独歩の独り世界・旅世界

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中欧 バスの旅 13 ) プラハ~ブラティスラヴァ

 だいたいどこでも宿に泊まった時はテレビを見るわけでもないから床に就くのは早い、、ただしすぐに眠れるかどうかは全く別の話だ、、結構疲れていたりビールを飲んだりしているから、眠れる条件は整っているのだけれど、たとえば寒かったりベッドが柔らかすぎたりするとなかなか熟睡はできない、、しかし、いずれにしろ朝は早い、、この日も夜中に何度かトイレに起きた、、その都度鍵を持って電気を探して隣のトイレに行ったが、何度目かの時になんでトイレの入り口に鍵をかけなければならないのかと気づいて入り口は開けっ放しにし電気はつけっぱなしにした、、何しろ宿泊者と思われる人とは一度も顔を合せなかったしそのための部屋もこの階には隣の一部屋くらいしかそれらしいところはなかったのだ、、不思議な施設であった、、それでも管理人?のおばさんは、別の人だったが7時には来ていてやっぱり英語は通じなかったが、チェックアウトするというこちらの意志はわかってくれたようだ、、にわか仕立てのチェコ語でありがとうと言ってみたが通じたかどうかはわからなかった、、

 外は結構寒かった、、地下鉄を乗り継いでまず向かった先はバスターミナル、、そこにコインロッカーではない(昔日本もそうだった)有人の荷物預り所があったのを前日に気づいていたからだった、、荷を預け身軽になってまた地下鉄に乗って一駅、昨日行ってみようと思っていて結局行けなかったプラハ中央駅を見てみようと思った、、ガイドブックにあった駅の写真がとっても印象的だったからだ、、西側の新しいプラハ中央駅はとても近代的な建物であったが、写真にあったアールヌーボー様式で装飾された円天井を持つ待合室は東側にあって、たぶんそこは昔のまま取り壊さずに保存されているような空間だった、、だから人波でごった返す新しい建物と違って人気(ヒトケ)がまるでなかった、、たまにちょうどそこが大通りの玄関口にあたるため観光バスやタクシーが停まって人々が出入りするのに利用されているくらいであった、、おそらくここが昔の表玄関だったと思われるが今は取り残されたような、だから余計わびしさと懐かしさの入り混じった味わいのある空間を醸し出しているような場所であった、、西側から入ったわたしはそこから駅を出てその道沿いにあるはずの国立博物館を目指して歩きだした、、が、珍しいことに錯覚があったようだ(今もってその謎がわからない)、、いくら歩いてもそんな建物はなかった、、わたしは全く逆に向かって歩いていたのだ、、気づいた時はもうだいぶ歩いてしまっていたので戻る気はしなかった、、で、また地図を見直して、今度はその近くを通っていたトラムに乗ってみた、、それでようやく街の中心部まで行くことができた、、ヴァーツラフ広場という1968年のプラハの春事件で有名になった国立博物館からプラハの心臓部といわれている旧市街広場に伸びる大通りの一画に下車したわたしはそこからそのプラハの心臓部たる旧市街広場までの歩いてみた、、広場になっている大通りが狭い路地に変わり、その路地を抜けると広場にでた、、そこはまさに中世の佇まい?旧市庁舎・ティーン教会・聖ミクラーシュ教会・ゴルツキンスキー宮殿・石の鐘の家といった古き良き時代の由緒ある建物が広場を囲っており、その真ん中にヤンフスの像というのがあった、、それはその像を中心としてどこから写真を撮ったとしてもすべて絵になる様な広場であった、、プラハの心臓部だけあってオープンテラスのカフェやレストラン、土産物屋などが広場に面して軒を連ねており、いつも人波であふれているのが容易に想像できたが、その時はまだ朝が早すぎたようだ、、人影はまばらで日の光も弱く石畳みのその空間は冷え冷えとしていた、、実際寒くて何枚かの写真を撮ってしばらくその周りや路地裏を徘徊して旧市庁舎の天文時計が9時を打つのを待ってそこを離れる、、トラムに乗って対岸のプラハ城に行ってみることにした、、少し高台にあるプラハ城までトラムは橋を渡り対岸の石畳みの狭い路地裏を縫ってプラハ城の北の入り口あたりまで運んでくれるのだが、それほど距離も高低差もあるわけではないので、時間があればカレル橋を歩いて渡って古い街並みの狭い石畳みの路地裏を探索しながらゆっくりプラハ城に上っていくのがやはりbest way 正解であろう、、わたしはそのルートを帰りに使う、、ともかく結論からいうとプラハの良さは(美しさではない、それについてはいずれまた)要所要所すべて歩いて行ける範囲にあるということになるのではなかろうかと思われた、、そうして城の中の見上げるような聖ヴィート大聖堂や数々の建物を見学、城からヴルタヴァ川越しに見るプラハの赤い屋根瓦の街並みに感嘆していると時間はどんどんなくなっていった、、ま、実際プラハ半日ではその魅力を充分に堪能するのには無理なことわかりすぎるほどわかっていたが、これは巡りあわせの問題で仕方のないことだった、、それでも急所だけはおさえておきたかった、、だから食事の時間も省いて歩き回ったのだ、、プラハ城から歩いて下り昔の街並みを散策しながらカレル橋を渡ってクレメンティヌム、そこから北へ歩いてユダヤ人地区へ、再び旧市街広場に戻ったところでほぼ時間切れ、、残り2ヶ所見ておきたかったところの市民会館とその脇にある火薬塔を見逃すこととなった、、12時半過ぎギリギリに地下鉄でバスターミナルに着くとすぐに荷物を受け取り(料金25チェココロナ約100円、安くて安心)マクドナルドに負けずに世界中どこにでもあるバーガーキングで少々高いと思ったが、時間的余裕がなさ過ぎた、、セットを買ってしまう、、そしてすでに到着していたプラティスラバ行のバスに持ち込んだ、、バスの中ではこれまでほとんど食べ物・飲み物は口にしないようにしてきたが、朝昼抜きだったので周りを気にしながらバスが動き出してから食事を始める、、結構満席で二人分の座席を一人で占めるというわけにはいかなかった、、腹が収まったところでようやく一息ついて少し眠ってしまう、、

 スロヴァキアへの道は一応高速道路だったが、チェコの高速はやはりアウトバーンに比べて走り心地いまひとつであった、、ボヘミアの街プラハからモラヴィアの街ブルノへ(同じ国内にあってボヘミアモラヴィアは日本の関東と関西ほどに違うことを後に出会ったチェコ在住の日本人に聞く)、、ここも中世の城や街並みを残しトゥーゲントハート邸という世界遺産に登録されている建物があったりする古くからの文化都市で、かつチェコ第2の都市なので当初は滞在予定に入っていたが今となってはパスするしかなかった、、高速を降りたバスが街並みを走っていると高台にそびえる聖ペテロ聖パウロ教会らしき建物が見えてきてそこがブルノだということがわかった、、15時半だった、、駅前のバス停に5分間停車してバスはすぐに発車、ブルノの城シュピルベルク城も見えないかと目を凝らしたが残念ながら確認できなかった、、16時15分スロヴァキアに入り道が少し良くなる、、17時05分スロヴァキアの首都ブラティスラバに到着した、、

 その昔我々はチェコスロヴァキアと教わって、その首都はプラハとずっと頭の中に残っていた、、チェコとスロヴァキアに分かれたのがいつだったのか?なぜ分断したのか?よく覚えていないのだが(1993年1月1日分離独立と後に知るが、その経緯ならびに結果としてそれがよかったことなのか、いまいちよくわかっていないと後に会ったチェコ在住日本人は語っていた)その首都がブラティスラバ(Bratislava)という美しい響きを持つ街だというのは今回の旅を前にして初めて知ったことだった、、だからこの街にもかなり興味があってやはり訪問予定地の一つになっていた、、現在のスロヴァキアの首都でありその昔かなり長い間ハンガリー帝国の都だったこの街はやはり中世の面影が濃厚に残されており、その街並みやドナウ川に面した高台に築かれたプラティスラバ城、その麓にある聖マルティン教会など多くの見所を擁していた、、が、到着後まずすることはいつものようにバス便のチェックだった、、まだ窓口は開いており比較的応対は親切に感じた、、しかし相変わらずわたしの質問に対する答えは厳しいものだった、、まず運行はあるのだがスロヴァキア北部コシチェ(Kosice この街もこの旅で初めて知った街の一つである)方面にはこのパスでは行けないということだった、、それが同一国内の移動はできないという原則によるものなのか、あるいはこの国での応用規則によるものだったのかはわたしの語学力では理解できなかった、、では、どこなら行けるかと聞いてみると、今来たばかりのプラハ(毎日4便)とウィーンへは毎日便があることがわかった、、肝心のブタペストは?1日1便15時発とのことであった、、ここプラティスラバに来てしまったことは正解だったようだ、、プラハからブダペストへは週2便しかなかったのにここからだとdailyだったのである、、明日の15時発を予約して次はホテル捜し、、どうやらこれまで必ず鉄道または地下鉄の駅がバスターミナルのそばにあったのだが、ここはちょっと街はずれにあって交通手段はバスまたはトロリーバスしかないようであった、、しかしユーロラインの窓口の女性のあたりが柔らかかったようにこのバス停の売店の親父も親切で、ここでバスの一日券が買えたのだけれどその際何番のバスに乗れば街の中心部へ行けるか紙の端切れに書いて渡してくれた、、その数もいくつかあってどれに乗ったらよいか、そのバス停はどこにあるのか少し迷ったが他人の動きについて行って少々あてずっぽに来たバスに乗ってしまった、、ガイドブックの簡易地図を頼りにその行先を追ったが確かに街の中心部へ向かっているようだった、、しかしその時わたしは街の中心といってもどのホテルまたはどのあたりで降りるかを決めていなかったので他人に聞くわけにもいかず、またどこで降りたらよいのかまったくわかってなかった、、で、どうやら中心部を通過し少し外れにかかったところまでいってしまった、、中心部の方角と距離はだいたいわかったので、また、あてずっぼに歩きだす、、と、あろうことか電柱看板にベッドのマークがあるではないか!?、400mペンション20ユーロと表示されていた(スロヴァキアの通貨はユーロだった)、、おー、ラッキー ! !、、その方向に向かって歩きだす、、と、今度はホテル500m先という看板がでてきた、、おーホテルもある、どちらにするか?普通なら迷わずペンションなのだがなぜかこのときはホテルに行ってみることにした、、が、そのホテル500mはわたしに言わせれば誇大広告に近かった、、それはひどいホテルだったわけでなく遠すぎたのだ、、500mなら10分もかからないはず?なのに看板はちゃんと曲がり角ごとに設置されていてそれに従って進むこと2~30分‥、なぜならそれは山裾というか丘の中腹にあったのだ、、つまりわたしは十何キロかの荷物を背負ってずっと坂を上って行ったのだった、、で、疲れ切ってたどり着いた先にあったのはヒドイどころの騒ぎでない、、まったくホテルらしくない金持ちの別荘のような見るからに高級そうな一軒家の建物であった、、すぐに場違いと感じたがここまで苦労してきたのだからと一応インターホンを押してみた、、中から正装の従業員が出てきてわたしを中に案内してくれた、、中の調度も高級なものばかりであった、、しかし人影がない、、ここはいったいなんなんだと思ったが一応聞いてみる、、が、その前にきちんとこちらの意向は述べた、、つまり部屋を探しているのだがここはどうも高そうだ、、参考までに料金だけでも教えてくれと‥、、返ってきた答えは70ユーロでお泊めしますとのこと、、わたしは先のペンション情報を思い出しありがとうと言ってそこを立ち去ろうとした、、するといくらならいいのですかと聞き返された、、まさかこんなところで土産物屋的な交渉が始まるとは思っていなかったので、いやいや言っても無駄ですからと言い渋っているとなおも聞いてくるから、ならば半額ならと言ってみた、、その従業員は電話でオーナーだか支配人に確認している、と40ユーロでOKがでた、、もしその時先の20ユーロの情報を持っていなかったらその日そこに泊まることになったと思うし、実はそれが正解だったのだと後で思った、、情報は逆にマイナスになることもあるのだ、、ただ断った理由は他にもあった、、そこはいかにもハイクラスの宿でわたしの旅装束にふさわしくないし、きっとリラックスはできないだろうとの思いもあった、、感謝と詫びを伝えて山を下り再びもう一つの看板に向かって歩を急ぐと、なんとそこも山登りとなった、、そしてその途中でまた別のホテルの案内板を見つけていた、、新しいホテルはすぐのところにあったのだがペンションはさらにその上であった、、ようやくたどり着いたところはまったくの個人宅だった、、犬に吠えられながらもインターホンを押してみる、、しばらくして出てきたおばさんに英語で聞いてみるがあまり通じなかった、、が、その答えがよかった、、部屋はあります、ただし40ユーロです、、えっ40ユーロ?20ユーロでなかったの??、タブルの部屋だから40ユーロ払ってくれとのこと、、なんかおかしくなってしまった、、それはそうかもしれない、、しかしわたしはたった今、悪いけどここより何倍も何十倍も豪華で立派な高級ホテルを40ユーロで提供してくれるというのを断ってきたばかりなんだ‥、、もちろんそれは言わなかった(言えなかった?)もうあたりは暗くなりかけており寒くなってきていた、、わたしは先ほどの高級ホテルを断ってしまったことを後悔しながら再び山を下りていた、、そしてその道の途中でみていたホテルに行ってみた、、つくりは立派な建物だったが前の2軒もそうだったが周りが住宅地なのでまったくひっそりと佇んでいてホテルらしくなかった、、門が閉ざされてどこが入り口なのかわからなかったのでしばらくうろついていると中からきちんとした身なりの従業員らしき人が出てきた(後から分かったことだがカメラが取り付けられていてフロントで外の様子がチェックされていたのだ)、早速空き部屋はありますか?いかほどですか?と聞いてみる、、門扉越しの交渉である、、彼はすぐに部屋はある、70ユーロだ、と答えてくれた、、70ユーロ?うーんそうだろうな、そのくらいしてもおかしくはないなと思いながらもひと押ししてみる、、もっと安い部屋はないの?そしたら55ユーロまでまけてくれた、、55ユーロかぁ、さっきのホテルは70ユーロが40ユーロになった、、しかし時間がもう遅かったので今更そこへは戻れない、、心の内で0kを出しながら、40ユーロにならない?と言ってみるが、全然取り合ってくれない、、ではlast price50ユーロでどう?と土産物屋のノリで言ってみたが無駄だった、、この勝負はわたしの負け、、あらためて先ほどの40ユーロを悔しく思いだし、これは聞かなかったのだがたぶん先ほどの40ユーロにしてくれたホテルは多分朝食が付かなかっただろうと自らを納得させ、つまり朝食付きで55ユーロを了解した、、中に入るとさすがにここも豪華な調度でそれなりのことはあると思った、、フロントマンはここは4つ星ホテルですからと言って胸をはった、、もちろん部屋の調度も備品・照明・ベッド・浸かれる浴槽等々わたしにはぜいたくすぎるものであった、、ま、そのあともずっと旅は続くことになるが今回の旅の中で一番(ハイクラス&高額)のホテルということになった、、

 まわりは住宅街で商店は一軒もなく食事のできるところもなかった、、フロントに聞くと(もちろんホテルでも食事はできると言ってはいたが)10分も下れば街中だという、、さっそく防寒対策をして街に出る、、が、このときカメラは持たずに出た、、暗い道を下り先ほど降りたバス停のあるバス通りを突っ切ってもう1,2本通りを横切ると賑やかな通りに出た、、しかしここに来るまでの10分くらいの間に店らしい店はなかった、、大通りを渡って教会らしい建物のわきに出たとき右手にライトアップされた白亜のお城が目に飛び込んできた、、美しかった、、ブラティスラバ城だということはすぐに分かったがほんの間近である、、しばらく見とれてカメラを持ってこなかったのを悔やんだ、、取りに戻ろうかとも思ったがその労力、つまり往復30分、また山の手のホテルまで上ってここに戻ってくる気はしなかった、、それにほとんど見当たらないレストランが閉まってしまうのではないかという心配もあった、、たまたまその日は日曜日だったのでレストランは開いていないのではないかと思ったくらいだ、、それにしても一国の首都の中心部にしては静か過ぎた、、この人通りのなさはどいうことなのだろうと訝しくさえ思った、、しばらくうろついたがレストランらしいところは一か所しか見つけることができなかった、、英語の表記がなかったのでちょっとためらったが他に適当な店がなかったので中に入ってみる、、客はいなかったがウェイターが出てきて英語のメニュウを持ってきてくれた、、よくわからないままスロヴァキア料理を注文してビールとグラスワインも頼んでしまった、、ベーコンとキャベツとポテトとクネドラを組み合わせた料理をおいしくいただく、、そしてトータル8ユーロに大満足してホテルに戻る、、久々に湯につかって体を横たえた、、そうバスターミナルの人たち、ホテルの探しで会った人たち、レストランの給仕さん、これまでと違ってなんかみんな優しく親切だったように感じていた、、ま、ホテル代がちょっと高くついたがスロヴァキア、わたしの印象は悪くなかったのだった‥、、

アールヌーボ建築で有名なプラハ中央駅のドーム2010_1010_145505p1020662_640x480

ビロード革命時に市民何十万と集まったヴァーツラフ広場2010_1010_184907p1020693_640x480

旧市街広場;4枚、中段;15世紀初頭に作られたという旧市街庁舎の天文時計2010_1010_153505p1020668_640x480
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プラハ城;4枚2010_1010_170240p1020678_640x4802010_1010_163902p1020673_640x480_2
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カレル橋からプラハ2010_1010_174936p1020686_640x4802010_1010_175211p1020688_640x480

カレル橋から一つ下流にかかる橋Monesuv most付近からプラハ2010_1010_181706p1020691_640x480