覆われていたこと、つまり不毛の地でなかったということはあらためてその国土の広さをうらやましく思うと同時にそこに造られている道路網はやはり国の力?それとは裏腹に、いやアメリカの抱えている問題を浮き彫りにするようにヒューストンの空港につくと今度は入国審査のための長蛇の列が待ち構えていた、アメリカの入国審査は厳しい、またそれこそ世界中から押し寄せるその人の数の多さも桁違い、それはLAでもそのあとのサンフランシスコでも経験することになるのだが、もしかしたら乗り継ぎ便に間に合わなくなるのではとたいそうイライラ、ヒヤヒヤさせられた時間でもあった、飛行場は広い、いや広すぎる、入国審査が終わって荷物をとって次にどこへ行けばよいのかわからない、次の便のボーディングパスはどこでもらえるのか?人に聞いて荷物を預けると今度はまたセキュリティチェックに長蛇の列、やれやれアメリカという国は大変なところだ、これが多少安かったticketの経なければならない試練のようであった、、いろいろ聞きながらその試練をくぐりぬけ何とか次の便に間に合う、これは満席でほとんどわれわれ乗り継ぎ客を待っているような状態だった、そしてよくわかっていなかったのだが、そのままサンフランシスコに飛ぶのかと思っていたらコロラドデンバーでもう一回乗り換えなければならなかった、おまけにデンバーでの乗り換え便はなんと3時間も遅れているようだった、その待ち時間の間、空港内をうろうろしているとエイシアン(asian)フードの店があった、寿司が並んでいる、たまらずよく確かめずに一個買ってみた、寿司だと思ってぱくついたらなんとそれはベトナムのスプリングロール春巻きだった、どうも少しはましかと思っていた英語がわからない、そんなドジもあわせてそのデンバーの飛行場での待ち時間の間3度も恥をかいてしまうのであった、、当初のサンフランシスコ着予定の17時をだいぶ過ぎて、漸くデンバーを発ったのだから、サンフランシスコに着いたのはもう20時頃だったか、それからの宿探しは厳しかった、無料の宿直通のテレホンが設置されていたが、どこも満室、時間が遅かったのもあったが、どうもその日国際会議か何かで市内のホテルはすべて満室とのことであった、田代でネットでticketを購入したときサンフランシスコの宿も調べていた、安いのがあって予約しようと思ったのだけれど躊躇ってしまった、そしてずっと気になっていたことが現実となってしまった、泊まるところがない、しかも大荷物を伴っていた、仕方ない、まず荷物を何とかしなければ、、場所を聞いて、それでなくてもでかすぎるサンフランシスコの飛行場をうろつく、でかい割にロッカーというものがなく荷物預かり所なるものも1ヶ所しかなかった、しかもその値段を聞いてびっくり、なんと20ドル ! ! ロッカーについてはメキシコの飛行場で100ペソ(700円くらい?)に驚いたのだけれど、さすがアメリカだ、とんでもない金額だったが背に腹は代えられないというやつで、その時点で人間サマの宿泊は諦め、荷物だけの宿泊となった、、サンフランシスコの飛行場にはフードコートに日本の店が出店していて今度は間違いなく、カツ丼とビールの夕食がとれた、腹を満たして一段落、さてどこで寝るか‥!?

 世界の飛行場事情に詳しい人は、仮眠できる飛行場、というのをちゃんと把握している、その点わたしは素人だから、このサンフランシスコの素晴らしく近代的でバカでかい飛行場にどうして仮眠できるところがないのかと不思議に思った、あってしかるべきだと思う、いやここに限らずどこでも、、乗り継ぎ客が夜を明かすのに適当なスペースがあってしかるべきだと思うのだ、残念ながらその適当なスペースは見つからなかった、もちろん椅子の数はやたらに多い、しかしはっきりいって横にはなれない、しばらくはその椅子で休んでいた、夜半を過ぎてフードコートやショップが閉店になったときにやっと横になれるソファ(フードコートの店舗の)を見つける、そこしかなかった、横になれるスペースを陣取った、そして当然そうしたのはわたしだけでなく、ほとんどのソファは瞬く間に夜を明かす旅行者で埋まった、それは短時間であったが熟睡できる場所だった、、

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 あくる朝6時前には起き出して洗面をすませ、予定した行動にでる、ユナイテッドの成田便は13時発、ということは11時のチェックインで間に合うと踏んだ、3~4時間サンフランシスコの街を歩ける、ここは街までBARTという電車?地下鉄で繫がっている、最初ticketの買い方がわからず(自販機しかない)手間取ったが、それでも6時半頃の電車に乗って7時頃にはサンフランシスコのダウンタウンに降りたっていた、グアテマラから来た身にとってはやはり少し寒い、5月だというのにみんな防寒着を羽織っている、それから3時間半飲まず食わずで歩けるだけ歩く、、実はサンフランシスコは初めての街ではなかった、そう、それこそわたしが40年前に初めてアメリカ本土に降り立った地でもあったし、アメリカ滞在中にも何回か訪れていた、わたしの(わたしだけでなく多くの人が)好きな街でもあったのだ、が、いずれにしろ40年前の話し、ほとんど記憶は残っていなかった、なので初めてのつもりで歩き回ったのだが、せっかくのチャンスも制限時間があって回れる範囲は限られてしまった、出だしが有名なケーブルカーの起点、BARTのPowell St.駅だったから、その時ならケーブルカーにも待たずにらくらく乗れたのだけれど(あとでそこに戻ったときケーブルカー待ちの長蛇の列を見て、乗っておけば良かったか、と思った)ともかくケーブルカーの道Powell St.の坂を歩いて登り出した、ユニオンスクエアを右に見て、California St.を左折、ノブヒルNob Hillに、その界隈をうろうろしてケーブルカー博物館に行ってみたが早すぎてまだ開館していなかった、さらに高みを目指す、名もない丘の上、そこは住宅街だったが眺めがよく小さな公園になっていて草花が咲き乱れている、今回の散策で最も気に入ったところだった、通りの名がVallejo St.とあったが、そこは通りでなく(地形が急すぎて、道は途切れていた)階段になっていてそこを下る、降りたところがTaylor St.、その辺りからアルカトラス島が見え、そのまま下っていけばフィッシャーマンズワーフに出る、しかしそんな時間はない、そこから向かった先はワシントンスクエア、中国人街に近く(米国最大のチャイナタウンのあるサンフランシスコには中国系が多く、行き交う人の半数は中国系だった)多くの年寄りが太極拳、その他さまざまな運動をしている、さらに登ってテレグラフヒルの頂上にあるコイトタワーCoit Towerへ、そこからはゴールデンゲイトブリッジが見えたが、素晴らしい展望が期待されたタワートップへは1時間後の開館を待てず諦める、そこから今度はまたフィルバートステップという木の階段を下って、Levi's Plaza(ジーンズLevi'sの本社)あたりではちょうど出勤時間?そんな若者を多く目にする、少し戻る感じでBroadway St.に入って往年の賑わいはないというが、それでも健在のナイトクラブ街、そして今回のお目当てのひとつ、われわれヒッピー世代には懐かしいアレン・ギンズバーグやケラワックらのビートニク運動の拠点だったCity Lights BookstoreやVesvio Cafe、少し下ってTransamerica Pyramidのちょっと変わったとんがり帽子のような高層ビルを眺めながら、最後に中華街をぶらついて、ユニオンスクウエア経由でもとのPowell St.に戻るというルート(最初から決めていたわけでなく、空港でもらった無料の地図-しかも日本語-を見ながら行き当たりばったり)をほとんど休まずに歩いてたっぷり3時間かかった、まだまだ行ってみたいところはたくさんあったし本当にサンフランシスコは見所の多いところでもある、もちろんさらっと流しただけなので、いずれゆっくりまた来よう、来る価値はある、いや住んでもいいかなとさえ思える街であったが、たぶんその機会はもうないだろうと思われた、だから期せずして得られたチャンス、貴重な時間はありがたかった、エアポート~ダウンタウン間の交通費片道8.1ドル(ちょっと高い、グアテマラの15倍?)以外には一銭も使わずのサンフランシスコ見物だった、、、

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 Powell St.駅に着いたときは10時半に近かった、最後に名物のケーブルカーが人力によって方向転換させている光景を写真にとって急いで空港に戻った、もちろん時間があれば中華街あたりで食事したかったが、それができなかったので空港の昨日寝かせてもらったところで何か食べようと思っていたのだが、戻ってみると、それでももう遅いくらいで荷を出してチェックインカウンターに並んで、そうとう順番待ちしてチェックインを終えた時、セキュリティに時間がかかりそうだから急ぐようにと言われてしまった、見るとセキュリティチェックエリアからはみ出した搭乗客の列が、その昨日寝かせてもらったフードコートの辺りまで延びていた、のんびり食事をしてるどころではなさそうだった、実際これで2回目となるアメリカのセキュリティチェックの厳しさは、というより、人が多いので時間がかかりすぎる米国のチェックインはそうとう厄介なもので、結局チェックインに40分セキュリティチェックに4,50分も並ぶこととなった、なのでボーディンゲートに着いたときはすでに搭乗が始まっていた、しかしともかく空腹を抱えてであったが機上の人となった、、

 少々遅れて離陸したユナイテッドは見慣れた3・5・3の座席配置でなく、2・5・2だったから座席のゆとりが感じられた、昔からユナイテッドを使っていたがどうやらコンティネンタルと合併したようであった、機内食も悪くなかった、しかしやはり10時間は長い、寝ようにもなかなか寝付けない、両隣は米国人で年も違うし話すこともない、そういえば最近機内で隣の人と話すことがなくなった、また話をしている人も少ない、特に若い人は電子機器を持ち込んで一人で楽しんでいる、意外だったのは地震の影響で日本へ行く乗客が減っていると聞いていたにもかかわらず、その便はほぼ満席だったことであった‥そうして5月18日30分遅れでサンフランシスコを発ったその便は日付が替わった5月19日の16時半、ちょうど30分遅れで成田着、半年振りに日本に帰り着く、娘と孫が出迎えてくれた、早速やろうと思っていた義援金の寄付をドルで受け付けてくれるところがないかと、空港中探し訪ね歩いたが、そういう場所はなかった、あまったドルをそれにまわしたかったが、それは叶えられなかった、成田周辺は思っていたほどの変化は見られなかったが、帰路ずっと今回の地震の大きさ凄まじさ恐ろしさを聞かされることとなった、そして地震後2ヶ月がたっていたがほとんど復興が進んでいないことを知るのは帰宅した後であった、、

 確かに3.11は思うに1945の敗戦に次ぐ、歴史的な出来事といえる大惨事であったことは了解していたが、それを体験していない、共有していないという意味を問われているような気がしている‥、結局、被災者のかたがたに対しては、お気の毒なこととお見舞い申し上げ、義援金の寄付しかできないわたしの無力をさいなむのだが、今回ばかりは帰ってきて家族が無事だったこと、とりあえず普通の生活ができていることに安堵するという奇妙な帰国となった、、、

 今の気持ちをうまく言い表せない&閉めの言葉が見つからないが、今回の旅の報告はこの辺で ~