独歩の独り世界・旅世界

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アメリカ・メキシコ・キューバの旅 その2)

 娘を一緒に連れて行くことにしたのにはわけがあった、わたしはそれまでに家族との旅を以下のようにやってきた①奥さんとの旅、いわば新婚旅行1978年?約半年②子供達を連れての中国の旅1989年1ケ月③子連れ東南アジア1ケ月1991年④息子を連れてのインド2週間(オウムがあったとしだから1995年?インドでその事件を知る)‥ということでバランス上というか公平をきして、そして高校卒業祝いのようなものを兼ねて連れて行こうと決めたような記憶がある、それに‘ラスベガス5日間の旅’はそんなに高くなかったように記憶している??(当時の資料これから捜します)ということで、後ほどつづきを

 さて、これがブログのいいところ一週間ぶりの再開、で旅の話に入る前に2,3の補足、まずはなぜこの年だったかということで思い出したこと、若いころわたしは21世紀まで生きられるのか自信がなかった、21世紀を迎えるときは53歳、そこまで生きられたら本懐だという思いがあったこと、よって後は余生、となればこのときがひとつの区切りとなる、やはり21世紀を迎えることはたいしたことだったのだ(21世紀は2001年からとの説あり)&もうひとつ書いておかねばならないこと、それは子供たちの名誉のために付け加えなければいけないことだが、本人たちのできの悪さ・学力の低さは決して当人たちの問題でなく、つまるところ親であったわれわれの躾・教育に大いに反省すべき点があったこと、即ち放任の結果であったと思う、学力等はあくまで後天的なものだから、教育不熱心が招いた子供にとっては迷惑?な親の身勝手の所為だったかもしれない、となれば旅行に連れて行くくらいではすまない話である、あーその10年後の今、その娘は決して幸せとはいえない人生を歩んでいる‥

 この旅の概略は某旅行会社の‘ラスヴェガス5日間’の旅に参加し、わたしだけ5日目にロスアンゼルスでツアーから離脱メキシコへ向かう、というもので、たぶんそのツアー自体の料金が航空運賃とホテル代を入れて5万円しなかったはず、だったら娘一人分くらいどうってことないと思ったわけだ(たぶん12月15日ころまでの出発便は料金が安い&もちろん帰りのLA~成田の航空券はそのツアーのものが使える)12月14日午後3時に離陸したKE001便(KEだからコーリアンエアライン?)は9時間のフライトでロスアンゼルスに、現地時間12月14日午前7時、10時40分の国内線に乗り換え11時50分ラスベガス着、ツアーのいいところはちゃんと出迎えがありホテルまで送迎してくれること、ま料金が安いので特にホテルは期待していなかったが、ラスヴェガスという土地柄それでもそこそこのもの、問題はロケーション、これも主なところは見て歩ける位置だったので、良しとせざるを得ない、1Fは規模こそそれほどでもないがもちろん立派なカジノである、その日はホテルに落ち着き夜煌びやかなメインストリートをぶらついた程度、12月15日オプショナルツアーのグランドキャニオンへ、わたしはラスヴェガスもグランドキャニオンも2回目だったが、初めての娘にはグランドキャニオンくらいは見せてやろうということでツアーに参加、途中の雄大アメリカ的景観(砂漠を突っ走る観光バス)もグランドキャニオンに劣らず見もののひとつでもあったからだ、ともかく何においてもデカさ広さはアメリカならではのものである、今でも覚えている印象的な風景は夜遅くツアーバスが砂漠からラスヴェガスに戻るシーン、真っ暗闇の中から突然ラスヴェガスの灯が見えたときの感動、そしてバスは滑るようにだんだんその光の中心へ向かっていく、ちょっと他では体験できない時空のマジックだったように記憶している、翌16日はもう最終日お土産やらを探すためバスに乗ってあちこちへ出かけた、ほんとは一人で行かせたかったが、やはり不安だったらしく、地図を頼りにわたしが連れ歩く、わたしは30年ほど前の記憶は飛んでおり、あらためてラスヴェガスの煌びやかさ、町全体がディズニー化してることに驚嘆、そしてほんのひと時娘は未成年なのでできないカジノで遊んでみた、もちろん少額だけれどそれなりに楽しみ勝ってしまった(.ルーレットしかやらない、世界各地で試してほとんど五分五分)、17日は朝の早い便でロスアンゼルスへ、乗り継ぎの時間が3時間くらい、朝食を食べながら飛行機に乗るまでの注意、成田についてからのことなどを伝えて搭乗ゲートに消えるまで見送る、ちょっと心配、ちょっとセンチになる別れ、もう18なんだから何とかするだろう、少しは一人歩きに自信がつくだろうとの期待もこめて、そしてわたしも一人になる、わたしの旅か始まる‥    つづく