独歩の独り世界・旅世界

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奄美旅 二日目<加計呂麻島>

 まず初めに報告というかお礼を ! なんと、まさかの星☆をいただきました。いやー驚きました。SSDDGGssさん ありがとうです ! 感謝です ! !

ということで気分を良くして張り切っていきたいところですが、すでに終わっている旅はいくら頑張っても面白くなりようがありません、しばらくのご辛抱を !

 

 さて二日目、朝から朝食に郷土食が並んだが写真は撮らなかった。家ではほとんど朝食は抜いていた(プチダイエット?)のであるが、せっかくの手料理を完食したいためにご飯のお代わりをしてしまった。昨日大騒ぎした相客を見送った後、7時半ころまたフェリー乗り場までご主人に送ってもらった(その日の帰りの予測がつかなかったので、軽タクシーの連絡先を教えてもらっておいた)。古仁屋~加計呂麻間の足は町営の<フェリーかけろま>が定時に、古仁屋~瀬相(加計呂麻島西部にある港)間を4往復、古仁屋~生間(加計呂麻島東寄りにある港)間を3往復していた。それ以外の時間帯にはこれもほとんど時間は決まっていたようだが、個人の船が乗合船(海上タクシー)として1時間に一便くらい、それぞれの港間を往復していた(フェリー360円/一人、海上タクシー350円/一人)。我々はちょうど8:10古仁屋発生間(地元の呼び方はイケンマ)行きのフェリーに乗れたのだった。フェリーは数台の車とその乗客、及び我々歩きの乗客を乗せ定時に出航、観光客と地元の人との比率は半々くらいだったか(乗船客トータル3~40人くらい)?たった20分の船旅であったが、迫るくる加計呂麻島と遠ざかる古仁屋の街が背景にあってなかなか興趣は尽きなかった。

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フェリーかけろま

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対岸が加計呂麻(正面辺りが瀬相で生間はこの写真左手)

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出航前の古仁屋↑2枚(上の写真にフェリーターミナル<せとうち海の駅>が写っている)

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生間港に近づく

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生間港に接岸(加計呂麻で走ってる車は95%以上軽自動車)


 8:30に加計呂麻上陸、そこから歩きだしたのは我々だけだった(地元の人は置いてある車、あるいは出迎えの車に。歩きの観光客及び何人かの島民は待機しているバスに)。事前に調べて、島内にも小型バスによる路線もあることを知ったが(如何せん本数は少なくて)これを使っての島内巡りは少々無理と判断、で、予約しておいたレンタカー屋さんまで2~300mを歩く。このフェリーで着くことを事前に知らせてあったので、(電話ではわからなかったがオフィスがあるわけでなく、予約したとき電話に出てくれた)女性が軽自動車を用意して待っててくれた(確かに予約したときにも港から歩くとすぐに営業していないガソリンスタンドがあってそこで待っているといっていたのだ)。手続きも何もなく、免許証だけ確認してすぐに鍵を渡してくれて、何かあったら電話するようにと、ただ島内にはJAFも何もないし、脱輪しただけでも大ごとになるから注意するようにと言われた。一応14時ころ戻る予定と伝えて、hondaの軽自動車で出発、その時出発メーターを記録し忘れて結局トータル何kmくらい走ったのか最終的にはわからなかった(本土で借りた場合それ等の数値はすべて記録されているからそのつもりでいたのだが、結局そんなものはなかったことをあとで知ったのだ)。注意して運転してといわれ、道もわからずどうなることかと最初は多少心配したが、いざ走り出してみると、道幅はそこそこあるししかも全面舗装、何が驚いたかって、まず人はいない、店屋もない、車も全く走っていないに等しい(ほんのたまにすれ違うくらい)、えー、こんなところが日本にあったんだぁ ! といった感嘆、うれしい驚き(いや、いろいろ考えさせられた、島の産業はたぶん今は観光が主で、その多くは移住してきた人たちが携わっているとすれば、昔からの人たちはどんどん島離れしていくのではないかと気になった)、結論を先にいってしまえば、わたしのような偏屈年寄りにとっては、この島の何もなさが気に入った、ということになるが、もしかしてそれは昔からの島民を傷つけることになりやしないかという危惧は少々残る。しかし、海はきれい、なにより島全体が静か、猥雑なものが何もない、汚れた都会から来たものにとってはここほど心洗われ、自然(己)に帰れるところはまず日本にはなさそうだが、といってこの島で生きている人にとっては、あるいは自分がここで生きていくとなったら、けっこう厳しいものがあるということも実感できるのだった(実際人口減少は何十年も前から続いているのである)。観光客としての我々の印象はすこぶる良し、とてもいいところ ! であった。

 さて、改めて今回どうしてここ加計呂麻島が我々にとって目的地だったのかを簡単に触れておこうと思う(もしかしたら一年前のブログ、' 弾丸着弾せず 'に触れているかもしれないが)。実は詳しく説明するのはしんどいのでかなり端折らせてもらって、もし興味がある方は、以下を検索してみてください。<小説 ' 死の棘 ' 作者 島尾敏雄 > これは45年前の作品で、ほぼ事実を小説にしていて、死の突撃を命じられている特攻隊の隊長とこの加計呂麻島に住んでいたミホさんとの出会いとロマンス(純愛物語? いや、その後生き延びた島尾とミホと人間ドラマとでもいったらいいのか?)の最初の舞台がこの加計呂麻島であったのです。だから今の人は、奄美の人でも知っている人はもう少ないと思う。加計呂麻島にはその文学碑があることを知っていたので、もう30年以上も前から機会があれば訪れてみようと思っていた次第、特に愚奥がミホのファンで彼女(ミホも多くの作品を残している)の作品を多く読んでいて、今回は彼女(愚奥)の希望がようやくかなった、ということだった。なのでせっかくの海も(それはそれで日本にもこんなに美しい海があることを知ったのだが)、我々にとっては猫に小判であったのである(昔はともかく今頃島尾&ミホの追っかけでこの島に来る人はほとんどいないのではないか?)。

 

  ということで、まず島尾の文学碑を訪れ、あとは車で島を半周した模様を写真を中心にお届けします。最初に訪れたのは道順からいって押角の集落、ここはこの辺一帯の長者の娘だったミホの住まいがあったところ、当時ミホは写真↓に写っている押角小学校の先生であったはず。

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現在の押角小学校、中学校、果たして今何人くらいの児童が通っているのであろうか?

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メイン道路(県道)から一本中に入った集落の感じ

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押角の桟橋?当時左手の半島を回って島尾は小隊基地からここまでほとんど毎夜通ってきた(今も道があるわけでない、潮が引いているとき)?

 

以下文学碑及びその周辺の写真 6枚 (ちょうど小隊の基地のあったあたりに建てられていた) ↓

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特攻艇震洋の格納庫跡 3枚 全部で5~6ヶ所残っていた ↓

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格納庫前の内海

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先端まで来ると奄美本島が見えた
以上が加計呂麻島文学碑近辺の写真です。今は関係者あるいは少数の物好き以外訪れる人も稀な様相でしたが、流石にアクセス道路も敷地内の管理もしっかりしているのが見て取れた。ちなみに生間~押角は車で30分くらい、そこから文学碑までは10分くらいでした。

 

あとはぶらっと島巡りの写真です、、

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西の方の港、瀬相港の目の前にあった<いっちゃむん市場>、唯一商店らしいところでしたが、土産物が多く昼食代わりになるようなものはなかった。愚奥はソフトクリームがあったので喜んでいた。↑ そこからトンネルをくぐって南側の海にでる、於斉<オサイ>というところの浜辺とロケ地跡の標識?あり ↓ 3枚

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場所不明、美しい浜だったので車を停めた

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徳浜というところ ↑ もらった地図によるとライオン岩というのがあるとのことだったので、かなり苦労して浜辺まで来てみたがそれらしき岩は見つけられなかった。で、浜に出たところで左方(上)と右方(下)の写真だけ撮って帰ってきた。あとで写真を見て、上の写真の左側部分の岩がライオンの横顔に見えなくもないと思えたが、真相は不明。

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浜辺にでる道の石垣

この徳浜あたりから小雨がぱらついてきた。予定ではあと一ヶ所行ってみたいところがあって山道を急いだ。徳浜から30分で最後の見学先、安脚場の戦跡公園に着いた。ここは戦時中の見張り場でもあったらしくかなり高い位置に諸施設が作られていた。そこからの眺めは抜群で、対岸の浜が我々の宿泊先の浜であることがわかった。ということは昨日はそこからこのあたりを眺めていたことになる。いずれにしろ大島海峡をはさんで奄美本島の眺望抜群のところであった。

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写真右上、対岸の浜が我々の宿があった嘉鉄の浜だと思う

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80~100年前の遺物  ↓ 3枚 

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14時の約束だったが13時に生間の港に戻ってしまって、徳浜に行くときに一度通った諸鈍<ショドン>というところが近かったのでそこへもう一度行ってみた。すると先ほど見逃していたところが何ヶ所かあって、折からのスコール?で外に出られなかったが、時間はたっぷりあったので車の中で雨宿りして(そこに食堂があって、やっていればそこに入ったのだが、運悪く定休日だった)、雨がやんで写真を撮って生間に戻る。

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国の無形文化財に指定されている諸鈍しばやという奉納舞台のある大屯神社

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またまた寅さん映画のロケ地記念碑あり

 

 それでも約束の時間より少し早かったので電話して清算に来てもらった。走ったキロ数は不明だったが、時間制で4時間2000円、6時間2300円とのこと、2300円+ガソリン代6リットル弱で約1000円、計3300円はとても良心的に思えた。もうそのころには本降りになっていて、14:30予定の海上タクシーは15分ほど遅れ、傘が一つしかなかったので船を待つ間埠頭でズブ濡れになってしまった。15人くらいの客を乗せた海上タクシーは15時過ぎに古仁屋に着いた。せとうち海の駅の簡易食堂で軽い食事をして、雨でなければ古仁屋の街を少しぶらぶらするつもりだったが(宿のご主人から土産物屋情報を聞いていた)、まったくその気は失せてしまって、これも宿の主人に教えてもらっていた軽タクシーにtelして迎えに来てもらった。軽タクシーもこの雨で忙しく少し待たされたが16時半ころには宿に帰着、ひと風呂浴びてやっと一息つく。

 この日の相客はたぶん東京からといったか中年の女性二人、ダイビングに来たとか、あまり話は合わなかったが、夕食後に(この夜の夕食も素晴らしかった)宿の奥方が夜になるとオカヤドカリの徘徊がみられるので案内してくれるということで、ヤドカリ見物に一緒にでかける。うまく写真には撮れなかったが、確かに防風林のところに大小無数のヤドカリがあっちこっちで殻から出てはい回っていた。ま、ちょっとした風物詩といったところか、また、その時は雨は上がっていたが雲が厚くて見られなかったのだけれど、晴れていれば上空に天の川がかかるのを見せたかった、と奥方は残念がっていた。わたしとしてはそれよりも、その夜もしこたま焼酎を堪能出来だけで満足であったのだが‥??

 

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この夜も夕食(特に煮豚は最高だった)と焼酎を堪能する

ヤドカリの写真はうまく撮れてない

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