独歩の独り世界・旅世界

他のサイトに書いていた'独歩の独り世界・旅世界'を移転しました

今はまっている二人の作家?(どういったらいいのだろうか、正確には著者の方が適切か?)

 ネタがないのでつまらない話を書くことになります。しかし、この記事はぜひとも書いておきたいと思ったので、何をいまさらと笑われるのを承知で、25年も遅れて出会った二人の著者(一人は作家、いや学者か?、もう一人は学者、いや宗教家か?)のことを書きます。ま、いかにわたしが本を読まないかを晒すことになるかと思いますが、基本的に小説の類はパスしていたので、芥川賞直木賞もどうでもよかったのだけれど、ほとんど同時期(今年の8月)に出会った本の著者は、お二方とも素晴らしい天分と才能と博識をもった日本人で、一人は芥川賞受賞作家であったことをあとで知りました。その受賞年度が1994年とあったので、すでに1/4世紀前の話、つまり25年間この方を存じ上げずに来てしまいました。しかし著者紹介を見ていたらどうやらこの方は大学の先生(教授)で、なおかつ音楽家(ミュージシャン?)のようでした。こんな人がいたんだ、と今更ながら驚かされたのですが、その著書との出会いがまた少し面白かったのです。ちょっと嫌味に聞こえるかもしれませんが、暇に飽かしてけっこう図書館通いをしているわたしは、ある時図書館の検索システムを使って(わたしの地元の図書館の検索システムは全く使いづらいのだけれど)ノヴァーリスと打ち込みました。どんなものが蔵書にあるのか見てみたかったのと、借りられるものなら一冊くらい読んでみようかと思ってのことです(なぜノヴァーリスだったかはそのうち‥)。で、もう忘れてしまったいるのでよく覚えていないのですが、確かその時自動書庫というところにはあったかもしれないが、その人の作品は書架にはなさそうでした。ところがその入力文字関連でいくつかの書籍が検索に引っかかったようです、そしてそのなかに見慣れないタイトルの本がわたしの目に留まったのです。‘桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活’、なんだこの本?なんでこんなところにこんな本が出てくるのだろう?ノヴァーリスとどう関係があるのか、不思議に思って検索票をプリントアウトしてその本を探してみました。すぐに見つかった本は小説風だったのですが、パラパラめくって面白そう、かつ読みやすそうだったので、早速試しに借りてみたのです。これが実に面白かった、一気に読んで完全に一発ではまりましたね、こんな小説があったんだ、こんな風に書ける人がいたんだと、興味と驚異(その才能に)を抱きました。その理由の一つが、この時もわたしはその出会いにセレンディピティを感じたことにあります。というのもその本の舞台となっていたところが、わたしの良く知る身近な場所、つまり千葉県で、しかも名前こそ仮に付けているものの、ほとんど実在する場所、店、がでてきたりするので地元であるがゆえに、架空の小説ながらもう目に見える描写であったことから、この著者はおそらく千葉県に住んでいるか、住んでいたことのある人ではないかと思ったほど現実の世界に近かった、なのでその登場人物も、戯画化しているがとてもリアルに感じられたところにあります。不思議なことにその主人公と全く同じような境遇の男がわたしの身近にいたことからも、また、後日借りた同シリーズの続きに設定されていた場所が、たまたまその本を読む前にわたしがいく予定をしていた場所だったり(物語の上での地名は架空のものだが、すぐに同じ場所だとわかった)、そういった偶然性?つまりその本が書かれたのは10年位前のことだと思われますが、それがわたしにとっては共時的に重なったことの驚きというかセレンディピティ的な出会いだと思ったのです。遅れること25年にして出会った著者、もちろん知らなかったのはわたしばかりで、そうとう有名な方だと思いますが、奥泉光とありました。わたしよりも10歳くらい若い方でしたが、大変な才能の持ち主だと思いました、1993年に‘ノヴァーリスの引用’という本(論文?読んでないからどういった本かわからないが)で注目を浴びるようになったとか、それでわたしの検索に引っかかったこともわかりました。桑幸先生シリーズは次に図書館に行った時にも借り、また芥川賞受賞作品の‘石の来歴’も読みました(深く味わいのある作品でした)が、どういうわけか新たな桑幸シリーズを見ることがないのが少し気がかりです。いずれにしろ今後も活躍が楽しみな作家さん、というより注目の日本人、という気がしています。

 

 さて、もう一かたスケールが大きくてパワーの大きいかたを紹介します、というか知らぬはわたしばかりでこの方もその名が知られるようになって1/4世紀がたたんとしているようです。こんな日本人がいたんだと、ちょうど前記の奥泉さんを知った同じ時期(いずれも先月のこと)にやはり図書館でその著作に巡り合ったのでした。その無尽蔵な知識と行動力、そして霊力とも言えそうなパワーにはいつも圧倒されていますし、まことにおっしゃる通りと(その後週に一冊くらいづつ読んでいる)すべての著作に賛同しています。そのパワー全開の氏が、さらに史上稀にみるパワーによって世界を動かした・あるいは変革した人々を紹介した本‘異端力’を昨日読み終えたところです、これはわたしにとって5冊目くらいの彼の本になるかと思います。もちろん有名な方なので、知らなかったの?とバカにされそうですが、町田宗鳳という宗教家(といっていいのか、あるいは宗教学者?、しかしもともと氏は僧侶だったし今でもオールラウンダーとはいえ、やはり抜群な力を持つ宗教家だとわたしは思っている)の方です。最初の出会いは‘死者は生きている:<見えざるもの>と私たちの幸福’という著作でした。昔からわたしは宗教や哲学系の書物が、ま、どちらかという好みで広く浅く読んではいたのですが、常にアンテナを張ってるほどの重病人ではなかったので、これまで存じ上げずに来ていました。が、最初に接した著書から、この人は本物かもしれないという感触を得て、少しでもその神髄に触れようと、だいたい図書館通いは一週間から二週間に一回のペースですが、そのたびに一冊のペースで読み継いでいます。いや、年とともに死について考えるようになってきており(遅すぎか?)著者の著述は、それに対して大いなる慰みをもたらしてくれており、かつてわたしの感じていたことと同じ発想であることにわたしは大いに共感させられているのです。その一つを是非ここで認めておきたいと思いますが、これはどの本に書いてあったか、わたしが何十年来わたしの友人に語ってきたことと同じ考えが披歴されていたので驚いたのです(つまり以下に書くことは氏の著作に同感したからではなくわたしのオリジナルでもある、ということをここで言っておきたいのです)。わたしは3~40年親しくしている葬儀屋がいて(知り合ったとき彼は葬儀屋ではなく、わたしが勤めていた会社の同僚だった)、彼が葬儀屋を始めて以来わたしはずっと彼にいっていた(正確に言うと頼んでいた)ことがあります。それは、ま、遺言みたいなものですが、まずわたしの葬儀を頼む、ついては以下の件何とかならないかと彼と会うたびに語っていました。まず、現行の火葬場で焼かれたくない、灰や骨はどう処理してくれてもかまわないが、焼き方は原野、または水辺か川辺に井桁に薪を積んで焼いてくれというものです。ベナレス(バラナシVaranasi)でインド人が焼かれているようにです。これがわたしにとって唯一の死に方の希望なのですが -  宗鳳先生もおっしゃってましたが - 今のところ法律の壁が厚くて何ともならないのです。そう、それ(同じ焼かれ方を希望されていたの)を宗鳳先生が言ってたのを見つけたときは驚きました、同じことを考えている人がいた ! その時以来わたしは彼の言ってることを信頼するようになったのです。しかし、この方の生き方は半端でないというか、まさに超人ですね?そのパワーの根源がなんであったか、すでに多くの出版物のある氏の著作の略歴にはすべてそれが書かれていますので、また、どの本でも彼のエネルギーを感じることができますので、今頃わたしがこんなことを言うのははなはだ陳腐なのですが、一度氏の著作をお読みになられたらいかがでしようか、と申し上げておきます。ということで今、というか今年からわたしの贔屓に加わったお二人について申し上げてきましたが、著作内容は全く別物、活躍の分野も異にし、おそらく性格も年齢も生い立ちもまったく異なるこの二人に何か共通点があったかについて、少し言及しておきます。たぶん誰もいってないことだと思いますが、それはお二人の思想、考え方は底の方でつながっていた(通底していた)ということで、では、それは何だったかは、どうぞご自分で確かめてみていただきたいのですが、宗教心というか、日本人の心をうたっていること、あるいは日本はこのままでいいの?という視点で非常に示唆に富むヒントを教えてくれているようにわたしには感じられました。町田氏の実践的活動(これも紹介されてます)は、いつの日か大いなる実りをもたらすと確信してます、やはり彼は宗教家だとわたしは思ってます、凄い人だと思います ! !