独歩の独り世界・旅世界

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カンチャナブリ2 あるいはセレンディピティserendipity 2

  前回のタイ・カンチャナブリの続きを書くつもりでいた。タイトルは‘スリーパゴダパスThree Pagoda PassとサンクラブリSangkhlaburi’と決まっていた。それはそのまま旅の続きであった。しかし、なぜかすんなり筆が進まなかったのである。なにかが引っかかっていた。思うところがあって、数日前に図書館へ出かけて、泰緬鉄道について書かれた本を探してみた。検索をかけたら、その数無数にのぼる資料が出てきて、どれにしてよいか迷うほどであった。何の手がかりも予備知識も持ってなかったから、あてずっぼにすぐに手に取れた2冊をとりあえず借りてきたのだった。

 そう今回の旅は、(前回いったように)当初予定してなかったというか、成り行きでそうなったところがあって、他に適当なところがなさそうだったから、カンチャナブリへ行ってみるかと現地で決めたところであった。だから大まかな知識はあったが、それはまったくいい加減なもので、予備知識ゼロでいってしまったようなものだった。で、そこで得た印象だけで前回カンチャナブリの記事を書いてしまったのであった。そこが引っかかっていたのである。いい加減すぎないか?いや、それよりも今一度泰緬鉄道について、おさらいしておく必要はないか?早い話、映画で得た情報(それもほとんど忘却の彼方なのだが)以外何も知ってないではないか?それが筆が進まなくなった理由であった。で、とりあえずそのうちの一冊を昨日読み終えた、たまたまだったが素晴らしい本に巡り合え、かなりの輪郭をつかめるまでになった。そこにはわたしが現地で知った地名や多くのことが出てきて、記憶を新たにしたのであった。それ以上に、もっと重要なことを知ることとなった。いってみれば我々団塊の世代は戦後派と位置付けられ、先の大戦については詳しくは学んでこなかったのだけれど、戦後70年経って初めて知る多くの史実も知ることになった。何より衝撃的だったことは、すでに現在の日本では過去の歴史と位置付けつつある第二次世界大戦は、戦後処理という意味では未だ手つかずのことが多々あることを知ることになった。つまり戦後は未だ終わっていないということ今にして知ったということである、、己の無知を恥じつつ、後追いの知見(カンチャナブリ及び泰緬鉄道について)だが多少でもここに書いておきたいと思う次第である、、よってタイトルをカンチャナブリ2とした。またセレンディピティ2について少し説明させていただくと、セレンディピティというのは偶然性とか、シンクロニシティ現象をいう、すでに450年くらいの歴史を持つ概念である(詳しくはwikiで)、これも多くの本が出ていると思われるので参照してみてください、これは面白いです、、で、実はわたしはすでにもう何年も前に一度そのタイトルでブログを書いていて、今回図書館で借りてきた本を読んでいて、またそんな偶然性に遭遇する箇所が何度かあったので、その本との出会いをserendipity2とうたった次第、、ご理解のほどよろしくお願いいします、、

 どうやってもセレンデピィテイとしか呼べないようなその本との出会いは、最初図書館の検索機で得た詳細情報をもとにして書架を探していたとき、当初の本が見つからずその近くにあったものだった。パラパラめくってみて読みやすそうな感じがして、これでもいいかと借りた本、それがとんでもなく中身の濃い本だったのである。本のタイトルは三つあって、まずシリーズ名が、教科書に書かれなかった戦争PART57(こういう本が出ていたことすら知らなかった)、本タイトルが
‘クワイ河に虹をかけた男’サブタイトルとして‘元陸軍通訳 永瀬隆の戦後’とあった。著者は増田康弘氏、梨の木舎2011年2月20日発行となっていた。著者は1961年生まれの気鋭のドキュメンタリー(映像)作家?いずれにしろ労作、秀作である。

そこで知った泰緬鉄道について箇条書きに書いてみると、

1)泰緬鉄道とは、タイ(泰国)ノンプラドック~ミャンマー(緬国)タンビサヤを結ぶ415kmをいう、1941年ビルマ戦線の補給路として発案され当初乗り気でなかった大本営は1942年6月に発令した、、注目すべき点として一、その目的はビルマに対する陸上補給路を確保し泰緬両国間の交易交通路を確保する、というところにあり(ジュネーブ条約を意識して?)。

2)工事は1942年7月に着工、完成は1943年10月、この1年3ヶ月の間に動員され亡くなられた方はイギリス、オーストラリア、オランダ人捕虜が1万3千人(全捕虜の約20%?)、アジア人労働者数万人(強制連行された数25万~35万人のうちの3割?)とのこと、枕木一本につき一人の犠牲者という表現もあった(a life for every sleeper )。

3)この点は詳らかに描かれていないが、問題はこの強制労働にあって、ジュネーブ条約違反の可能性があったのではないかと思われる、いずれにしろ過酷な拷問、強制労働の実態を描いたフランス人作家ピエール・ブールによって小説として描かれ、それが‘戦場にかける橋’として映画化され世に知られることになった(世界でもっとも有名な橋になったのではという表現もみられた、また負の世界遺産登録の申請も検討されているとのこと)。

4)ところが、小説に描かれた実際の戦場にかける橋は、実はこの橋でなかったことも記されていて、その後にいろんな思惑が絡んで、現在の橋が戦場にかける橋として有名になってしまったというエピソードも語られていた。

5)この本が出た時点でまだ連合軍元捕虜の生存者が何人も存命していて、日本政府に謝罪と賠償を求めて提訴していることも綴られていて、この辺が我々の不勉強なところと改めて認識させられたわけだが、実際それが(賠償と謝罪、他にもありそうだが)なされてないとしたら、やはり日本の政府としては何ともお粗末というか、非常識との憤りを感じた。つまり戦後処理は未だ済んでなかったのかという率直な疑問を感じたのだけれど、そんなことを今頃言い出すわたし自身もお粗末であるのだが‥、、

6)実はこの本は、上記のような認識のもと、一人の元陸軍通訳として従軍し、まさに戦場にかける橋の現場で連合軍の捕虜たちとの通訳を務め、戦後たった一人で謝罪と和解の道を模索し、双方の懸け橋になるべく70年間一人で奮闘努力されてきた永瀬隆氏を密着取材した記録であった、いやすさまじき半生・70年?、こういう人がおられたことが、日本人として誇りであると同時に救いになっているのである。

7)この本は1964年から2009年までの45年間になんと135回タイ国を訪問して永瀬さんが築き上げた日泰親善、及び多くの元連合軍捕虜たちとの和解の模様がつぶさに描かれている、もちろん当時の地獄の強制労働の模様も、、そのあらましと1994年以来のテレビクルーとしての密着取材で築き上げた永瀬氏と満田氏と深い絆をもとに織られた、涙なくしては読めない質の高いドキュメンタリーの誌上再現物語であった。なので詳しくは読んでいただいたほうが早いと思う。ただ、わたしが驚いたことの一つは、この本が発行されてからまだ10年も経っていなかったことであった、つまりこれは過去の話ではないのである。充分に現在形の物語だということであった。ということは今現在、なお我々に問い詰められている問題だ、ということであった。

8)この本を読んで、わたしはもう一度カンチャナブリを訪れないわけにはいかなくなった、たぶん来年中にそれは果たされるであろう、、いや、今度はしっかりとした目的意識をもって、、わたしは以下の重要なところを見逃していたのである。①)ヘルファイヤーパス、②チャイチュンポン寺院とその敷地内にあるJEATH戦争博物館、③連合軍共同墓地(今回写真は撮ったが次回是非献花したいと思っている)、④クワイ河平和寺院(永井隆氏建立)、⑤再訪したいところとしてアルヒル桟道橋、スリーパゴダパス、泰緬鉄道博物館、行けたら行きたいところとして、メイホーソン(第二次世界大戦戦争博物館)、パタヤ(円満善壇寺院)タンビサヤ(ミャンマーの拠点駅)、これだけあるのだから、ある程度の日数は必要となろう、、

9)最後に先のセレンディピティを感じた一説を紹介して、今回の記事を締めようと思う、、この本に登場した永瀬さん一行を方々に案内した現地ドライバーは本の中で以下のように紹介されていた。‘乗用車を運転するのは、サラウッド・プラソプスさん。かつて倉敷に短期留学した経験がある若者だ。永瀬さんのアパートに下宿して、工業学校に通っていた。彼の家はカンチャナブリの老舗ホテル リバー・クワイ・ホテルの向かいで食堂と低料金のロッジを営んでいて、彼の姉のスワンナさんも倉敷留学組の一人だ。’

この箇所を読んだとき少し震えがきた、まさかと思ったが、まさにセレンディピティだったのである。なんとその低料金のロッジこそ、何も知らずに街を歩きながら、その日一泊世話になったわたしが宿泊したホテルだったのだから ! !

こうして上記8)-⑤再訪したいところにカンチャナブリでわたしが宿泊した一泊350Bの安宿、プラソプスクホテルが加わることになった。さて、次回から改めて旅の続きを書き継いでいくつもりであるが、旅をしている段階では、この本のことはまったく知らずに旅していたことと、それを著す時点で新たな情報が加わってしまっていることをきちんと整理して描けるものかどうか、甚だ疑わしい次第である、、