独歩の独り世界・旅世界

他のサイトに書いていた'独歩の独り世界・旅世界'を移転しました

わたしの旅暦 2)

 1990年の旅は12月19日から始まる、例えば今年もちょっと調べてみたのだけれど毎年年末年始は航空券が異常に高くなるのだけれど12月の20日頃までは逆に比較的安い航空券がでている、その境目あたりを狙って旅のスケジュールを立てた節がある、ひとつは会社の休みをできるだけ少なくするため、もうひとつはまだ子供たちが小学生だったので、これもなるべく学校を休ませないため、で子供たち&母親(わたしの奥さんのこと、この頃まではまだ健全な夫婦だった??)は3週間、わたしは1ヶ月の旅となった、それにしても今思うによく会社は1ヶ月も休ませてくれたものだと思う、実はその会社で1ヶ月の休みを要求したのが2回目であった、その年より2年ほど前にも1ヶ月の休みを要求しており、もちろん辞表を持っての交渉で結局無給休暇という形で会社を辞めずにすんだ(まったく別の会社であるが今年も無給休暇という形で1ヶ月の休みがもらえた)、前にも述べたことだが旅人生選択の要点のひとつは会社選びにあって、いつやめてもいい会社であること、重要なポストにはつかないこと、必ず自分の代わりをつとめられる人を作っておくこと、早い話がヒラに徹すること、わたしの場合能力的にもそのレベルの人間であったので負け惜しみも含めての言い草です、つまりできる男だけれどやらないというわけではなかったことが悔しい‥(だから旅人生を選択することになったともいえるかもしれない、よってできる人はやっぱりまともな会社人間・社会人になるべきだと思います、今どき大きな会社にはリフレッシュ休暇とかいうものがあるとのことだし‥)

  この旅暦は逆順で記しているので、その2年前の旅はこの次に書く形になってちょっとややこしいのだけれど、しかるべき順序に従って場所は選択したつもりではある、半年の新婚旅行から帰って子供ができて、わたしは子供の成長を待って10年間旅にでることはなかった、幸いというか2番目の子供は年子だったので、下の子が何とか記憶に残りそうな年齢を10歳前後と見て、彼女が小学2年生の夏に、比較的カルチャーショックの少なそうな国として選んだのが中国、実際はそれはそれでまだ開放政策がいきわたっていない20数年前の中国の旅(自由旅行l)は凄まじいものであったのだけれど、それから2年小学校の高学年に最後の家族旅行として選んだのは東南アジアであった(なぜ最後かというと中学生になると自我が芽生えてきて親の言うことを聞かなくなる、黙ってついて来いというわけにはいかなくなる)、中国に比べればはるかに旅はしやすいし比較的物価が安く人々も穏やか、もちろんわたしが行きたいルートがあったからだ、そのルートを記してこの旅の記録としたい、果たしてその旅をあれから20年たった今子供たちは覚えているのだろうか?単なる親の(わたしの)自己満足に終わった可能性大である‥

 旅の詳細・記録は割愛しルートのみ記すと、まずバンコク往復の格安航空券でタイへ、バンコク周辺を少し回ってバンコクから汽車でマレーシアのペナンへ、ペナンからクアラルンプールを経てシンガポールまではバスだったか?(もしかしたらペナン~シンガポールも汽車だったかもしれない、クアラルンプールの素敵な駅舎に降りた記憶がある)シンガポールからジャカルタへ飛んで、ジャカルタからボルブドールを経由してバリ島まではバス、バリ島で正月を過ごし日にちもなくなってジャカルタからバンコクまで飛んで1991年1月7日わたしはバンコク国際空港で家族を見送る、そのあと10日間やっと本来の一人旅?羽を伸ばしてわたしはタイ国境をノンカイからまだ当時は橋がなく渡し舟でメコンを渡ってラオスビエンチャンに入った、そのときは時間がなくルアンプラバンまで行けなかったのが惜しまれるが、帰り道スコータイやピーマイを巡りながらバンコクに戻る、湾岸戦争の始まった2日後バンコク国際空港のチェックが大変厳しかったのを覚えている、1月18日帰国1月20日から復職した

 いずれにしろいくら旅の楽な東南アジアとはいえ家族4人での貧乏旅行、行き当たりばったりで安宿探しながらの約1ヶ月の旅は好きでなければできないかもしれない‥???