独歩の独り世界・旅世界

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中欧 バスの旅 22 ) クラクフ(またはクラコウ)/ポーランド

  ルーマニア以外では汽車を利用していなかったから、ちょっと奇異に感じたのだけれど、この新しく立派なプラハ中央駅の列車の出発予定掲示板に行き先と時刻は表示されていたが、出発間際までそのホームが明らかにならなかったことだった、、それにはさすがにイライラというか気を揉んでその1時間あまりの間はずっとその掲示板の前から動けずにいた、、その前1時間くらいは数日前の朝、わざわざその場を見にいったアールヌーボォ様式の3階の待合室にいた、、しかしそこはカフェになっており、本来は何がしかの飲み物を注文してはじめていられるところであったが、あいにく持ち合わせがなく何も注文せずにそこにいさせてもらった、、もっともほとんど明るい照明がなく、そこでお茶なりビールなりを飲んでいる人は誰もいなかったのだ、、だからわたしとしてはフリースペースのつもりで使わせてもらっていたのだ、、で、信じがたいことだが出発ホームがわかったのは発車時刻の30分くらい前で列車が到着したのは15分くらい前のことであった、、早速乗り込む、、どうやらがらがらであった、、これなら座席指定にする必要はなかったのかもしれないが、いわゆる自由席というものがあったのかどうかもわからなかった、、片側4人掛け8人部屋のコンパートメントに乗客はたった二人、、同室になったのはなんとカナダから来たというまだ20代の女性であった、、なので片側4人掛けのシートは一人分のベッドとして十分なスペースとなった、、つまり寝台車を利用しているようなものだった、、しかしわたしは男だから別にかまわなかったが、相手の女性からしてみればやはり参ったなぁというのが本音だったのではないだろうか?、そのときブダペストで会った彼女が言っていた言葉を思い出した、、まさに彼女が心配して夜汽車を利用しなかったその状況が出現していたことになる、、だからわたしも気を遣うこととなった、、最初に挨拶交わしたきりで話はしなかった、、次に彼女のことを思って照明はつけっぱなしにしカーテンも閉めなかった、、そしてわたしはすぐに寝る体勢にはいった、、もし電気を消してくれたらもしかしたら安らかに眠れたかもしれないが、もうひとつ眠れない理由があった、、なんとこの列車は暑すぎたのだ、、おそらく外はここのところ寒さが厳しくなっていたし、ましてより北にあるポーランドに向かっていたのだから相当冷え込んでいたと思われる、、だから暖房が入っているのはありがたかったのだけれど、ものには程度限度といったものがあろう‥、、つまりこの列車の暖房はあろうことか温度調節ができなかったのである、、後でトイレに行ったときにほかの部屋を見てそれがわれわれの部屋だけでないことを知る、、もっともほかの部屋もたいていは2人か3人くらいしかおらず、中には無人の部屋もあったが照明がついてる部屋はなかった、、スチームはどんどんどんどん暑くなってその対策としては着ているものを脱いでいくほかはなく、わたしも彼女も最後は半そでTシャツ一枚となっていた、、それでもわたしに言わせればわたしよりずっと彼女のほうが熟睡していたように思われる、、クラクフ到着間際まで彼女は起きている様子がなかった、、クラクフ到着は6時35分、、到着後しばらくは体が火照っていたが、だんだんその寒さが身に沁みてきた、、

 寝不足だったし寝ぼけ眼でもあって、まったく不案内の地に、わたしは初め違う駅で降りてしまったかと心配した、、というのもガイドブックに乗っていた駅と趣がまったく違っていて、しばらく駅前を歩いてみたが、いわゆるヨーロッパの駅の雰囲気でない、、そこはステーションデパートのようなところであった、、駅近くにあるはずのバスターミナルも見つけることができなかった、、しばらくうろうろして反対側に行ってみた、、そこにバスターミナルがあってどうやら間違っていなかった確証を得る、、その間30分くらい?そのバスターミナルのコーヒーショップのようなところがすでに開いており、ひとまずそこに落ち着いて朝食をとる、、昨日の晩プラハでろくなものを食べてなかったのでそこで食べたスープとパンは元気をつけてくれた、、ポーランド通貨を持っていなかったが2ユーロでOKだった、、ひと息ついてバスターミナルから行動を起こす、、ターミナルを出るとすぐに両替屋があったのでまず10ユーロ換金、、隣に安そうなペンションがありベルを押すが応答なく、その周辺を一回りして見つけたホステルに入ってみる、、そこの入り口はレストランになっておりちょっと入りにくかったが、まぁなるようになれ‥、で、入るとかわいい女の子が一人いて、まだ朝早いというのに客のビールの注文を受けていた、、多少英語を話し部屋は空いているということ部屋代は29ユーロだと教えてくれた、、部屋を見てこいというので昔風の建物の階段を3階まであがって覗いてみるとなかなかよい部屋だった、、すぐ下に降りて29ユーロ払ってついでにその娘がチャーミングだったからか、あまりに客がビールを注文していたからか、何しろうまそうだったのでわたしもビールを一杯注文して、それを持って部屋に上がる、、荷を解きホットシャワーを浴び、出かける準備にかかる、、やらねばならないことはまずバス便のチェック、それとアウシュヴィツツアーの予約、、ここのホステルでもアウシュヴィツツアーの斡旋はしていたが、即答せずにバスターミナルへ向かった、、といってもバスターミナルは目の前、そのころにはユーロラインのオフィスも開いていた、、早速情報を聞くも大方予想通りでユーロラインパスはほとんど使えないとのことがわかる、、ここまで来るのに使えなかったのでそれは当然だったが、プラハブダペスト・ブラティスラバ・コシツェ・ウィーンへの運行はあっても唯一使えるラインはドイツ/ベルリンだけとのことだった、、さて、ではどうするか?、ちょっと考えさせてもらうためウイーン、コシツェ、ブラティスラバ、プラハ、ブタペストの料金を参考のため教えてくれというと彼女はそれらをすべて手書きで書いてくれたのであった、、ベルリン経由でフランクフルトまで帰れるか?あるいはコシツェ経由でウイーンへ出るとどのくらい時間かかりそうか?などを考えるためいったん宿に戻った(ビールを頼んだのはそのときだったかもしれない)、、うーん悩ましい、、一番安く戻れるルートはどこか?一番望ましいルートはどれだ?その日はもう10月19日になっていて残された時間はあまりなかった、、ここでの決定はほぼそれ以降のルート・日程を決めてしまうことになる、、出した結論は以下のものであった、、まず明日の夜ウイーンへ向かう、、別途129ズウォティ?約3500円は仕方なしとし、21日は一日ウイーン、、同日夜のバスでフランクフルトまで行けるはずだったから22日の夜はフランクフルトに泊まれる、、そうすれば23日の飛行機には楽勝だ、というものであった、、早速オフィスに戻って明日の夜のウィーン行きを予約した、、このticketはそういう意味では悔しいticketであったが、それ以外にスムーズに戻れそうな選択はなかったように思う、、これである程度ユーロラインパスの使える範囲がわかったともいえた、、それは当初の思惑を大幅に修正せざるをえないものであった、というよりほとんど使えないものだった、ということだった‥、、

  再び宿に戻って一階のレストランで食事をとる、、ポーランド料理のメニュウも豊富でそんなに高くはなかった、、それにウェイトレス(兼ホテルの受付もする)の女の子がとても愛想がよかったのだ、、ともかくスープとパンで結構満腹になり、なおかつ安上がりであった、、そして再び街に出る、、寒かった、、地下道をくぐって出たところにガイドブックにあったクラクフ本駅がちゃんとあった、、広い駅前広場、トラムの行き交う大通りをここも地下道をくぐって向こう側に渡る、、公園になっており城壁の向こうが旧市街のようだった、、丸い円筒形の珍しい形をした砦の後ろにフロリアンスク門という城壁に作られたゲートがあって、そこをくぐってしばらく行くと中央市場広場というところに出る、、そこがこのクラクフの中心と思われた、、そこに織物会館とか聖マリア教会、聖ヴォイチェフ教会、旧市庁舎といった古い歴史を感じさせる建物が建ち並んでいる、、その広場を中心にその周辺を歩き回る、、アウシュヴィッツツアーは結構何件もの業者によって主催されているらしく、いくつか勧誘を受ける、、そのうちのひとつ、他より安かったので明日朝のツアーを予約、、それはホテルで聞いた値段より8ユーロくらい安かった、、その後お城まで歩く、、確かに古きよき歴史の街、昔の王都にふさわしいたたずまい、お城の造りも見事なのだが、残念ながらその日観光には寒すぎる一日であった、、お城についたころには雨が降りだして、雨宿りにヴァヴェル城旧王宮の内部を見学したがそれは見事な展示品ばかりであった、、それでもやまない雨の中また中央市場広場まで戻り織物会館の中の土産物屋でまた雨宿り、、小雨になったのを見計らって宿に戻る、、確かに古きよき時代の街並みが残る美しき旧都クラクフも天気には抗えない?いささか興趣に欠けてしまった、、帰り道地下道に軒を連ねる花屋やパン屋や日用品などを商いするスタンドのひとつでパンを買う、、ホテルの近くの雑貨屋でビールとチーズを仕入れ宿でちびりちびりやり始める、、その夜1階のレストランで頼んだ食事は大失敗であった、、ポーランド名物のポテトパンケーキ、ブラツキジェムニァツァーネ?後で後悔したのだけれどよくよくメニュウを見たら小さいサイズがあったのだ、、つまりわたしは普通サイズを頼んだのだがそれは一人で食べるにはでかすぎた、、いくら残すのが大嫌いで、でたものはほとんど平らげてしまうわたしだがそんなわたしの手におえる量ではなかった、、悔しいけど降参してしまった、、同時に頼んだホットワインは例の薬草入りのやつでこれもわれわれの口からすると賛否分かれるところかもしれないと思った、、郷土料理と地ワインを味わえたのだから文句を言うのはバチが当たる、、しかしなんかぴたりと決まるというのでもなかった、、

 さてアウシュヴィッツツアー、翌朝8時10分前、昨日のフロリアンスカ門の近くが集合場所であった、、いつものように寝るのが早いから目覚めも早く、たいてい4時か5時ころトイレに起きて遅くとも6時には寝床を離れていたので、この日も7時にはチェックアウトした、、ここのレストランは9時頃からだったので鍵はポストボックスに入れておくよう言われていて、そのため荷物を預けるには前日の夜に1階のレストランに持っていっておかねばならなかった、、だからその朝ポストに鍵を入れると後は空身に等しかったが、服装だけは持っていた厚手のものを重ね着しておいた、、昨日仕入れておいたパンとバスターミナルの自販機のコーヒーで朝食とし、朝もやの中を指定された集合場所に向かう、、バスは40人乗りくらいの豪華な観光バスで英語のバスガイド・男性と英語のアウシュヴィツガイド・女性が同乗していた、、バスはほとんど満席に近かった、、このバスツアーで一番その英語のガイドを聞き取れなかったのはおそらくわたしであっただろう、、それは日本語のツアーバスがなかった、あるいは見つけることができなかったので仕方のないことだったが、今後もしこのツアーに参加する機会を得る日本人がいるとしたら、できるだけ日本語でのツアーに参加されることを勧める、、なぜなら特にアウシュヴィッツツアーのガイド説明は決して聞き逃してはならないものに感じたからである、、ほとんどその英語説明が理解できないわたしだったが、そこで目撃するものからその場その当時の状況は伝わってくる、、ましてあの寒さだ、、できる限りの防寒対策をとっていったにもかかわらず、その場は凍えるように寒く感じた、、その当時そこにいた人々の写真に残っているその姿、その服装からして、それがどれほどの状況だったかは容易に想像がつく、、ましてやそれは寒さだけの話ではない、、そういう意味では想像を絶する残虐・残忍な人々が支配したまったく想像を絶する世界がそこにあったのだ ! !、、そんなことが行われたという忌まわしき現場に立たされたときのその震えは決して忘れてはならないように思えたし、わたし自身忘れることはないだろうと思わされた、、うーん、ほんとに重くのしかかる負の遺産だ、、しかしだからといって決して避けてはならないツアーでもあるように思われた、、アウシュヴィッツとビルケナウ(アウシュヴィッツから2,3kmのところにあったアウシュヴィッツより広大な敷地の収容所)のツアーはトータル6時間くらい?、クラクフから片道1時間くらいのその沿道は赤・黄に色づいた紅葉の美しい田舎道であった、、14時頃クラクフに戻り解散となる、、その後の時間をまた市内見物に費やした、、特に昨日訪れていないカジミエーシュ地区と呼ばれるユダヤ人教会やユダヤ人の墓地が残されている界隈を歩き回ってみた、、それでも21時30分発のバスまで時間が余りすぎた、、夕食は昨夜の宿のレストランで何度目かの食事、、荷物を受け取り長い間バスターミナルの椅子でバスを待つこととなった、、そこは暖房が効いていたので寒さだけは凌げたのだった‥、、

クラクフ;中央市場広場main market square4枚とお城<博物館含む>他市街5枚2010_1019_173543p1030040_640x4802010_1019_173654p1030041_640x4802010_1019_230440p1030065_480x6402010_1019030jpg_blog2010_1020002jpg_blog2010_1019_213833p1030052_640x4802010_1020_223207p1030095_640x4802010_1019_221932p1030058_640x480
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