独歩の独り世界・旅世界

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中欧 バスの旅 19 )デヴァ/ルーマニア

 誰もいない部屋で朝食を食べた、、テーブルがいくつかあって食事場所なのだが、わたしが起きてそこへ来るのを見届けると事務所の女性(昨日の女性とは別であった)が飛んできてパンとコーヒーと数種類のサラミ・ソーセージ、バターとジャムを出してくれた、、ちょっと貧相だったが別に文句はない、、何回も食事を抜いてきていたので食べられるだけありがたかった、、食事のあとせっかくだから1時間ほどオラシティエの街をぶらついてみた、、ちょっと行ったところに昔の城壁があって中には入れなかったが教会のような城のようなかなり年代ものの堅牢な建物が残っていた、、ここも中世からの街だったようだ、、ほんとにヨーロッパはどこへ行っても歴史的建造物が残っていてここも例外ではなかったのだ、、そこを中心としていわゆる旧市街というかこの街も発展したようで、その近くには広場や比較的新しいつくりの教会やもっと高級そうなホテルや両替屋や飲食店があって、現在もそのあたりがこの街の中心地のようであった、、何枚かの写真を撮り両替をしてホテルに戻りチェックアウトした、、事務所に鍵を渡しに行くと陽気なおばさんとどんな立場の人かわからなかったが男性とお手伝いの女性がいて賑やかだった、、昨日のケーキはどうだったとその陽気なおばさんに聞かれた、、確かに昨日イタリア人たちと一緒に盛り上がっていた中にいた人だった、、彼女がそのケーキを作ったらしいこととここのオーナーらしいことがわかった、、あいにくまだ食べてなかったけどおいしかったといって礼を言った、、そしたらまたコーヒーをご馳走になってしまった、、急いでいなかったのでそのコーヒーを飲みながらここに電話してくれないかと昨日のタクシー運転手がくれた紙切れを渡して頼んでみた、、すぐに電話してくれ10分ほどで来るからと言ってくれた、、確かに陽気で気のいいルーマニア人気質に思えた、、ルーマニアは歴史的にイタリアと関係が深く、だからイタリア人の観光客も多いようだが気質的にも似ているように思えた、、まさか彼女はイタリア人ではなかったと思うがイタリア人だったとしてもなんら不思議な感じはしなかった、、そこへまた陽気な昨日のタクシードライバーが入ってきてまたみんなで一花咲かせるのだった、、そのタクシーの運転手はわたしのことを彼らにどう話したかはわからない、、また昨日のホテルに泊まっているはずのわたしが今ここにいることをどう思ったかもわたしの知るところではなかった、、しかしわたしは安い料金だけれど駅までまた彼に頼んでよかったのではないかと思っている、、昨日はホテルまで6レイで連れて行くと約束してホテルまで行ったらメーターは8レイになっていた、、が、彼は6レイしか受け取らなかった、、その朝わたしはメーター通り8レイ払った、、

 昨日の人とは別だったがやはり女性の駅員が窓口に一人いて、同じ事を聞いてもしょうがないのでとりあえずわたしはデヴァまでの切符を買った、、駅に来るまでこの後どこへ行くかは決めていなかった、、右でも左でもよかったのだが昨日の駅員さんが言っていたとりあえず大きな駅で一番近いところがデヴァだったのだ、、そこはこのオラシティエから西へ26km電車(?汽車)で40分くらいのところにあり料金は3.7レイだった、、この超ローカルな駅に停車する列車も少なく、左方向はたいていデヴァ行きであったし次の列車も9時39分発のデヴァ方面で20分くらいの待ち時間であった、、ここからの乗客も数名しかいなかったし来た列車もがらがらであった、、しかし5分ほど走った次の駅で結構乗客がありその中にロマの家族がいてわたしが座っていたボックスのはす向かいのボックスに座った、、一見してロマ(ジプシー)とわかる人を最初に見かけたのはブダペストに向かうバスに乗ってきた婆さんだったがそのあとブダペストでは何人か、ルーマニアに入ってからはもっと多く見かけてはいた、、このときの家族は婆さんとその娘とその息子、つまり親子3代であった、、例のカラフルでユニークな服装やその顔立ちですぐそれとわかる、、わたしの近くにはこの乗客しかいなかったのでしばらく観察させてもらう、、そのうちまだ若くて美人の娘つまり孫になる2、3歳の坊やのお母さんがわたしに気づいた、、変な外国人がいる、、カモになるとかもと思ったかもしれない、、しばらく向こうもこっちを窺っていたが、まずその子供をわたしの所に寄こす、、ヨチヨチ歩いてその子はやってきて手を差し出した、、おー来たか、とわたしは日本から持ってきていたキャンディを1個あげた、、その子はいったん親のところに戻ったがまた来る、、もうひとつ渡す、、これで味をしめたか感触ありと思ったか今度は親子でやって来た、、この子は何も食べていない、なんか頂戴としぐさで示す、、そんなことは百も承知(つまり真っ赤なうそ)、彼女は知らなかったであろうがわたしはロマ贔屓でロマのことはよく知っていたのだ、、だからうそとわかっていたがその子、というかロマには何らかの施しをしてあげたかったから残っていたあのケーキをあげてしまった、、実は後からそれを悔やむことになったが、その坊主がむしゃむしゃとケーキを食べつくしたので、ま、よかったかなと思うようにした、、しかしその親である娘はお礼の一言も言わずさらになんかくれと要求してきた、、それも承知のことだったので後は無視した、、そのうち諦めてもとの席に戻っていった、、わたしはケーキを食われた上にお礼の一言もなかったことなどはどうでもよく、ロマに直接触れることができたことをむしろ喜んでいた、、列車はまもなくデヴァの駅に到着した、、駅に降りたら職のない成人したロマの男たちがうろうろしていて何か恵んでくれと大勢がよってきた‥、、

 ロマの問題は深くて長い歴史がある、、同情こそすれ一介の旅人に何ができるものでもない、、しかしこのルーマニアにはヨーロッパの中で一番多くのロマがいて、その差別と貧困にさらされている、、が、かわいそうだけどわたしには何もできなかった、、旅こそすれそれほど余裕があるわけでなく、かといって差別感情を持っているわけでもなかった、、もし個人的な関わりがあれば何とかしてあげたいのだが今のところ傍観者だ、、しかし彼らのおかれている境遇はわかっているつもりだった、、それでもロマの成人した男たちはあえて無視してわたしはデヴァのインフォメーションの窓口を訪ねた、、ルーマニアをすっかり鉄道で回っていたわたしは、ここからの道を決めなければならなかった、、インフォーメーションに行く前に駅に掲示されているタイムテーブルを見ていた、、そこで初めて知ったことだがなんとここから直接ブタペストに行く急行があったのだ、、何本かあった中の一本はdailyで13時42分発となっていた、そぉかぁ、ここから汽車なら一本でブタペストに戻れるのかぁ、気持ちが揺らいだ、、できればティミショアラまで行ってみたかったのだけれど、そうするとどっちにしろこのラインまで戻ってこなければならない、、ティミショアラ行きの列車の時刻からするとそこまで行ってしまうとブタペストへの戻りはたぶん2日後になる、、それは当初の予定通りだったがその後のことを考えると日程的には厳しくなってくる、、早く戻れればそれに越したことはない‥、、結局ティミショアラと未訪の国・街、クラクフやスロヴァキアの北部との天秤となった、、さてどっちをとるか?ここはひとつの岐路・決断だったと思う、、わたしのくだした結論はブカレストやティミショアラには行けなかったがまったく知らなかった街、予定になかった街のオラディア、シギショアラ、シビウ、オラシティエ、そしてこれから数時間この街デヴァを回ればルーマニアはとりあえず今回よしとしよう、、それだけでも短期間だったけれどもルーマニアのよさを垣間見ることができたのではないか、ということにした、、わたしはインフォーメーションでブタペスト行き汽車の情報を聞いていた、、それによるとデウァ発13時42分ブダペスト着18時47分で120レイとのこと、空席はあるとのことだった、、

 デヴァのシンボルは駅を降りたときからわかっていた、、もっと正確に言うなら昨日最初に行ったホテルでもらった観光マップを見ててルーマニア語であったがデヴァにそのお城があることはわかっていた、、即ちデヴァ城跡である、、しかしまさかそれが駅から見える範囲にあるとはデヴァ駅につくまでは知らないことであった、、13時42分まで時間は3時間、歩いても行ってこられる距離だと駅を降りたときに目測していた、、それでもその高さは標高差100mくらいあったのだろうか?だからこそ市内のどこからでも、つまり駅からでもその丘?山上のデヴァ城址は見えていたのであった、、ブダペスト行きの切符を手にしたわたしは早速そちらの方向へ向かって歩きだした、、よくよく見るとその山上へ登るケーブルカーがあるようだった、、なら余計楽勝だ、、しかし問題はひとつだけあった、、ケーブルカーがあるならそれを利用したほうが楽に決まっているし、それでなくても時間に余裕がなかったのだから迷うことはなかったのだが、そのときわたしはブダペスト行きのticketを買ってしまった後だったからルーマニアレイがなくなりかけていたのだった、、もちろんそれは気づいていたからそのケーブルカーの乗り場へ行くまでの30分くらいの間、ずっと大きな通りを通って両替屋を探していた、、が、あいにく一軒も見つけることができなかった、、こうなれば行ってユーロが使えるか、あるいはその近くに両替屋がないか聞いてみるしかなかった、、で、思ったより早くそこに着いたのだけれど結果的にはまた街まで戻らなければならなくなった、、わたしはそのとき10レイの金がなかったのだ、、そのためにまた街に戻って今度は本腰を入れて両替屋を探した、、幸い街の中心部の街角にそれはあった、、5ユーロを換金して再びデヴァ城址のケーブルカー乗り場に戻った、、小一時間のロスとなった、、ケーブルカーは山上まで10分足らず(歩きだったら往復1時間半といったところか?)だったが流石に上からの見晴らしはよくデヴァ市街が一望のもとだった、、しかしもやっていたのかスモッグか遠望はあまりきかなかった、、さらにその威容を誇る山上の城の上部まで歩いて上れるのかと思っていたが、たまたまそこは工事中で入場禁止となっていて城址の石の砦を間近に確認するにとどまった、、ならばそこに長居は無用下りのロープウェイに乗った、、他の地でもそうだったが、その日も小学生の遠足のようなグループが来ているほどの観光地で土産物屋は露店が1軒店を開けていたが何故か絵葉書は売っていなかった、、結局ルーマニアでは土産も絵葉書も買うことなくこの地でルーマニア観光を終えることになった、、デヴァの街の中心部を適当な飯屋はないかと探しながら歩いたがここでもここならという店に出くわさなかった、、その代わり見なければよかった?ものを見つけてしまった、、それは中心部の街角にぽつんと立っていた、、ユーロラインのバス停があったのだった、、えっー ! ? どういうこと?? バス停には何の情報も掲示されていなかったが確かに旅行代理店の看板にユーロラインの広告は見ていた、、が、汽車のticketを買ってしまった後だったので店の中に入って詳しく聞くことはしなかった、、ただ後から調べた限りではそのバスはプラハから出ていたのだ、、プラハで聞いたときルーマニアへは週1便か2便あるといっていたバスはここを通って昨日のシビウにも寄って(他のルーマニアの諸都市を経由して)ブカレストまで行っていたようだ、、まぁタイミングがあえばユーロラインも使えることがわかった、、ちょっと悔しい思いで駅に戻る、、駅前のスタンドで庶民がそうしているように安い食事ができそうだった、、昨日のレストランで食べたmititie(昨日もそうだったが何本か聞かれる、昨日も今日も2本注文、それ以上は食べられそうになかった)とパンとビールを注文8レイは安すぎる、、これでルーマニアレイの残りが2.3レイ(70円?)となった、、何とか使い切りたいと思ったが適当なものがない、、普通のビールやコーラの類は3レイくらいでちょっと足りない、、が、よくよく探したらプラスティック性の容器に入ったビールらしいものがこのスタンドの飲み物のボックスの中にあって2.5レイとの表示されていた、、スタンドのおネェちゃんに最後の金だ2.3レイにまけてくれと言うとすんなりOKしてくれた、、なんと太っ腹なおネェちゃんなんだ、、たった0.2レイ10円にも満たない金額であったが、それまでに経験したことのない好意だった、、そこに寛大な精神・ルーマニア人の心を感じてしまった、、またまたお礼するものがなかったので今度は50円玉を記念に置いてきた、、それも彼女が喜んでくれたかどうかはわからない‥??、、

 ブダペスト行きの汽車はまたもガラガラで向かい合わせ6人がけのコンパートメントにわたし一人、ということは誰にも気を使う必要がないということだった、、さっき買ったプラスティックボトルのビールを開けてみた、、確かにそれはビールだった、、ということは水より安いことになる、、ちょっと信じられなかったしその容器は思い出としてわたしのお土産となった、、そのブダペスト行き国際列車は2時間くらいどこにも停まらずハンガリープスタ地続きの平原を突っ走りその間わたしはたった一人のコンパートメントで寛いでいた、、ブダペストで最初に入国を目指したアラドの街に16時10分着、しかしそこからも誰も乗ってくる人はいなかった、、16時半には国境の街に到着パスポートチェックを受ける、、少し進んで今度はハンガリーのパスポートチェック、、そこで1時間時差を戻したが理由はよくわからなかったが結局そこに1時間停車していたのでそこに到着した時間と同じ時刻にそのハンガリーの国境駅を出発することとなった、、しばらく行くとBekescsabeという駅で初めて相客が現れた、、ハンガリーのおばさん二人だったがずっとおしゃべりしていてくれたおかげで気を使わずにすんだ、、その二人も1時間くらい走ったころSzolnokという大きな駅で下車し代わって若い男の子が乗ってきた、、最初お互いに気を使って黙っていたが、逆にわたしが気を使って話しかけてみた、、高校生だったが多少英語がしゃべれた、、お互いの片言の英語で会話は進んだ、、彼はこのSzolnokというところにお母さんと住んでおり仕事の都合でブダペストに住んでいるお父さんのところにこれから行くところだと言っていた、、そして高校ではボート部に所属しており今年のユースの国際大会にシングルスカル?の部で出場したと言っていたからもしかしたら将来のホープかもしれなかった、、わたしは日本人だというと日本人と話すのは初めてだとも言っていた、、そしてお互いの国の言葉を教えあっていたら瞬く間にブタペストに着いてしまった、、教わったばかりのハンガリー語‘ウィスッラッ(see you again)?’と言って彼とは別れた、、ハンガリー時間19時50分、ブダペスト東駅に着いていた、、

(後日談 ; その日訪れたデヴァという街について日本に帰ってから知ったことがある、、この街はある意味で日本人が知っているもっとも有名なルーマニア人に関係のある街だったのだ、、その人の名はコマネチ、若い人は知らないかもしれないがオリンピックの体操の金メダリストである、、ルーマニア体操競技が盛んで国を挙げてその育成に力を入れているのだが、その体操学校がこのデヴァにあったということだった、、そんなの全然知らないことだった‥ ! ! )

オラシティエの街の中心には新しい教会と古い教会があった、、2010_1015_143628p1020860_640x4802010_1015_142626p1020858_640x480

駅前からデヴァ城は見えた、、;3枚2010_1015018jpg_blog 2010_1015_164236p1020864_640x4802010_1015_164956p1020865_640x480


ケーブルカーを降りたあたり、、山上の城址は工事中だった、、2010_1015014jpg_blog

上からの展望は霞んでいていまいち、、

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駅前のスタンドで昼飯を食う、、2010_1015019jpg_blog 2010_1015_192646p1020878_640x480ルーマニア女性は気前も愛想もよかった、、